第7章 3

 旬一はホテルの部屋に閉じこもりながらルームサービスで食事をとり、シャワーを浴び、ベッドに横たわり、深い眠りに陥る。その繰り返しを止めどもなく続け、日が経つのをいつの間にか忘れてしまった。

 食事とシャワーと深い眠り。どれだけ繰り返しただろうか。やがて旬一の体を蝕んでいた極度の疲労がある日嘘のようになくなっていた。

 その時今まで全く気にもとめていなかったテレビの存在が気になった。旬一はテレビのリモコンを手に取り早速電源を入れた。テレビの画面に突然映りだしたのは人っ子ひとりいない渋谷のスクランブル交差点の映像であった。どうやら対岸の火事と思っていたコロナ禍がいつの間にか日本にも上陸していたようである。欧米諸国の大都市ではロックダウンの処置がなされてそのために大都市がゴーストタウン化されているところが目立った。日本ではロックダウンの処置はなされていないのに人々はただ感染をおそれて街に出ることをしなかったので、渋谷のスクランブル交差点のような場所もゴーストタウン化していた。

 旬一はゴーストタウン化した渋谷のスクランブル交差点に無性に行ってみたくなった。ホテル内の店で外出着を何着か購入した。

 外出着に着替えるとホテルを出て渋谷のスクランブル交差点に向かった。地下鉄の駅のホームは夕刻時間にもかかわらず驚くほど人通りがなかった。感染を恐れて公共交通機関を利用する人が極度に減っているようであった。

 いつもならこの時間帯列車の中はかなり混雑しているはずである。それがゆうゆうと座れるほど空いている。座席に座らないで立っている事自体が不自然にみえる状況である。

 渋谷駅のホームで降りて地上に向う階段を昇っていった。地下鉄の階段を昇って外に出ると、通りはすっかり暗くなっており、街の灯が徐々に灯り始めていた。

 渋谷のスクランブル交差点付近は刑務所に入る以前にはよく遊びに来たところであった。その頃は来るたびにあまりの人の多さに驚いていた。それがいまあまりにも想像を絶するような光景に空いた口が塞がらなかった。地方の寂れた交差点のように行き交う人は疎らであった。付近の店にしても戸締まりをしているところが目立った。そのため以前ならば夜になると眩しいくらいの灯りが薄っすらとぼやけた感じだった。

 旬一は交差点を渡らずにしばらく立ち尽くしていた。どれほど時間が過ぎただろうか。あまりにも衝撃的な光景のため旬一は時が過ぎるのを忘れてしまいただ呆然と立っていた。交差点を行き交う人々は時間の経過とともにますます疎らになり、スクランブル交差点を行き交う人は旬一以外誰もいなくなってしまった。道路を走る車もほとんどなくなってしまった。街の灯が少しずつ消えていった。やがて信号機の明かり以外はほとんど消えてしまった。

 旬一が渋谷のスクランブル交差点まで来た時いつもやってみたいと思っていたが絶対にできないだろうと思っていたことがあった。渋谷のスクランブル交差点の真ん中に大の字に仰向けになって空を見上げることであった。

 信号の明かりだけに照らされた渋谷の交差点に旬一は大の字に仰向けに横になって夜空を見上げた。大都市渋谷のスクランブル交差点で見上げる夜空は驚くほど無数の星が輝いていた。巨大都市東京の一角の夜空でこんなにも無数の星が見られるなんて思ってもみなかったことである。普段は無数のネオンの明かりで星1つ見えない場所である。それがこんなにも無数の星が見られる。

 山林に隠しておいたお金。今旬一が長期滞在しているホテルの部屋の金庫のなかにある。そのお金に関して旬一は罪責感のような思いは微塵も感じてはいなかった。旬一が密かに不正に引き出してきたお金は、会社が税金のがれのために不正に操作して蓄えたお金であることを旬一はサーバーのログをたどって偶然にも発見していた。そのようなあくどいお金を不正に引き出したとしても何ら罪意識は感じないだろうと思っていた。

