第5章 6

 応接室で陽介とテーブル席で相対して座った時、いつも両側に座っていた譲治と章星がいないことに気がついた。そのことが、響子にとって然程重要なことには思えなかった。そのことはそれほど考えてはいなかったが、二人のうちどちらかが陽介だったら、どう思っていただろうか。響子は一瞬の間そんなことを考えた自分が意外だと思った。そのようなことを考えたのはほんの一瞬だったので、その考えは記憶に残らなかったのかもしれない。

 二人だけだったので、陽介の視線だけが、響子に向けられていた。列車の中とレストランの中で向けられたとき以来だったかもしれないと思った。そのとき感じた異様な気配を感じないのはなぜだろうか。同じ人から向けられた視線である。二回目に会ったとき、数枚の写真を見せられて、彼の死別した妻だと聞かされて響子は驚いた。響子とあまりにも似ていたので、一瞬合成写真だと思ってしまい、それらしいことを口走ってしまったくらいであった。陽介は他の写真を見せてくれたが、確かに、様々な状況の表情や仕草を見ると、自分とは似ていないと思える写真も少なくないと思った。だけど、響子には陽介の妻を彷彿させる面が少なくないことを、後で見せてくれた沢山の写真は証明してくれた。

 響子が陽介の妻と似ているので、列車とレストランの中で響子を見たとき、じっと見てしまったということを聞かされたので、陽介の視線に異様な気配を感じなかったのだと最初は思っていたが、それだけではないと響子は思った。

 陽介とテーブル席で、対面して座っている。響子は、旬一の時と何か違うものを感じた。旬一に対して確かに、尊敬を持つようになって、次第に特別の感情を持つようになっていった。しかし、旬一に対して持っていた尊敬の念も特別の感情も、響子が自分の中で作り上げた部分が多くを占めていたことが、旬一に関する事件以降、旬一を冷静に見られるようになったこともあるかもしれないが、響子に見えてきたような気がする。

 陽介の場合は違っていた。陽介には実際列車とレストランの中で会っていた。その時、響子は陽介の視線だけを感じていたのであるが、ストーカーのように感じていた。しかしその時の陽介の視線に対する異様な気配は彼女が彼女の中で作り上げたものであった。

 大学時代に響子にストーカー的に異様な視線を投げかけていたストーカーの加害者が、今回また列車の中で、一緒になり、響子にストーカー的な視線を投げかけた。非公式に陽介と譲治と章星にストーカー被害の訴えをした。陽介と譲治と章星は非公式に対処してくれた。それ以降そのストーカーの加害者は響子の前に現れることがなくなったのだが、そのストーカーが響子に投げかけた異様な視線が、陽介の時と同じように、響子の中で作り上げられたものであるかというと、全くそのように思えない面があった。

 ストーカー加害者の視線の異様さには何か、すべて彼女の中で作り上げたと言えない、実体のある異様さがあるように思えた。そのストーカー加害者は実際異様な行動をしていた。駅で響子を待ち伏せし、響子に分からないように離れたところから、響子が改札口を通るのを見届け、一定の距離を保ちながら改札口を通っていき、響子が乗る列車に響子が乗る車両から数両はなれた車両に乗り込む。列車が止まるたびに、響子が乗る車両に近い車両に移る。響子と同じ車両に乗り込むと、響子をじっと見つめ続ける。この行動の異様さがストーカー加害者の内に秘められている異様さの存在を証明している。

 列車とレストランで陽介の視線から感じていた異様さは響子の内で捏造したものであった。陽介の異様な視線の中には実際には異様さはなかった。

 応接室のテーブル席で、陽介と相対して、陽介から視線を感じて、異様さを全く感じなかった。陽介と相対してテーブル席に座りながら、陽介の視線から温かいものを感じた。陽介との出会いは、ストーカーと勘違いした面があったので、その勘違いが色眼鏡のような働きをしていて、勘違いと気付いた時、色眼鏡なしの、ありのままの存在として、陽介を見ることができたのかもしれない。

