第6章 1

 陽介にとって、水源島公園は、瑠津絵との思い出の場所である。にもかかわらず、訪れることのできなかった場所であった。瑠津絵が難病であることを告げた場所である。瑠津絵が短命の宿命にあったことの暗い思い出の場所である。

 陽介と瑠津絵は迷ってしまい、水源島公園の中でも行こうとした場所と反対方面にある、沼地の場所に行ってしまった。そのため、水源島公園のなかでも沼地の場所が、瑠津絵との思い出の場所となったのである。沼地の場所は、旬一が響子に銃を向けた場所もであった。瑠津絵との思い出の場所が、事件の現場でもあり、響子と面識を持つきっかけの場所にもなったという複雑な思いにもさせる場所でもある。

 陽介は、沼地とは反対方面の、美しい草花がたくさん咲いている場所を、以前から訪れたいと思っていた。瑠津絵と水源島へ行ったことがあるが、沼地のある方面だけであった。沼地の反対方面の美しい草花が沢山ある方面には、迷ってしまったため行っていない。陽介はその場所へ行きたいと思っていた。 

 瑠津絵ともう一度水源島公園に来て、その時は、沼地のあるところではなく、美しい草花がある方面に来たいと思っていた。だけど、なかなか来られなかった。結婚してからでも来てみようと思っていたが、とうとう来ることができなかった。それは、瑠津絵の健康診断の結果報告を連想してしまうことが、原因だったと、今になって陽介は、胸がつかえたような気分とともに思い出すのである。

 その日あえて水源島に来る気になれたのは、旬一の事件の件で、水源島公園の沼地に来ることになったことがあったからかもしれない。無防備の女性に銃を向けるという、そのような卑劣な光景が、瑠津絵の口からの難病の告白という暗い記憶を、払拭してしまったような不思議な感覚である。

 陽介は、その日特に前もって何か予定があったわけではなかった。ただ無性にその日に、有給休暇を取りたいという思いが出てきた。気分がどこかすぐれなかったというわけでものなかった。仕事に行きたくないという、たまにひょっと訪れてくるようなわがままな気分でもなかった。なぜかその日に、有給休暇を取って、自分を可能な限り束縛から、自由にしていたい。自分の思考を何か非日常的な環境においておきたい。なぜそのような気分になったのかその時は分からなかった。

 応接室のテーブル席で響子と相対して座り、話をした。譲治と章星は有給休暇でその日同席しなかった。響子と相対して話している時、陽介は響子に向けられた自分の視線が、事情聴取の時の視線と異質のものであることに気がついた。事情聴取の時の陽介の視線は、譲治と章星の視線に混じって投げかけられたものであった。譲治と章星と同じ心の状態、公務についている時の心の状態。そのような思いで投げかけた視線であった。

 響子と二人だけで相対して、話している時の視線はそれとは違っていた。陽介の内には公務上の束縛はなかった。硬い殻に包まれた被疑者の内面から、真実を引き出すためには、むき出しの内面から投げかけるような視線は、機能しない無用の長物になってしまう。そういう時陽介も譲治も章星も、むき出しではなく、武装した内面の状態で視線を投げかける。事情聴取の時は、被害者としての事情聴取であったにもかかわらず、事情聴取という形であったということもあり、陽介と譲治と章星の三人でいつもの公務上の流れの中にあったということもあったので、響子に投げかけられた視線は、武装した内面とまではいかなかったとしても、少なくともありのままの内面状態から、投げかけられた視線とは言えるものではなかった。

 テーブル席で響子と相対して、座り、二人だけで話した時、陽介は、響子に、ありのままの心の状態から、視線を投げかけた。響子が、その視線が、事情聴取の時の視線とは、異質のものであることに、すぐに気がついたことを、響子が一瞬返した視線から読み取ることができた。

 その瞬間、響子との会話が、事情聴取の時のものと全く違うものになった。響子との会話が至福の時となっていた。話題が瑠津絵に関することになった時、陽介の頭の中は真っ白になってしまい、その後の記憶が、ほとんど残っていないような尋常ではない心の状態なってしまった。瑠津絵の話題になった後の記憶で、陽介の心の中にはっきりと残っているのは、その時の時間を忘れてしまうほどの至福の状態であった。その日、家に帰ってから、陽介は響子と再び会うことがないかもしれないという、現実を体全体に感じ、いいよもない寂寞感に襲われた。眠ることができなかった。カーテンを閉めていなかった窓から差し込む朝焼けの赤い光に照らされた陽介は、溢れるほどの涙を両手で抑えられなくなった。嗚咽が抑えられなくなった。声を上げて泣いてしまった。

 そんなことがあったから、有給休暇をとったわけではないことは明らかであった。有給休暇は響子とテーブル席で相対して座って話した日以前に申請していたからだ。

 陽介は、今水源島の沼地の反対方面にある、美しい草花の沢山咲いているところを歩いている。沼地の場所とは違って、沢山の人々が訪れていた。家族連れ、若者のグループ、若い男女のカップル、老夫婦、中高生のグループ、大学生のグループ、植物鑑賞のサークルらしきグループ・・・・様々な人々で賑わっている。沼地の場所とは雰囲気が随分違っている。

 あの日迷わないでこの場所に来ていたらどうなっていただろうか。このような賑やかで明るい雰囲気の中で、瑠津絵は健康診断の結果を正直に話すことができただろうか。もしかしたらできなかったということもあったかもしれない。もしそうだったとしたら、瑠津絵は陽介のためを思って、嘘をつき、演技をして、陽介との結婚の約束が破綻になるように仕向けていたかもしれない。

 そう考えた時、陽介は、あの日水源島公園で迷ったことは良かったのだと思った。短い結婚生活であったが、瑠津絵との結婚生活は陽介にとって充実したものであった。陽介にとっての宝であった。家族連れのグループの中から子供達の声が聞こえる。陽光が公園全体を照らしていた。

 陽介は瑠津絵を水源島公園の草花の美しい場所に連れて来たいと思っていながらできなかったという後悔の思いがあったが、美しい草花の輝きの中にその思いが溶け込んでいくような気がした。

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