第5章 4

「不思議です。もうあの人を全然見かけなくなりました」

応接室のテーブル席に座っている響子は、湯飲み茶碗の緑茶を一口飲むと、その湯飲み茶碗をテーブルに置いてから言った。

「それを聞いて、安心しました」

響子と相対してテーブル席に座っている陽介は言った。いつも陽介の両側に座っている譲治と章星はいなかった。

「一体どんなことをされたのですか。お聞きしても構わないのですか」

「私と糸井と戸川、三人で交代で彼を尾行監視しただけです。清水さんが列車に乗っているときだけですけどね。彼は車両の中央のロングシート席前の吊革を掴んで乗っていることが多いですよね。清水さんは車両の端のロングシート席前の吊革を掴んで乗っていることが多いですよね。それで私たちは清水さんとは反対側の端のロングシート前の吊革を掴んで乗るようにしていました。だから私たちは清水さんからは気がつきにくかったかもしれませんね」

「そうです、岩城さんのことは全然気がつきませんでした」

「清水さんに対しては、犯人を尾行監視する手法でしましたから、まず気がつかないと思います」

「私犯人だったのですか」

「すいません。清水さんに私たちのことが気づかれると効果がないですからね」

「どのように尾行監視をしたのですか」

「実際は尾行監視ではないですね。私たちは交代で尾行監視しましたけど、共通理解で実行したのは、彼に気付かれるように監視したことです。彼が清水さんにしたと同じように、彼のことをじっと見つめていただけです」

「それでは彼は私と同じ気持ちになったということでしょうか」

「そうかもしれませんね」

「そんなに悪い人ではなかったのでしょうか」

「清水さんに単に恋心を抱いて夢中になって、知らず知らずのうちに行動してしまったのかもしれませんね」

「私はその人と一言も言葉を交わしたことがないのですよ」

「それほど清水さんが、魅力的だということでしょう。その人は案外純粋な人かもしれませんね。もしかして清水さんはその人にとって初恋の人だったかもしれませんよ」

「私より若いことは確かだと思いますけど、いくら若くても大学生くらいにはなっていたかと思います。大学生になって初恋の経験をする人なんているのでしょうか」

「恋愛論とかそういうことに詳しいわけではないですけど、世の中いろいろな人がいますから、そういう人も中にはいるんでしょうかね。大学生というと20歳前後でしょうが、その歳になるまで、恋心を抱けるような女性に出会っていなかったのかもしれませんね」

「私のような女性は世の中に掃いて捨てるほどいると思うんですけど」

「本当に美しい女性ほどそんな風に考えるんですね。そういうところ私の亡くなった妻と似ています」

「岩城さんの奥さんの写真を見せてもらった時はびっくりしました。合成写真を見せるなんて冗談にしては悪質だと思いました」

「他の写真を沢山用意しておいてよかった」

「奥さんとは随分旅行に行かれたんですね」

「健康体ではなかったけど、あれほど早く亡くなるとは思っていませんでした。でも、直感というか。無意識のうちにというか。彼女との時間がかけがえのない宝に思えてね」

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