 今、響子の記憶にきざみこまれつつある陽介は、響子の想像の中で、手を加えられた陽介ではなく、ありのままの陽介である。旬一の場合と違う。

 あの日水源島公園で、響子の内にあった旬一の像が、一瞬の内に崩壊した。コンピューターとインターネットに関する突出した知識の故に、旬一を尊敬するようになった。響子のパソコンのデスクトップの背景の写真が勝手に変えられてしまうハラスメントなことがあって、旬一がそれを解決してくれたと響子は思った。実際はそうではなかったのだが、そう思った響子にとって、響子の旬一への尊敬の思いを深めることになった。そのような中で、旬一への特別の感情が芽生え、増幅されていった。水源島公園で旬一から今まで想像もしなかった言葉が、発せられた時、地球が崩壊するのではないかと思うほどの衝撃が響子の体全体と心を、根底から震撼させた。旬一への思いと共に、響子の内で築き上げられてきた夢と憧れが、一瞬の内に脆くも崩れ去ってしまった。

 響子に向けられた銃は、現実を見せてくれるものになったのかもしれない。旬一が、響子に銃を向けた時、響子の内で醸成されてきた旬一が虚構のものであったことが、白日のもとに暴かれたような思いがした。響子の内の旬一に纏わる記憶が、嘘で塗り固められたものでできていたことに気づかされた。

 旬一に、銃を向けられて、自分の命が終わってしまうかもしれないという、最悪の場面の映像が響子の内に映し出されて、響子の目から溢れるほどの涙を流れさせたということもあるが、響子にとっての尊敬と信頼の対象であった人に、裏切られたという絶望感が、彼女の目から、信じられないほどの涙を流れさせたということもあった。

 そのような絶体絶命のような状況の中で、不思議なことにあの異様な気配を響子は感じた。その瞬間、旬一の背後から両手が伸びてきて、銃を持っていた旬一の右手首を掴んだ。鈍い音がした後、銃が地面に落ちる音がした。

 その時、旬一の銃を持った手首を両手で掴んだ人が、列車とレストランで響子に異様な気配を感じさせていた人であることに、響子は気がつかなかったと思っていたが、響子の深層心理の中で、認識していた。

 被害者としての事情聴取で、響子はテーブル席で、陽介と相対して座った時、列車とレストランと水源島公園で感じた異様な気配を、確かに感じてはいたが、それは無意識のうちで、意識していなかっただけであった。

 異様な気配は異様ではなくなっていた。陽介の視線が、もはや異様な気配ではなくなっていた。

 応接室で、陽介と二人だけで相対して座った。譲治と章星は有給休暇で同席できなかったからだ。事情聴取の時は譲治と章星が陽介の両側に座っていた。響子は三人から視線を浴びることになっていた。

 ストーカー加害者から受けていたストーカー的な視線の被害を、陽介と譲治と章星に非公式に訴えていて、非公式にその後の状況を話すための、場であったので、陽介と譲治が同席しなかったことに響子は何の疑問も感じなかった。

 応接室のテーブル席で陽介と二人だけで相対して座る中で、陽介からだけの視線を浴びる中で、陽介の視線には異様さというものが微塵もないことに気づかされた。ストーカー加害者が響子にストーカー的な視線を浴びせるために響子の乗った車両に乗り込んだ時、陽介がその同じ車両に乗り込んで、ストーカー加害者に浴びせた異様な視線とは違っていた。ストーカー加害者に、陽介が浴びせた視線は、ストーカー加害者の内に、陽介の内には実際には存在していない異様な気配を、捏造させるものであった。

 列車とレストランで、響子が、陽介の視線から感じた異様な気配は、響子が、勝手に自分の内に捏造したものであった。陽介の内には微塵もないものであった。

 テーブル席で陽介と二人だけで相対する中で、響子は異様な気配というものが一欠片も存在しない陽介の内から投げかけられた視線を、意識的に感じた。それは温かみのあるもので、響子を包んでくれるような奥深さを感じさせるものであった。

 その日、自宅に帰ってから、響子は偶然にどこかで、会うことがない限り陽介とは会うことがないということに気がついた。その時、言いようのない寂しが、少しずつ沸き上り、身体中が火照るような違和感を覚えた。

