第4章 1

 サイバーセキュリティ部データー管理課に配属が決まり、一週間の準備期間も終わり、その週から通常の勤務時間に戻った。清水響子は、以前のように出勤時間30分前に会社に到着できるように家を出た。

 列車内は、ロングシートの席が全部埋まっていた。ロングシート間の通路と乗降口の通路間に、乗客が疎らに立って吊革を掴んでいた。

 座っている乗客の多くは、スマホを操作しているが、中には読書をしている者、何もしないでただボーとしている者、眠っている者、ただ俯いている者を時たま目にすることがある。

 立っている乗客の場合は、さすがに座っている乗客に比べてスマホを操作している者は、少ないが、片手で手慣れた操作で巧みに操作している者を時々見かける。車窓から景色をじっと見ている者、どこを見るでもなくただ虚ろな目をして立っている者、吊革をしっかりと掴んで眠気と戦っている者、文庫本を片手で持って読んでいる者。スマホ以前にも見られた光景だ。

 響子は乗降口付近に立って、ドアのガラス越しに、外の景色を見ていることが、最近は多くなってきた。乗降口と言っても、駅のホームで停車ごと開く方ではない乗降口である。でも、響子のように、ドアのガラス越しに、外の景色を見ていたいと思っている乗客が、少なからずいるらしく、その場所に先客がいることが度々ある。そのような時は、ロングシート間の通路の吊革を掴んで、ロングシートの背後の車窓から、外の景色を見ているのである。

 毎日見ている車窓からの風景は、見ている場所は同じなのに、毎日違って見える。天候によって違って見える。雲ひとつ見えない青空から、太陽の光が降り注いでくる晴天の朝の景色。青空も太陽も全く姿を消してしまった太陽の光に乏しい朝の景色。雨粒が車窓のガラスにぶつかり炸裂して、滲んだガラス越しに浮かぶ雨の日の朝の風景。歪んだ景色が飛び込んでくる。

 同じ家々の屋根が、毎日違って見える。晴れた日の眩しい光を浴びている瓦の色と冷たい雨を浴びている時の瓦の色が、全く違った色に見える。

 朝の通勤時の車窓から、景色を楽しむことができなくなってしまったのは、通常勤務になって一週間ほど経過してからであった。

 いつものように朝ホームから、列車に乗り込んだ時に、それは突然訪れた。学生の時に経験したあの苦々しい記憶が飛び込んできた。

 ロングシート間の通路の吊革を右手で掴み、響子は、ロングシート背後の車窓から、風景を見ていた。突然、鋭い視線を、乗降口間の通路を跨いだところのロングシート間の通路から、感じた。その鋭い視線は一時的なもので、すぐになくなると思い、響子は、車窓からの景色を見続けていた。鋭い視線は依然として感じられ消えることがなかった。

 いつまでも消えることのない鋭い視線の方を一瞬目にするために、左肩に掛けていた鞄を右肩に移し、右手で掴んでいた吊革を左手でつかんだ。その瞬間、彼女の目に、鋭い視線を発していた者の姿が飛び込んできた。その姿は、彼女が学生の時彼女に鋭い視線を発していた年齢不詳の者の姿と重なった。

 響子は向きを変えて、今まで背後にあったロングシートの方を向き、そのロングシート前にある吊革を掴んだ。ロングシートの背後の車窓から風景を見ていた。しばらくするとあの鋭い視線を再び感じ始めた。

 右肩に掛けていた鞄を、左肩に移し、左手で掴んでいた吊革を右手で掴んだ。その瞬間あの年齢不詳の者の姿が、彼女の目に飛び込んできた。

 列車が次の駅のホームで停車し、ドアが開いた。列車が発車前のドアが閉じる予告音が聞こえたと同時に、響子は彼女の左側の方にある乗降口を通ってホームに降りた。その駅は彼女が降りる駅ではなかった。その日彼女は会社に出勤時間30分前に着くことが出来なかった。


 翌日の朝、響子は、あの鋭い視線を避ける為、通常の時間帯よりも早い時間帯の列車に乗った。乗客の全員がロングシートに座れるほど列車内は空いていた。

 響子はロングシート席に座った後、鞄から文庫本を出して読み始めた。数ページ読んだところで、先を読み進むことが出来なくなってしまった。あの鋭い視線が、集中力を挫いてしまった。彼女が座っているロングシートの、左側の乗降口間の、通路を跨いだところの、斜向いのロングシート席から、鋭い視線を感じた。

 響子は、鋭い視線が感じられる斜向いのロングシートを、さりげなく一瞬見るために、彼女の左側の、乗降口の、ドアのガラス越しに、景色を見るように見せかけようと、体を左にねじらせた。その瞬間あの年齢不詳の者の姿が彼女の目に飛び込んだ。

 響子は確信した。学生の時彼女にストーカー行為をしたものと同一人物であると。ということは彼女が乗車する駅であの時と同じように、駅で待ち伏せしているに違いない。

 翌朝響子は早めに自宅を出た。駅に着くと、すぐに改札口に入ることをしないで、駅の建物の入り口に立って、外の景色を見ている振りをしていた。背中に鋭い視線を感じた。彼女は駅の建物の反対側の入り口を、一瞬見ようと、体の向きを変えて改札口の方へ体を向けた。改札口の方へ体を向ける間の一瞬の時に、反対の入り口の映像が彼女の目に入った。駅の建物の彼女が立っている入り口の反対側の入り口に、確かにあの年齢不詳の者が立っていて彼女をじっと見つめていた。

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