第十四章 汽笛と睡眠薬、そしてウイスキー1

レストランのテラスから見える夜の運河を、一槽の船が汽笛を鳴らして通り過ぎていく。

ワイングラスを持ったまま、高田はぼんやりその光景を眺めていた。


広子は少し酔ったのか、ほんのり頬を染めて高田を見つめている。

視線に気づいた高田はワインを飲み干し、わざと大きな声で言った。


「やあーうまかった、イタリア料理は飽きないですなー。

魚が新鮮なせいか、くどくなくてワインによく合う・・・」 


広子は何も言わず微笑みを浮かべながら、男を見つめている。


「じゃー、帰りますか・・・」

二人は並んでホテルへの道を歩いていた。 


夜の風が心地よく酔った頬にあたる。

広子はそっと高田の腕に白い手をすべりこませ、もたれるようにして歩いている。


「少し・・・酔っちゃった。

ふふっ・・・若い子みたい・・・」


香水が男の鼻孔をくすぐる。 

いつもの調子で軽口をきこうとするが、あまりにも女が魅力的過ぎて声が出せないでいる。


「今夜は・・・静かなのね」

「いやぁ・・・あの二人、どうしたかと思って。

大西君、しゃべらないからなー・・・」


はぐらかすように男が言った。

腕にある温もりが心に迫る。


ホテルが見えてきた。

男は女をエレベーターに乗せると、部屋まで送った。


「私・・・もう少し飲みたい気分なの」

瞳が潤んで、妖しい光を放っている。


男は吸い込まれるように広子の手を取り、部屋に入った。

窓のカーテンが開いていて、港の夜景が美しく見えていた。


汽笛が時折、思い出したように鳴っている。 

手を握ったまま女は少し体を反らし、男の手に重みを感じさせていた。


瞳は男を見つめたままキラキラと輝き、微笑みを含んだ唇は結ばれたまま柔らかそうに何かを待っている。

やがて、唇が薄っすらと開いた。


「バカ・・・鈍感・・・・」

女は握っている手の力を強め、男の胸に飛び込んでいった。


唇が重なる。

甘い香りが胸の奥まで入ってくる。


女は勝利の余韻に浸りながら、男を心で操っていく。

部屋の照明は点けられることなく、二人を優しい闇に包んでいた。


二人の息づかいだけが、微かに部屋に響いている。

時折鳴る船の汽笛が、それを消していく。


やがて音が遠ざかり、闇の中で白い指が男の背中に爪を立てた。

言葉が欲しいのに、声にしてほしくなかった。


このまま心で男を操り、何も言わず強く抱きしめて欲しい。


「ああ・・・。

バカ・・・何も・・・何も、言わないで・・・。

抱い・・・・て・・・・

もっと強く・・・もっと・・・ああ・・・」


二人の時が刻まれる。


ついこの間までまったく違う人生を流れていた時間が今、合わさってぎこちなく形を確かめるように動いていく。


女の手が、何かを探すように頭や背中をさ迷よっていた。

闇の中で、男がどこかに消えてしまいそうで不安になるのだった。 


重なり合う唇が女を安心させる。

一つに溶け合いながら、時間を二人のものにしていく。


汽笛が又ぼんやりと耳に帰って来た。

ヴェネツィア最後の夜。


二人の時間が今、始まった。

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