 旬一に対して感じた特別の思い、感情というものは、響子が思い描いていた理想の恋慕的風景というものがあって、その風景の中に無理やり自分を重ねていたのかもしれないと響子は言葉には言い表せないが、心の片隅でその意味するところを理解できたような気がした。響子の旬一への特別の思いは、響子の心の中で、捏造されてきた実体のない、現実味のない虚構の塊であったのかもしれない。

 陽介への思いは全く違ったものであった。出会いそのものが、誤解を生み出すような宿命的な面があったからかもしれない。響子を列車の中で見かけたとき、あまりにも瑠津絵に似ていたので、ついじっと見つめてしまった。レストランの中でもそうであった。陽介にとってそんなに長い時間見ていたつもりはなかったが、響子の瑠津絵との類似が尋常でなかったため、陽介は自分では気がついていなかったのだが、通常の心の状態ではなかった。響子を見つめた時間が、陽介にとって一瞬に思えたとしても、実際は一瞬ではなかった。至福の時や歓喜の時が、どんなに長い時間であっても、一瞬の時に思えてしまう。時間とは摩訶不思議なほど主観的な面がある。そして通常の心の状態だったら、相手に気づかれずに見ることなど然程難しいことではなかった。だが、響子に視線を向けたことが、気づかれてしまった。通常の心の状態の陽介だったらありえないことであった。

 響子にとっては、見知らぬ人に、鋭い視線を向けられた時、たとえそれが一瞬であっても、一瞬とは思えない長い時間に感じてしまう。通常の心の状態ではなかった陽介は、とても一瞬とは思えないような時間響子を見つめてしまった。このような二人の心的状況の中で、響子が陽介の視線を異様な気配と感じてしまったのは、必然的なことであったかもしれない。

 このように陽介と響子の間には最初誤解によって生じた障壁のようなものがあった。

 応接室で、3度目に陽介と響子があった時、テーブル席で相対して、座っていた時、陽介の両側には、事情聴取時と違って、譲治と章星は座っていなかった。陽介と響子の間には、最初に会った時にあった誤解から生じた障壁のようなものはなかった。

 響子は陽介の内にある虚構ではなく、実体のある、ありのままの陽介を、彼の視線から感じ取ることができた。響子と陽介の間で、時間の流れが、短く感じてしまうという共通の意識の変化があった。響子は、陽介が感じたように、陽介とテーブル席で相対して、至福の時を過ごしていた。響子はその時自分が感じていることを意識していなかった。

 今自宅で、応接室のテーブル席に陽介と相対して、話していた時のことを思い巡らしていると、その時響子は自分が実際感じていたことが、甦ってきた。陽介と時間を忘れるほど長い時間話していた。どんな話題であったか全て覚えているわけではなかった。話の途中から、その時響子には気づかなかったのであるが、響子は正常な心の状態ではなくなった。会話の話題よりも、陽介といることそれ自体に意味があると、無意識内に、感じていた。

 陽介との間に最初の時にあった障壁がなくなり、陽介の視線だけでなく、声の調子、話題の内容ではなく、話の合間から垣間見られる陽介の個性、仕草そしてありのままの陽介が、響子の心の中の記憶の中に実体のある形で刻み込まれていった。その時響子はその存在さえ気づかなかった。

 今自宅で、陽介との会話を思い巡らしていると、響子は、記憶の中に刻み込まれていた一つ一つを重みのある、現実として認識するのであった。

 カーテンを閉めていなかった窓から、赤い光が部屋を照らしていた。朝焼けの太陽が少しだけ顔を覗かせていた。窓越しに朝焼けの赤い光が街全体を照らしていた。窓越しに差し込んでくる赤い光が、響子の心にある陽介といた記憶に染み込んでいくような感傷的な思いが押し寄せてきた。陽介とは、どこかで偶然に会うことなしには、会うことはないという現実が目の前に、厳然と存在していることを、朝焼けの赤い光が気づかせてくれたような気がした。響子はそのことを実感したことに自分で気づいた時、胸にこみ上げてくる言いようもない寂寞感で体全体が、感覚を失ったように、自分の体ではなくなってしまったように感じた。

 知らず知らずのうちに、涙が床を濡らしていた。響子は自分がどれほど大きな声を上げているのか気づかないほどの声を上げていつの間にか泣いていた。

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