第十五章 汽笛と睡眠薬、そしてウイスキー2

卓也とさゆりは、暗い部屋に帰ってきた。

さゆりは先に入って、窓辺に寄りカーテンを開けた。


港の夜景と月の光が、ほのかに部屋を照らした。


「きれい・・・」

白い頬が青く染まり、大きな瞳は静かな光を宿している。


まるで夢の中をさまよっているようで、このまま卓也と二人きりでいる事にときめきさえおぼえるのであった。


急に部屋が明るくなり、夢から現実に戻された。


男は照明を点けたあとスーツケースから何か取り出し、水差しからコップに水を入れそれとウイスキーを持ってきた。

小さなカバンから薬らしきものを取り出し、コップの水で流し込んでいる。


「ちょっと・・・胃が悪くてね」

それから、空になったコップにウイスキーをそそいだ。


琥珀色の液体がまるで薬のように感じられる。

男はさゆりの方を向き、大きな手を差し出した。


「もらえるかな・・・睡眠薬。早いうちに飲んでおかないと・・・」


さゆりは少しためらう素振りを見せたが、スーツケースからこれも小さなカバンを取り出すとビンに入った錠剤を2錠、男の手に渡した。


「ウイスキーと一緒だと、ちょっとキツイかも・・・」

卓也を見つめる表情は、後悔しているようにも見える。


「いや、そのぐらいが調度いいよ。

でも、イビキ・・・すごいかもしれないよ」


さゆりはクスッと笑い、カプセルを取り出した。


「大丈夫、耳栓・・・持ってるから。

ごめんね、無理言って・・・でも・・・」


さゆりの言葉をさえぎるように、男は薬とコップのウイスキーを一気に飲み干した。


「じゃあ、先にシャワー浴びていいかな。

あとからじゃあ、寝ちゃうかもしれないし・・・」


「ええ、もちろん。

私も業務日誌書かなくっちゃいけないし」


男はスーツケースから着替えを取り出すと、浴室のドアを開けながら言った。


「高田さん達・・・・うまくいってるかな?」 

さゆりは何も言わず、白い歯を見せている。


船の強い明かりが一瞬よぎって逆光なり、ドキリとする程美しく男の目に写った。

男は顔が赤くなるのを悟られまいと、ドアを閉めた。


さゆりは小さくため息をついてコップを片づけ、業務日誌を取り出した。

ペンを持った手をあごにあて、窓の外を眺めている。


船の灯りが、かすかにゆっくりと移動している。

星が大きな月に遠慮するようにまたたいている。


明日も天気がよさそうだ。

気を取り直し、さゆりは日誌にペンを走らせていった。


     ※※※※※※※※※※※


男は鏡に写る自分の顔を見ていた。

少し痩せたと思った。


強引に病院を抜け出してから十日あまり、もらってきた薬も残り少ない。

何とかもたしているが、以前程、食欲もない。


でも、不思議とおだやかな表情をしている。

三十年間生きてきたが、今が一番幸せなそうな顔をしていると思った。


たくましい筋肉が、呼吸に合わせて動いている。

昔からの性分で、軽いトレーニングは欠かしていない。


入院中も看護婦の目を盗んで、腕立て伏せや腹筋をやっていた。

そうしないと何か落ち着かなく気持ち悪いのだった。


鏡の下の方に写るトランクスがはち切れそうに盛り上がっている。

まだ童貞の卓也であったが、それゆえに美しく愛しいさゆりと同じ部屋に泊まるというだけで、もう爆発しそうであった。


早く睡眠薬が効いてくれないと、自分でもどうなるか自信がない。

浴室に入りシャワーを浴びた。


いきり立った分身が、火傷しそうなくらい熱く脈打っている。

男はさゆりの顔を思い浮かべた。


唇から白い歯がこぼれていた。

短めの髪は肩先で少し跳ね、窓からの逆光で薄く透けてきれいだった。


今夜、天使と一夜を明かす。

吐息が漏れる。


シャワーの音がそれを掻き消していく。

想いが弾けていく。


目を閉じた男の顔に、無数の水滴が心地よく降りかかる。

男の心も、おだやかに沈んでいく。


シャワーの音だけが雨のように、バスルームにこだましていった。


     ※※※※※※※※※※※ 


日記を書き終わり、ぼんやり夜景を眺めているとドアが開く音がしてバスローブをはおった男が浴室から出てきた。

隙間から覗かせる胸板が厚く盛り上っている。


さゆりは男のたくましさに一瞬、目を奪われたが慌てて目を反らし、日誌をスーツケースしまった。


「お待たせ・・・・。

バスタブは洗って、お湯を入れてあるよ」


男は髪をふきながら言った。

顔が赤くなりそうなのを、タオルで隠している。