 今旬一が都会の真ん中で奇跡的に見ている星の輝きがあまりにも美しかった。その星の輝きの美しさは、旬一の心の中にこれまでの人生の中で蓄積されてきた淀んだ思いを一瞬のうちに消し去ってしまった。

 今旬一の心の中には大きな空洞ができていた。その空洞の中に無数の星が無数の輝きをもって美しい光を注ぎ込んでいた。その光は何万光年も先の遥か宇宙の彼方から注がれてくる光であった。すでに消滅した星の光も含まれていた。

 無数のあまりにも美しすぎる光によって旬一の心のうちに信じられないほど美しい思いが醸成されていった。その思いによってある一大決心をしたのであった。そのようは決心をするなどとはまったく思ってもいなかったことであった。刑務所で服役していた間、山林の中に隠しておいたお金を使って娑婆の世界でどのようなことを享受しようかと、そのようなことを考えていた。刑務所から出てからそのお金を好きなだけ使って、やりたいことの全てをしようと思っていた。そのような目標があったので刑務所内での辛い生活に耐えることができたのかもしれない。

 旬一の心は一変してしまい、山林の中に隠しておいたお金を自分の欲望のために使おうという意志は消え去ってしまった。自分に降り掛かっていた苦々しい境遇を社会や他人のせいであると感じて、なんの不自由のない同世代の者に対する妬みや、不合理な社会制度に仕返しをすることばかり考えていた。それが今そのような思いが全く消えてしまった。

 旬一の頭の中に今浮かんでいるのは旬一のように苦々しい境遇にある人たちのことである。ホテルの部屋でニュースをみたり、毎朝ホテルのドアに置かれていた朝刊のニュース欄を読んだり、ホテルの部屋の中に置かれていたタブレットでネットニュースを読んだりすることで、旬一が経験してきたような境遇にある人、それよりも、旬一が経験してきたことよりもずっとひどい経験をしてきた人が想像を絶するほど多いことを知った。旬一はこれまで恵まれた環境にある人に対する妬みと社会の不合理に対する敵対心だけを活力に生きてきた。そんな生き様が一変してしまった。

 旬一の心の中の空洞はもう空洞ではなくなっていた。何万光年も遥か彼方から降り注いできた無数の色の光で満たされていた。それらの光は旬一の心の中でますます輝きをましていった。その輝きは旬一の心の中にすでに芽生えていた微かな思いに宇宙的な活力を与えていた。

 渋谷のスクランブル交差点に大の字に仰向けに横になっている体が信じられないくらい軽くなっているように感じた。いつもなら夥しいネオンの光で星などほとんど見えないところなのに、いまこの場所を照らしているのは点滅している信号の明かりと星の明かりだけである。星の輝きは夜が深まるにつれてその輝きを増していった。星の輝きは今や信号機の明かりを圧倒するほどになっていた。

 星の輝きが増すに従って旬一は体が軽くなっていくのを感じた。今まで感じたことのないほどの軽さである。ひもじい時期があって数日水だけで生活していた時があった。その時は確かにかなり体重が減っていて体がかるいと感じた。そのときの軽さと比較にもならないくらい軽く感じている。ホテルのルームサービスで毎日満腹になるまで食べてきているので体重は減っているどころかかなり増えているはずである。それなのに体は信じられないほど軽く感じる。

 渋谷のスクランブル交差点のアスファルトの上に大の字に仰向きに横になっていた旬一の体はアスファルトに接していた部分が冷たく感じていた。それはアスファルトの硬い感触とともに不快な感触であった。大都会の夜空に輝いている星の輝きが増すに従ってその不快な感覚が感じられなくなっていた。

 信じられないことであるが旬一の体はもはやアスファルトには接してはいなかった。旬一の背中を心地よいそよ風が通り過ぎていくのを感じた。あらゆることが信じられないこの状況の中で今確信が持て信じられることが理解できたような気がした。無数の星が輝く美しい星空に向かって旬一の体が浮かんでいた。

 

 

 




                    了

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針の視線 振矢瑠以洲 @inabakazutoshi

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