第十三章 水上バス
列柱が立ち並ぶ見事なゴシック建築を背景にして、様々な水上バスが行き交っている。
さゆり達4人組も今日は朝から水上バスに乗り込み、美術館や寺院巡りとしゃれこんでいた。
早いもので明日ローマに帰って一泊したあと、夜の便で日本に帰るのだ。
卓也は潮風に短い髪を預けて景色を眺める、さゆりを見つめている。
高田のおかげで、こうして天使のそばで見守る権利だけは手に入れた。
それだけでも充分、幸せを感じているのであった。
自分に残された時間はわずかであるが、それだからこそ一瞬一瞬が眩しく愛しい。
愛する事の幸せは、何ものにも代えがたい。
恋愛経験のない彼にとって、愛されたいとか自分のものにしたい、という感情はあるにはあるが告白等して、今の幸せを台無しにする程の勇気も野望も持ち合わせてはいなかった。
天使の美しい姿を眺め、そのかぐわしい香りと透き通る声を聞けるだけで幸せであった。
穏やかな澄んだ瞳で、男はさゆりを見つめていた。
間断のないおしゃべりをしながらも時折卓也を見る高田の表情は、じれったさと微笑みが入り混じっていた。
この今時珍しいボクトツな青年は、自分がいなくなってからもローマに残るとはいえ、あの一筋なわではいかない、じゃじゃ馬娘を射止めることができるのだろうかと心配になるのだった。
何故、自分がこんなにおせっかいをやくのか、わからなかった。
たぶん何かを覚悟したような青年の行動が、男を引きつけるのかもしれない。
「そんなに気になりますの?
大西さんの事・・・・」
広子が笑いを含んだ表情で高田に言った。
気持ちを見透かされた男は照れたように頭をかいて、広子を見た。
「いやー、自分がこんなにおせっかいだと思ってもみなかったんですよ。
今回、初めてツアーで会った青年なのに、何かほっておけなくてね。
何しでかすかわかんない行動と、あの思いつめた表情を見てると、
何とかしてやりたくなるんですよ」
「そうね、確かにあの見つめかたはすごいわね・・・・。
まるで、そう・・・もう、自分の命がないみたいに・・・」
「そうなんですよ。
そのくせ別にこれ以上は望まないと言うんですよ。
僕がいくらけしかけても、焦る風でもなくて笑っているだけで・・・。
もう、じれったくて・・・あと三日しか僕はいられないし・・・。
いくらローマにとどまるっていっても、あの調子じゃあ・・・ね」
「ふふふっ・・・本当におせっかいね。
やっぱり編集長って、そうなのかしら・・・?」
「いやー・・・仕事ではこんなに一生懸命になりませんよ。
そうだ・・・こういうのはどうです・・・・?
僕があなたにプロポーズして、今夜一緒の部屋に泊まりたいと・・・・。
さゆりちゃんに言うんですよ。
僕と部屋をトレードしてって・・・・・。
も、もちろん僕は夜中、ディスコかパブにでも行って夜明かししますよ。
なあに、もう観光はあらかたしたし、次の日はボーッとしてればいいし・・・・。
広子さんには絶対に、ご迷惑かけませんよ、本当・・・。
無理矢理一緒の部屋に泊まらせれば、
いくら不器用なあいつでも何とかするでしょう。
僕が見たところ、さゆりちゃんもまんざらではないと思うんですが・・・。
い、いやー・・・・無茶ですかネェ・・・?」
広子は高田の話しを聞いて最初は驚いたが、くすっと笑って海の方を見つめた。
髪が潮風にふかれ細めた目がまつ毛に憂いを含んで、ぞくっとした女の色香を漂わせている。
「そう・・・ね。
たぶん少し・・・・無茶かもしれないけど・・・・。
さゆりちゃんも私が頼めば断らないと思うわ・・・・。
でも、そう簡単にはいかないでしょうけど。
きっかけになるかもしれないわ・・・」
広子の言葉に高田は顔を輝かして言った。
「そうですか、広子さんにそう言われると心強いなぁ・・・。
まったくあいつは不器用で、どうしようもないんだからな・・・」
広子は髪をかき上げ、笑みを浮かべた。
そして、化粧を直しに行くと告げて去り際に一瞬、振り向いて言った。
「不器用なのは彼だけ・・・かしら?」
「えっ・・・?」
船の汽笛に交じってよく聞こえなかったのか、高田は顔を上げて広子を見たが、もうその後ろ姿は船内に消えようとしていた。
おだやかな日差しがヴェネツィアの街を照らしている。
イタリア旅行はあと三日を残すのみとなった。
※※※※※※※※※※※
今日は、いつにも増して饒舌な高田であった。
美術館や博物館でもさすがに豊かな知識とイタリアに詳しいのか、専門のガイドも真っ青になるぐらい楽しい話を聞かせてくれる。
