第5章 5

 陽介はその後、響子と何を話したのかほとんど覚えていなかった。話題が瑠津絵になった時、頭の中が真っ白になってしまったような気がした。響子の顔と姿があまりにも瑠津絵と似ていたので、声については記憶がないほどに気にかけていなかった。響子の声の響きが容姿に負けず劣らず似ていたので、そのため却って意識することなく、自然に聞いていたのかもしれない。

 事情聴取の時には、被害者としての調書作成に注意を集中しなければならなかったためか、響子の声についてはほとんど気に留めなかったのかもしれない。

 二回目の時は、事情聴取と言っても、前回響子が言い忘れたことを聞いて、調書を訂正するだけの作業であった。被害者としての事情聴取が終わった後、響子から非公式に、申しだされたストーカー被害の訴えが、実際は中心事項であった。そのストーカー被害の内容が、陽介の失態とも無縁とも言えないものであったので、響子の声を気に留める余裕などなかったのかもしれない。

 今回、響子に来てもらったのは、ストーカーの被害を非公式に聞いて、それに対して、陽介と譲治と章星が非公式に対処したのであるが、その結果を聞くためであった。

 譲治と章星は、有給休暇で出られなかった。陽介は応接室で、響子と二人だけで話すことになった。

 ストーカーの被害がなくなったという報告を、聞いて陽介は安心した。響子は、陽介と譲治と章星がこのためにしたことを尋ねてきた。実際、陽介と譲治と章星が、したことはストーカー加害者が、響子にしてきたことであった。ストーカー加害者が響子にしてきたことは彼女を列車の中で見続けることであった。陽介と譲治と章星は、ストーカー加害者が、列車で響子が乗る車両に乗り込んだ時、交代で乗り込み、ストーカー加害者をずっと見続けた。気付かれないように監視尾行することに慣れている陽介と譲治と章星であるが、相手に気づかれるように見続けることは、拍子抜けするくらいの簡単なことであった。これに関連して恋愛の話題もあった。このあたりのことまでは、話した内容については記憶にある。

 しかし、瑠津絵のことが、話題になってから、彼の記憶は正常ではなくなっていた。ただ今まで気にしていなかった響子の声の響きが気になってきたのだけは、はっきりと覚えている。響子の声の響きが、瑠津絵の声の響きと共鳴していたのである。

 応接室のテーブル席で、響子と相対して座って話している。譲治と章星がその日はいなかったので、彼女と二人きりである。陽介の前にいる響子が、瑠津絵に見えてしまう。どんなに自分に言い聞かせても瑠津絵に見えてしまう。

 陽介の心の中で、瑠津絵の声が響いている。響子の声の響きが、瑠津絵の声の響きと共鳴している。ラとレが違う音でありながら共鳴しているように、陽介の心の中で響いている瑠津絵の声が、今話している響子の声とは違う音なのに、共鳴している。

 響子の声と瑠津絵の声が同じに聞こえるのは、このためだろうか。こんなことを思っていたことがなぜか陽介の記憶に残っている。


 家に帰ってから、一人暮らしの陽介は、当然ながら一人で家事全てをやらなければならなかった。炊事洗濯食器洗い等その日のすべきことを全て終えて、床に着くと、最近はすぐに寝付けない日々が続いている。そのような時、以前は寝床で本を読んだり、ラジオを聴いたりしながら、いつの間にか眠りについていたのだが、最近はそうしてもなかなか眠れないときが多い。そのような時は床について目を瞑って、ただ時間が過ぎていくのを待っている。そうすると頭の中が、瑠津絵との思い出でいっぱいになっていく。瑠津絵との思い出は、過去の楽しかった日々へと陽介を誘っていく。その時陽介は瑠津絵を身近に感じる。いつまでもその状態に浸っていたいと思う。だけどその時間は、とても短く、すぐに陽介は眠りについてしまうのだ。

 それが最近は、今までとは違うことが陽介の内面で起きるようになってきた。瑠津絵を思い浮かべると響子が浮かんでくるのであった。やがて瑠津絵が、響子に吸収されていき、陽介の前に厳然と現れている。瑠津絵の顔と響子の顔。瑠津絵の姿と響子の姿。瑠津絵の身の熟しと響子の身の熟し。瑠津絵の仕草と響子の仕草。あまりにも似ている。瓜二つとも言える。生き写しとも言える。陽介でもうっかり間違えてしまうほどである。

 瑠津絵は今地上に存在していない。瑠津絵は地上では、陽介の思い出の中だけで存在している。響子は厳然と存在している。瑠津絵が響子に吸収されて、響子が陽介の前に厳然と存在しているのは、自然なことなのかもしれない。

