第6章 2

 響子にとって水源島公園は、いままででもっとも辛い体験をした場所となってしまった。拳銃を向けられるという死と隣り合わせとなる恐怖を体験した場所である。尊敬と好意の思いをもっていた同僚に裏切られるという屈辱的な体験をした場所であった。身近にいる人で最も信頼している人に裏切られるという最悪の孤独を経験した場所である。

 そのような、悪い思い出しかない場所になぜ来ようとしたのか、響子は自分でも分からなかった。水源島公園でも沼地に絶対行きたくないし、行こうとは思っていなかった。沼地の反対方面にある美しい草花が沢山咲いている場所へ行きたいと思っていた。たまたまそれが同じ水源島公園にあった。ただそれだけのことであったのかもしれない。

 水源島公園にある美しい草花の咲いている場所に行きたい。響子はなぜそのような思いが浮かんできたのか自分でも分からないが、そのような思いから来たのかも知れない。水源島公園の沼地には、忌むべき思い出しかないのに、いくらその場所から反対方向の離れた所になっても同じ公園内にある。そんな障害があったのにもかかわらず、なぜ水源島公園に来たいと思うようになったのか響子にはよく分からなかった。

 だが、漠然とした記憶の片鱗のようなものがあった。響子はそれを意識していなかった。陽介が死別した妻と行こうと思って、迷ってしまい沼地に行ってしまった。陽介と彼の亡くなった妻が、本当は行きたかったのに行くことが出来なかった場所、同じ公園内であるが、沼地の反対方面の離れたところにある美しい草花の咲いている場所が記憶の片鱗として、響子の記憶の片隅にあることを響子は、意識していなかった。

 記憶の片鱗であるが、嫌悪すべき思い出しかない場所に近いにもかかわらず、水源島公園の美しい草花の咲いている場所に来させた。響子はそのことを意識することがなかった。

 響子は、悪い思い出しかない公園に自分でも分からずに来たことに、自分ながら驚いていた。何が彼女にそうさせていたのか彼女は分からなかった。特にその日予定があるわけではなかったのに、有給休暇の申請をしていた。響子は前日自分の予定表を確認して、気がついたほどであった。

 同じ公園内であっても、美しい草花の咲く場所は、沼地と違って、多くの人々で賑やかであった。子供から大人まで、様々な人々で賑わっていた。

 沼地の場所とこの場所は全く違っていた。響子は草花の美しい場所を見て納得できた。あの沼地は公園にするための整備がほとんどされていないというよりも、まったく手がつけられていなかった。道理で誰も人がいなかったわけである。旬一はそれが分かっていて沼地へ誘っていったのかもしれない。旬一の計画は人が誰もいないことが最低限の条件であったわけだから。響子は尊敬と好意とそっくり入れ替わった旬一への憎悪がさらに増していくのを感じた。

 美しい草花が咲く場所に人々が多く集まるのは、美しい草花だけのためではなかった。子供が遊べる遊具があった。子供連れの家族が多いのは、ここにしか見られないであろう遊具も見られたからである。これだけの物珍しい遊具があれば、子どもたちは一日中いても呆れることはないだろう。響子が初めて目にするような遊具がたくさんあった。一体どのようにして遊ぶのだろうと思える遊具が数多くある。見ていると確かに子どもたちは上手に遊んでいる。なるほどそんなふうにして遊ぶのかと思ってしまう。子供は遊びの天才であると思わされてしまう光景である。

 小高い山がある。何周も周りを迂回しながら頂上まで登れるようになっている。緩やかな傾斜で、アスファルトが敷き詰められた小道を歩いていくので、小さな子供でも、高齢の人でも難なく頂上までたどり着くことができる。

 小高い山の頂上には、展望台があり、数台の望遠鏡が備えられている。肉眼で街全体を見渡して、自分の馴染みのある箇所を定めて望遠鏡で見るというような楽しみ方ができる。

 頂上には、小ぢんまりとした美術館がある。水源島公園に見られる草花を模写した絵が展示されている。小洒落たレストランがある。公園の平地の所には、ゆったりとした広さのフードコートがあり、ファストフード中心の食事ができて、子連れの家族が気軽に食事ができるようになっている。頂上にあるこの小洒落たレストランは、大人が静かな雰囲気で食事ができる場所になっている。

 響子は、アスファルトの小道を頂上に向かって歩いて行った。山の斜面を廻りながら、斜面を少しずつ登っていく。 頂上にたどり着くまで、360度周るので、途中であっても、公園の全景を見渡すことができる。

 沼地のある方面の斜面の小道を、歩いた時、沼地がとても小さく見えた。旬一によって銃を向けられて、死の恐怖を味わった場所であるが、遠くて高い所にある山の斜面から見た時、ミニチュアのように思ったよりも小さく見えた。沼地であった事件の記憶が、重々しい杭のように、響子の心に突き刺さったままであった。

 沼地とその周辺が、ミニチュアのように小さく見えた時、そこであった事件の記憶も小さなものに見えてきたように感じた。響子の心の真ん中に突き刺さっていた忌々しい記憶は、心の片隅に日常些末の記憶の断片のようになって追いやられてしまったような気がした。

 公園の全景を見渡しながら歩いている内に、響子は頂上付近を歩いていた。頂上の建物の一部が響子に見えてきた。美術館とレストランである。美術館とレストランの建物の全体が、見えると、展望台とそこに設置されている望遠鏡も見えてきた。

 建物の周辺は、芝生で覆われた広大な庭園であった。数多くのベンチがあり、四阿もあった。殆どは大人であったが、大勢の人々が所狭しと、思い思いの余暇を満喫しているようであった。

 響子は、美術館の方へと足を進めていった。離れたところから見たときには、とても小さく見えたが、入り口付近までくると、思っていたほどは小さくないので、何のためらいもなく、建物の中に入った。

 入り口から進むとすぐにチケットも販売している受付があった。その先には二部屋の展示場があった。一つはある程度の広さの展示場であるが、もう一つは可成り小さな展示場である。小さい方の展示場は入場無料という見出しがあったので、気軽に入れることから、その部屋の方に入って行った。中に入ってみると、思ったほど小さい部屋ではなかった。

 部屋の壁一面に草花や野草や雑草といったようなゆるい分け方で、分類された植物のイラスト画が展示されていた。それぞれのイラストには、詳しい説明文が添付されていた。植物の名前で、特に雑草の名前で、聞き覚えのある名前が、立て続けに響子の目に止まった。あの日旬一が説明した雑草の名前だ。説明書きを読んでみると、ほとんどが毒草であることがわかった。旬一に対する尊敬の思いすべてが、消えていたと思っていた響子であったが、そのとき心の片隅に旬一の植物に関する知識に対しての尊敬の片鱗が、微かに残っていて、その瞬間跡形もなく消えたような気がした。

 頂上の2箇所に展望台があった。沼地の反対方面を臨んだ展望台へ向かっていき、手すり近くまで進んだ。沼地の周辺の景色と違って、公園の途中から広がっている街全体の景色を見渡すことができた。山頂の展望台から街の全景を見下ろしていると、ここが沼地とは全く無関係の世界のように響子には思えた。

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