そしてさゆりと卓也をそっちのけで、急に広子と親しくなったように二人でくっついている風に見える。
さゆりはおもしろくなかったが、その分卓也と二人きりになる事が多くなり、又それがそんなにイヤじゃなく、トキメキさえ心にわいてくるのが不思議だった。
相変わらず何もしゃべらないのだが、さゆりの言葉にいちいち頷き、一字一句漏らさない姿勢を見るのは悪い気がしない。
常に自分を見守ってくれる事のくすぐったい快感を、さゆりは初めて意識し感じていた。
それが恋なのかどうか、戸惑ってしまう程、純粋でひたむきな卓也の視線であった。
自分はこの青年が好きなのかと、考えてみる。
さゆりと広子で変身させた、この背の高い青年は思ったよりハンサムで優しかった。
ただ、直接告白されたわけでもなく、高田と広子に無理矢理くっつけられているという、シュチエーションがさゆりの心に薄いバリヤーを張らせていた。
ぼんやりとした景色の向こうに、本当に燃えるような恋の情熱があるのか自信のないさゆりであった。
ホテルの部屋に戻ってきて、いつものようにシャワーを浴びて二人で身仕度をしていると、広子がオズオズとさゆりに話しかけてきた。
「ねえ、さゆりちゃん。
ずうずうしいお願いなんだけど・・・」
「何ですか、広子さん・・・?」
さゆりは髪を梳かしながら答えた。
広子は言いにくそうに声を出した。
「あの・・・ね、
私・・・プ、プロポーズ・・・されちゃったの・・・。
高田さん・・・・に・・・」
「ええっー・・・・?」
余りの驚きにさゆりは大きく目を開いて広子の顔を見た。
徐々に頬を染めながら、か細い声を出している。
「それで・・・ね。
私も・・・だしぃ、
今夜・・・あの・・・へ、部屋を・・・ねっ?」
広子は話す内に、本当に恥ずかしくなったのか、ベッドに顔を埋めてしまった。
細い肩が震えている。
とても芝居には見えなかった。
まだ高鳴る胸の動悸を押えつつ、さゆりは広子の肩に手をあてて優しく言った。
「広子さん・・・おめでとうございます。
高田さん・・・いつのまに?
す、すばやい。
わかりました、今夜、私と高田さんの部屋のキーを交換します・・・・。
大丈夫ですよ。
まだシングルの部屋、空いているかもしれないし・・・・。
いざとなったら考えもあるし・・・」
広子は顔を伏せたまま、さゆりの胸にもたれた。
興奮して涙がこぼれている。
「どうしたんですか、広子さん。
ふふふっ・・・子供みたい・・・」
広子を抱きしめながら、今夜の事を考えると胸がざわめく、さゆりであった。
「いやー悪いね、さゆりちゃん・・・。
じゃあ、これから僕達は外でお食事して、
ゴンドラに乗って、それから・・・ムフフフ・・・」
そう言うと高田は、広子の肩を抱くようにしてホテルから出ていった。
残されたさゆりは腰に手をあて、口をギュッと結んで二人を見送った。
卓也は呆然と立ちつくしていた。
さっき、部屋で高田にいきなり言われたのだ。
「おいっ、俺は広子さんと今夜消えるからな。
それで部屋はさゆりちゃんと交換したぞ。
お前とさゆりちゃんが同室だ。
これが最後のチャンスだからな、うまくやれよ・・・。
男なら、死ぬ気で口説いてみろよ」
確かに、いつも死ぬ気だった。
卓也はガンに犯されている。
あと数ヶ月の命なのである。
だからこそ、わずかな時間を大切にしたい。
色々お膳立てをしてくれる高田には感謝しているが、こうしてさゆりと二人きりにされてみると、どうしていいか分からなかった。
ロマンスそのものを否定していた人生なので、焦りそのものが分からないのである。
ただ、この天使を愛おしむ気持ちは日毎に大きくなっていた。
見つめていられるのもあと数日かと思うと、確かに何らかの行動は必要なのだが、もう少しこのまま、自分の気持ちをそっと温めていたかった。
「さて・・・とっ」
愛らしい瞳を卓也に向けて、さゆりは呟いた。
今日は黒のワンピース、さゆりにしては大人っぽい、胸元が大きめにカットされて白い太い縁取りが施されているものを着ていた。
ジャケットも白で少し丈が短めなのが、さゆりの足の長さを強調している。
バッグも小振りのシンプルなもので、卓也にプレゼントされたダブルハートのイヤリングがモノトーンの中でキラリと光っている。
本当に美しいと思った。
日記に何度この言葉を書いたであろう。
今、この日記をさゆりに見せる事ができるのならば、少しはこの天使も自分に関心をもってくれるのだが・・・。
「どうします?
