第十六章 汽笛と・・・

男は腕を頭の下に組んで、ぼんやり汽笛の音を聞いていた。

広子は白い指を頬の下におき、隣から男の顔を見つめている。


白いうなじに柔らかな髪が横たわり、シーツから覗く細い肩をいじらしく見せている。

瞳は潤み、唇にかすかな微笑をたたえ、穏やかな時間が二人に流れている。


「昔・・・二年間ほどイタリアにいた・・・」 

高田は天井を見ながら、独り言のように呟いた。 


「その頃、新聞記者として派遣されていたんだ。

女房も一緒だった・・・。


あいつとは、その三年前にスポーツジムで知り合って結婚したんだ。

どっちも水泳部出身でプールで、顔を合わすうち、

どちらからともなく魅かれていった。

幸せだった・・・だが・・・」


男の意外な打ち明け話に女の微笑は消え、真剣な表情で男の顔を見つめている。


「もうすぐ日本に帰るという頃、まだ3月の肌寒い季節だった。

俺が会社にいっている間に川で溺れている子供を助けて、

そのあと、あいつはカゼをひいたんだ。


三日間寝込んだ後、病院に運んで入院させたんだが、

あっけなく・・・本当にあっけなく・・・」


男の目に、涙がうっすら滲んできた。

やがて、小さな光が男の頬を伝わった。


「十年前のことだ・・・」


女は何も言わなかった。

じっと、男の横顔を見つめている。


女の目にも、涙が滲んでいる。

男の気持ちが、いたいほどわかる。


男は、まだ妻を愛している。

十年間、変わることなく。


男の昼間のおどけた表情が強く印象づいているほど、今の涙が深い悲しみを見せて女の心を不安にさせる。


若さゆえに、愛を失った。

もう少し大人であったなら、前の夫と別れはしなかったであろう。


今は大人になって少し年をとりすぎた分、踏み出せないでいる。

分別が女をしばっていた。


女は男を愛している事が今になって、ハッキリと分かった。

狂おしいほど抱きしめて、男を自分だけのものにしたかった。


だが、横顔を見つめながら男の死んだ妻に自分を重ねてしまう。

頬の下の手をほんの少し伸ばせば、男の涙をぬぐうことができるのに。


若さゆえに愛を失い、分別のために愛を奪えない。

難しいものだ、と女は思った。


船の明かりが、ゆっくりと部屋を横切り男の顔を照らす。

男は目蓋を閉じ、軽い寝息をたてていた。


暗闇に戻った部屋の中、女の目だけがかすかに光っている。

ヴェネツィア最後の夜が終わる。


二人の時間は、まだ始まったばかりである。 

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