第3章 4

 事情聴取ということで、出向いたのであるが、いくら被害者の立場でいくのだとしても、警察に行くというのは、敷居の高いことであった。

 受付の人に応接室に案内されたのは意外なことであった。取調室のようなところに案内されると思っていた。応接室のテーブル席に座って待っている間に、コーヒーを入れてもらったことも意外なことであった。コーヒーを一口飲んで、コーヒーカップをソーサーに戻して、カップとソーサーが打つかる音が響くと同時に、扉が開く音が響いた。

 その時、響子は異様な気配を感じた。その異様な気配は、扉を開けて最初に応接室に足を踏み入れた者から来ているものであることが、分かった。水源島公園の沼地で、響子に銃を向けた旬一の右手首を、背後から両手で掴んだ者と同一人物であることが分かった時、その異様な気配は一瞬の内に消えてしまった。フェイスシールドの付いた防弾ヘルメットを被っていたので顔がよく見えなかったのだが、同一人物であることが何故か直ぐに分かった。

 テーブル席に響子と相対して座ったその人は、まず自己紹介をした。その時、初めて彼の名が岩城陽介であること、そしてあの異様な気配の張本人であることを知った。

 あれほど彼女を苦しめ悩ませて来た異様な気配が、彼女が自分の世界の中で勝手に作り上げてきた妄想の一種のようなものだったのではなかったか、という気持ちがいつの間にか彼女の内に現れていた。


 響子は大学生の時に、ストーカーの被害にあったことがある。その時の加害者の顔を今でもはっきりと覚えている。その恐怖の始まりは、列車の中でのことであった。混雑してはなかったが、座れる座席はなかった。ロングシート間の通路でつり革に掴まって乗車していた。彼女の前方のロングシートに座っている乗客は、スマホを操作している人、本を読んでいる人、寝ている人と全員俯いていた。彼女はロングシート背後の車窓から見える景色を見ていた。

 一駅過ぎた頃、強烈な視線を感じ始めた。乗降口間の通路を跨いでのロングシート間の通路の方からのもののようであった。気になった響子が、そちらの方を見ると、年齢不詳の男性が、つり革につかまりながら響子がいる方をじっと見ている。響子は、気が付かない振りをして、ふたたび車窓から見える景色を見ていた。依然としてその強い視線から感じる不快感は止むことがなかった。その不快感に耐えられずに、あの年齢不詳の男性がいる方を見ると、依然として彼女の方をじっと見ていた。

 響子は、向きを変えて、背後のロングシート前の方へ移動して、その場所の近くのつり革を掴んだ。今まで背後にあった車窓からの景色が、彼女の視界に入った。暫くあの強烈な視線の不快感がなくなったかのように思えた。響子は、今までとは違った車窓からの景色を暫く見ていた。だが、またあの強烈な視線の不快感を感じ始めた。先程は左側の方からだったが、今度は右側の方からになる。強烈な不快感に耐えられず、右側の方を見ると、あの年齢不詳の男性が彼女のいる方をじっと見ていた。

 響子は、不快感よりもむしろ恐怖感を感じるようになり、大学の最寄りの駅ではなかったが、次の駅でホームに降りて、ホームの人混みの中に逃げるようにして入っていった。

 響子が列車に乗るときは、いつもその年齢不詳の男性がいて、彼女をじっと見つめていた。響子は乗る時間を毎回変えていた。乗る車両も毎回変えていた。だが、毎回、彼女が乗る時間に、彼女が乗る車両に、その年齢不詳の男性は必ずと言っていいほどいて、彼女をじっと見ていた。

 やがて、その年齢不詳の男性が、いつも必ずと言っていいほど彼女が乗る車両に、同じ時間に、何故乗っているのか、その理由が分かった。響子は、人からの視線に対して、鋭い感覚を身に着けてしまったのかも知れない。駅の構内に入った時、強烈な視線を感じた。雑踏の中で、その視線の所在を確認することが不可能な距離からその視線は投げかけられている。その視線を投げかけているものは、彼女が乗る車両には、最初から乗ることはしない。数両離れた所の車両から乗る。列車が停車する度に、響子が乗っている車両に近い車両に乗り換えていく。やがて、響子が乗っている車両に乗り込み、彼女をじっと見続けるのである。

 このようなことを、警察に訴えても、警察はストーカー行為とは認めるはずはないと響子は思った。響子は、住居を、大学の構内にある宿舎に移すことに決めた。


 大学時代のあのストーカー被害が、響子のトラウマとなっていて、人からの視線に対して過敏に反応するようになっていたのかも知れない。このトラウマがなければ、陽介が投げかけていた視線など取るに足りないものだったかも知れない。

 陽介は自己紹介と同僚の紹介をすると、背広の内ポケットから封筒を出し、その中から数枚の写真を出した。数枚の写真を並べて響子に見せながら、響子が陽介の死別した妻と似ていること、そのため偶然にレストランと列車の中で響子を見かけた時、つい見つめてしまったことを話して謝罪した。

 陽介と瑠津絵の写っている最初の写真を見せてもらった時、瑠津絵があまりにも響子に似ていたので、偽造写真ではないかと思っているようなニュアンスの言葉をつい口走ってしまった。実際は、そのようなことは全く思わないどころか、陽介の言うことを何の疑いもなく信じていた。テーブル席で陽介と相対し、直感的に信頼に値する人と感じさせる何かを響子は感じた。響子が、偽装写真ではないかと思っていると匂わせるようなことをいってしまい。そのため陽介が他の写真を持ってきた時、陽介の誠実さを感じた。

 事情聴取の中で、旬一に銃を向けられるに至った経緯について、事細かに話さなければならなかった。当然屈辱的なことも話さなければならなかった。旬一がマンションに落としていったUSBメモリーに関することも話さなければならなかった。

 響子にとってこのような事情聴取を受けるのは初めてであった。そんな響子でも確かに実感できることがあった。陽介が、響子にとって屈辱的に感じることを、可能な限り供述調書に、書こうとしなかった、ということであった。

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