お食事に行きます、それとも・・・」
声を出している内に何故か二人きりである事が意識されてきて、さゆりは耳元が熱くなるのを感じていた。
(やだ・・・何、意識してるんだろ・・・
心臓の鼓動が早くなってくる。
暑いわ・・・)
うつ向きかげんに、バッグをもてあそんでいる。
「少し・・・外を散歩しませんか?」
リードする卓也の意外な言葉に、救われたようにさゆりは顔を上げた。
「ええ、いいですね」
二人は並んでホテルの前の通りをゆっくり歩いていった。
夕暮れが港をピンクに染め始め、汽笛が幾重にも鳴り響いていた。
二人の靴音が心地よく、さゆりの心に響いてくる。
「部屋は・・・とれました?」
卓也が心配そうに聞いた。
さゆりは男の顔を見た後、笑みを浮かべながら話した。
「いいえ・・・どうせ、いっぱいだろうし。
私、いい作戦を考えたんです」
「作戦・・・?」
「そう・・・睡眠薬。大西さん、飲んで下さい・・・。
ウイスキーと一緒に飲むと効きますよぉ。
もう、ぐっすり・・・・ダメ?」
のぞき込むようにさゆりが言うと、卓也は笑い出してしまった。
「それは、いいな。
いや・・・僕はディスコとかパブにでも行って、夜明かしするつもりなんだ。
大丈夫ですよ、心配しなくても・・・」
優しい瞳であった。
どこまでも深く透き通るような眼差しを今、さゆりは感じていた。
(ああ・・・ずっとこの人は・・・
見ていてくれていたんだ・・・・私を・・・・。
サングラスで分らなかったけど・・・優しい目・・・)
さゆりは立ち止まり、涙ぐんでしまった。
「どっ・・・どうしたの、大丈夫・・・?」
卓也が心配そうに聞いた。
さゆりは細い指で涙を拭い、無理に作った笑顔を見せながら卓也の腕を取った。
「ありがとう・・・。
でも、ダメよ、そんな事したらカゼひいちゃうわ・・・。
だから、睡眠薬・・・飲んで・・・ね?」
卓也は預けられた、さゆりの腕の温もりを感じながら、ため息に似た声を出した。
「わかった・・・そうするよ」
汽笛がカモメの声と合わさって、BGMのように二人を包む。
二人はどこへ行くともなく、靴音を響かせて歩いていった。
恋が生まれようとしているのかもしれない。
だが、残された時間は余りにも少なかった。
卓也は又、生きたくなった。
神様がいるのなら、ひざまついて願いたかった。
愛を否定してきた人生だった。
実は、ずっと愛を欲しがっていたのかもしれない。
この美しい天使を愛する喜び。
多くは望むまい。
彼女を不幸にはできない。
これでいいのかもしれない。
人生で最後に最高の想い出を手に入れて死ねるのだ。
ただ、もう少しこのまま歩いていきたい。
街のあかりが少しずつはっきりしてくる。
やがて夜の闇が街を包んでいくだろう。
このほのかな夕暮れが続くまで、歩いてみようと思った。
明日、ローマに帰る。
ヴェネツィア最後の夜であった。
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