 応接室で二人だけで、響子と話した時、今まで意識していなかった響子の声を意識して聞いている自分に陽介は気づいた。瑠津絵の声の響きは、目を瞑ると今でも、陽介の心の中で響いてくる。どんな美しい楽器の響きも、音楽の響きも、どんなに美しいソプラノ歌手の声の響きも、陽介の心の中では、瑠津絵の声の響きには敵わない。

 瑠津絵の声の響きと響子の声の響きは、明らかに違っていたのだ。瑠津絵が生きていて、響子と目の前で話していたら、二人の声の響きが全く違う響きであることが誰でもわかるだろう。

 しかし響子の声の響きが、陽介の内で瑠津絵の声の響きと共鳴していたのである。まるでラの音とミの音が共鳴するように、ソの音とレの音が共鳴するように、ラの音とレの音が共鳴するように。

 瑠津絵とは違っていた響子の声の響きが、瑠津絵の声と同じ響きに、陽介の内で変貌していた。瑠津絵と響子を同一視してしまう自分を、陽介はもはや否定できなくなってしまっていた。

 その日の応接室での、会話を終えた後、響子と会うことはもうなくなってしまうことを陽介は分かっていた。どんな話題を話したところで、会話を切り上げることになったのか陽介の記憶の中には、残っていなかった。かなりの長い時間の会話になっていたので、その話題が会話を切り上げるようなものに自然となっていたのかもしれない。いつの間にかお互いにさよならの挨拶を口にしていた。

 陽介は、その日響子を送る時、胸が締め付けられるほどの寂しさの感情がこみ上げてきた。これでもう会えないという実感が陽介にとっていたたまれないものであった。

 響子との出会いが、仕事上のことでなかったなら、また会いたいがために食事に誘うことも抵抗はなかっただろう。そのとき断られれば、相手には自分のような気持ちはないということがわかる。それだけで陽介は諦めがつく。今まで思い描いていたのは単なる幻想なのだと、すべてを振り切って、白紙状態から始めることができるような気がする。

 しかし、陽介は響子とはあくまでも仕事上で出会った。法的に言ったら自分は公僕の身である。私情を仕事に紛れ込ませるようなことをしては不味いことに思えるのは当然である。冷静に考えれば、響子が自分のように考えている可能性はかなり少ない。可能性が少ないことのために、響子を煩わせるばかりか、警察の信用を落とすような言動は慎まなければならない。

 これは瑠津絵の贈り物だったのかもしれない。響子を通しての、瑠津絵からの贈り物だったのかもしれない。応接室で響子と二人だけで会うことになったその日までの時限付きの瑠津絵からの贈り物だったのかもしれない。陽介の記憶の中から微塵たりとも霞むこともない、瑠津絵との思い出が、陽介の思考を、響子と会っているときだけ、停止させていたのかもしれない。第三者から見て、瑠津絵と響子がいかに似ているように見えたとしても、冷静な状態の陽介だったら、それほど似ていると思わなかったかもしれない。仮にこの後どこかで、偶然響子を見かけたとしても、瑠津絵に今回ほど似ていると、思えないのかもしれない。時限付きの瑠津絵からの贈り物であり、なぜこの時期に陽介に与えられたのかは、それなりの意味があるのかもしれない。それは5年後か10年後か何年後か分からないが、後になってそのことの意味がわかるようなことなのかもしれない。

 陽介は携帯を取り出して、アドレス帳を表示させた。仕事上のため響子から聞いて、入力しておいた響子の情報を削除した。その瞬間悲しみで胸が締め付けられるような感じがした。寂しさと悲しさで目が熱くなり、瞼から涙が溢れるように落ちてくる。手のひらで目蓋を押さえた。両手が涙でびしょ濡れになった。手のひらから涙の粒が床に落ちた。涙の雫が床に落ちる音が止むことがない。床に涙が落ちる音に、少しずつ陽介の嗚咽が重なっていった。陽介は堪えられなくなり、声に出して泣き出した。その声はだんだんと大きくなり大声で泣き叫んだ。

 カーテンを閉めていなかった窓から赤い光が、差し込んでいた。朝焼けの光であった。真っ赤な太陽が少しだけ見えていた。夕焼けも美しいが、朝焼けの美しさは違った美しさだと思った。その日が終わる時の寂寞感を与えるような夕焼けと違って、これから1日が始まるという何か希望を抱かせるような赤い輝きである。

 陽介はカレンダーを見て、今日の日付に自分が書いたメモを見た。今日は前もって有給休暇の届け出を出していたことを思い出した。特に何か予定があったから有給休暇の届け出を出したわけではなかった。

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