第3章 1

 清水響子が死別した陽介の妻と瓜二つであることを知っているのは、陽介本人以外誰もいない。レストランで旬一が陽介のところに来て、陽介が響子をじっと見つめたことで注意をしに来た時、響子を知り合いに似ているとしか言っていなかった。陽介の死別した妻と似ているということは言っていなかった。もし周りで響子が陽介の死別した妻に似ていることを知っている人がいたら、陽介が響子の事情聴取をとることに反対しただろう。陽介は、響子が亡くなった妻に瓜二つであることを誰にも今まで言っていないし、今回誰にも言わなかった。それで旬一が入手した拳銃に関する捜査で中心に動いていた陽介が、被害者としての響子の供述調書を作成することになったのは自然な成り行きであった。

 陽介は、響子が彼の死別した妻と瓜二つであることを、言おうと思っていた。言わなければならないと思っていた。列車の中とレストランの中で響子をじっと見つめていたことの理由を言わなければならないと思っていた。それよりもやはり、陽介はその理由を言いたいし、言いたい気持ちで一杯であった。もしこの機会に言わなければ、一生自分がストーカーか変人のように思われてしまうような気がした。響子と何処かで偶然にまた会うかも知れない。列車とレストランで彼女をじっと見つめていたことの理由を言わないままにしていたら、響子と偶然に会った時どのように対処していいか分からなかった。響子に理由を言わないままにしていたら、響子は陽介のことを一種の変人のように思っているかも知れないから、偶然会った時嫌な気分になるに違いない。状況によっては、陽介が目に見える範囲内にいたとしても気づかない振りをしているかもしれない。そのような状況を想像することは陽介にはとても耐えられないことであった。

 響子は被害者である。一歩間違えば、殺人事件の被害者になっていたかも知れないのである。そのような被害者に陽介は事情聴取をするのである。そのような相手に、自分の死別した妻に瓜二つであることを言うのは、事件と全く関係のない私的なことを言うことである。これが友人や同僚の妻とか親戚とかというようなことだったら、単に被害者としての事情聴取の前に、相手を和ませるためだと考えたら、陽介にとってまったく問題のないことのように思えた。ところが、陽介の場合は、事情が違う。陽介の死別した妻と似ていることを話題に出すのは、私的なことに職権を利用しているように思えてならなかったのである。傍目から見ても下心があると思われてもしかたのないことのように思えた。

 本心を言うと気の知れた誰かに、話して相談したい思いであるが、その場合誰もが正論を言うに違いないと陽介は思わずにはいられなかった。誰もが最後には自分のことが心配である。他愛のないことが、取るに足りないことが、何処でどう転んで命取りになるかもしれない。それを考えた時、誰もが自分を守るため、正論だけを言って済ませてしまおうと考えるのは、当然のことだと思った。

 実際今回の捜査で陽介は、自分を失ってしまった時間があった。自制を失ってしまっていた。背後から旬一が握っている拳銃を取り上げようとした時、拳銃を握っていた旬一の腕を骨折させてしまった。火事場の馬鹿力というものがあるのだろう。陽介は決して自分が腕力があるとは思っていない。響子があまりにも瑠津絵と似ていたので、響子を瑠津絵だと一瞬思い込んでしまった。というよりも、そのような願望が陽介の深層心理の中にあって、拳銃による殺人事件が発生するかも知れないという異常事態の中にあって、旬一の腕を骨折させるほどの異常な腕力となって現れたのかも知れない。

 響子が瑠津絵と瓜二つであることを告白して、響子の事情聴取を担当することを、辞退しようと何度も陽介は考えたが、最終的にはそのまま担当することに決めた。列車の中とレストランの中で、陽介は、響子に不快な気分を与えてきたことは確かなのである。それをそのままにしておくことは不味いことであるように思えた。そして響子が、陽介に不信感を抱いているような状態で、事情聴取を始めた場合、響子にとって苦痛な時間になってしまうかもしれない。テレビで刑事もののドラマを見て、事情聴取が参考人と刑事の間でやり取りされる場面を思い浮かべて、最初から暗いイメージでいるかもしれない。

 陽介は、事情聴取の前に、響子が瑠津絵に瓜二つであることを話すことを決心した。そしてこのことに関する陽介の気持と考えを、譲治と章星にすべて洗い浚い話した。譲治と章星が、陽介が響子の事情聴取を担当するのをやめるように説得したとしても、止めるつもりがないことも話した。陽介の予想に反して、譲治と章星は、陽介の気持ちを全面的に理解してくれた。さらに、陽介の決心を全面的に支持してくれた。

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