「ありがとう、じゃあ長くなると思うから、先に寝てて下さい・・・。

電気は消しちゃっていいですよ。

カーテンだけ開けといて下さい・・・」


そう言うと、さゆりは着替えとドライヤーや化粧道具一式を持って浴室に入っていった。 


男は冷蔵庫からカンビールを取り出し、一気に飲み出した。

大きな喉仏が、ゴクゴクという音に合わせて上下に動いている。


熱く火照った身体に、冷たい液体がしみ込んでいく。

まるで、足先にまで達するような勢いで快感が広がっていく。


「フーッ・・・・」


大きな息をついて窓際のソファに座った。

港の光がチラチラまたついている。


とにかく、一緒にいられる。

それで幸せだと思った。


欲望が疼く身体に、早く薬が効いてくれと願った。

男はスーツケースから日記を取り出し、猛烈なスピードで書き出していった。


普段の無口なのと対照的に、美しい詩的な文章が機関銃のようにそれでいてリズミカルに心地よく並べられていく。

これをさゆりに見せれば十分女心を虜にするだけの力はあるのだが、見せることがないと思えるからこそ、激しい慕情をかきたてられるのかもしれない。


さすがにスピードがおちてきて、微かに頭がしびれてきた。

男は日記をスーツケースにしまい、ベッドに潜り込んだ。


電気は点けたままで腕を頭に組み、ぼんやり浴室のドアを眺めている。

あの扉の向こうにさゆりがいる。


生まれたままの姿で天使がシャワーを浴びているのだ。

今、歩き出して入っていけば、その天使を抱きしめられる。


目蓋が重くなってきた。

汽笛が心地よく響いている。


やがて、男も夢の中の海へ旅だっていった。


     ※※※※※※※※※※※


髪を乾かして鏡の前に座り、梳かしている。

バスタオルを胸の所で巻き、大きな瞳がじっと自分を見つめている。


後ろに写る扉の向こうに卓也がいる。

さゆりの胸の鼓動が少し早く鳴っていた。


初めて男と二人きりで夜を明かすのだ。

さゆりは身体を入念に洗った。


別にどうする、というわけでもないのに。

足の指の間までも一本一本、丁寧に泡立てている。


ただその作業はイヤではなく、ときめきを伴って新鮮な感動を与えていた。

そんな自分が不思議な気がした。


ドラマや映画で見てきた古くさい女の仕草が、妙に思い出される。

少しでも、きれいになりたかった。


今は男に戸惑いながらも徐々にではあるが、心は意識していった。

男を愛しているのだろうか。


分からない。


まだ知り合ってから数日しか経っていない。

なのに、こうして同じ部屋で一夜を明かす事になっている。


不思議だと思った。


お湯が暖かく、ゆっくりと心にしみ込んでいく。

泡立ったお湯からスラリと伸びた白い足が見え、しなやかな指がそれにからまり泡を滑らせていく。


何度も何度も同じ仕草を繰り返し、女はこの幸せな時間にひたっていた。

ここ数日間の思い出が心をよぎり、楽しさに白い歯がこぼれる。


男を愛しているのだろうか分からないけど、今この時が心地よいのは事実である。

そう、それだけは・・・自信があった。


身仕度を整え、トレーニングウェア姿でさゆりは浴室から出てきた。

部屋の電気が点いたままで男はベッドで頭に手を組んだまま、あお向けに小さなイビキをかいている。


女は安心と、少しの失望の混じったため息をつき、微笑みながら自分のベッドに座り男の顔を見た。

太い眉が真横に伸びている。


閉じた目蓋のまつ毛が意外に長い。

唇が少し開いて、微かに白い歯をのぞかせている。


不思議なものである。

二人きりのホテルの部屋で、男の寝顔を見ている。


まだ処女である自分が。


女は部屋の明かりを消した。

カーテンは開けたままにしてある。


青白い光が部屋を支配し、夢の世界が蘇ってくる。

ベッドの前にひざまづき、頬杖をしながら男を見つめていた。


静かに時間が流れていく。

これほど夜が心地よいとは思わなかった。


男はずっと、自分を見つめてくれていた。

女が見つめ返すと、男はすぐ目を反らした。


まだ、あまり見つめ合ったことがなかった。 

女は男の頬に、そっと唇を触れた。


大胆な行為の筈が、不思議と自然に出来た。


「おやすみなさい・・・」

自分のベッドに潜り込むと、やがて静かな寝息をたてていった。


ヴェネツィア最後の夜が更けていく。

二人の初めての夜が今、始まった。

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