第2章 13

 その日被疑者が出社しないことの情報を得たので、陽介と譲治と章星は、水源島公園の沼地近辺の灌木に潜むこととなった。沼地の周りは野草が茂っていた。沼地から10メートルほど離れたところをアスファルトで舗装された歩道が通っていた。歩道は車一台が悠々と通ることのできる広さであった。緊急の事態が生じた時、数分の内に警察の車両と救急車が、この場所に到着できる体制は取れていた。沼地から歩道を跨いたところに多数の灌木が茂っていた。陽介と譲治と章星は、それぞれ別々の灌木に身を隠して、待機していた。ヘッドセット無線機を身に着けて、お互いと、そして車両で待機している警察隊と、連絡を取り合っていた。陽介と譲治と章星は、防弾服や防弾ヘルメットといった、いざというときのための装備をしてから灌木の陰に身を潜めた。

 水源島公園の沼地は、陽介にとって初めて訪れた場所ではなかった。瑠津絵と訪れた記念すべき場所でもあった。かと言って訪れようとして訪れた場所ではなかった。沼地とは全く反対側の方向の可成り離れたところにある、珍しくて美しい草花が茂っている場所を見ようと、水源島公園に来たのであるが、迷ってしまったのである。迷って歩いている内に行こうとしていた場所とは全く反対の所にあるこの沼地に来てしまった。

 沼地の周辺は珍しくもなく美しくもない、何の変哲もない雑草が茂っているだけの場所であった。しかし、陽介にとっては決して忘れることのできない思い出の場所である。お互いに結婚の約束をしてから、初めてゆっくりと話すことが出来た場所でもあった。結婚の約束をしてからのこと瑠津絵は陽介に何かを打ち明けたい様子であったが、打ち明けられないでいることを、陽介はいつともなく気がついていた。

 瑠津絵は、暫く沈黙した後、声を微かに震わせながら健康診断の結果を言った。瑠津絵は子供を生むことが出来ない。今の医学では決して治すことの出来ない、数少ない難病に侵されていたのだ。医療の領域では、その病気の存在が発見されただけのことであった。瑠津絵は結婚の約束はもう破棄しても構わないようなことを言った。健康診断の結果については明かさないで、陽介のことがもう好きではなくなったので、結婚の約束を破棄したいというようなことを始めは言おうと思っていたらしい。しかし、そのような嘘をついて陽介と分かれることは彼女にとってあまりにも辛すぎた。それでもどうにか本当のことを言うことができた。彼女はいつの間にか泣きながら話していた。陽介は、瑠津絵が思っていることすべてについて罪意識をもつことはまったくないというようなことを、言った。陽介にとって子供のことなどまったく問題ない、瑠津絵と一瞬でもいられることが嬉しいことであり、幸せなことであるというようなことを、陽介は目に涙を溜めながら言った。

 瑠津絵との思い出の場所が、被疑者が、入手した銃を使う場所になるかも知れないということが、陽介にとって許しがたいことに思えるのは当然のことに思えた。この場所に来て瑠津絵との思い出に浸りたいという思いがあって、仕事が休みの日の度に、来ようと思いながら、いざ出かけてみると全く違う方向へ足を向けていたことが何度もあった。いざこの場所に来ると自分の感情を抑えられないで、どうにかなってしまうのでないかという不安があった。それで今まで訪れたいと思いながらそれが出来なくて時間ばかり過ぎてしまったような気がする。それが今このような形で実現してしまったことが、何とも狂おしいばかりの現実である。

 遠くから微かに話し声のような音が聞こえる。その音は少しずつ大きくなっている。その音があるレベルまで大きくなってきた時、それが間違いなく話し声であることが分かった。その話し声が更に大きくなってきたとき、それが男女の会話であることが分かってきた。

 灌木の枝と葉の隙間から、男女一組が歩道をこちらに向かって歩いてくるのが見える。彼らの話し声が大きくなってくるに連れて、彼らの姿が大きくなってくる。彼らの会話の内容が、聞き取れるくらい大きくなってくるに連れて、彼らの容姿が少しずつ判別できる大きさへと近づいている。

 女性の顔が判別できる大きさになった瞬間、今にも声を出してしまいそうになった。あの女性の顔をここで見るとは、何と奇遇なことであろうか。瑠津絵と瓜二つのあの女性をここで見るとは、何と皮肉なことなのであろうか。瑠津絵と非常に似ている女性。列車の中で見かけたあの女性を・・・レストランで見かけたあの女性を・・・ここで見かけるとは・・・・。

 これが被疑者を監視するためにここにいるのではなかったら。瑠津絵との思い出に浸るために、ここに来ているだけであったのなら。ここで偶然瑠津絵と瓜二つの女性を見かけることがどれほど陽介を幸せな気分にしてくれることだろうか。たとえ彼女とすれ違うだけで一言も言葉を交わすことが出来なかったとしても、この瑠津絵との思い出の場所で、瑠津江と瓜二つの女性を見かけたことが、陽介を嘸かし幸せな気分にしてくれただろう。

 ここは列車の中でも、レストランの中でもない、自然に囲まれたところである。瑠津絵との思い出の場所である。彼女に自然に話しかけることができるかも知れない。死別した妻のことを話して、列車とレストランで彼女をじっと見つめてしまったことの弁明をすることができるかも知れない。

 陽介は平常心が、失われつつある自分に気がついて、背筋を伸ばして身体を緊張させた。瑠津絵の顔を見ないで、被疑者の顔一点を見つめ続けようとした。陽介がすべきことは、被疑者が銃を所持しているところを現行犯で捕らえることである。たとえ短時間でも瑠津絵に瓜二つの女性に心を奪われたことを戒めなければならないと思った。

 被疑者と女性は沼地の近くまで歩道を歩いてきたところで立ち止まった。被疑者は女性に草花や雑草の名前を上げて説明していた。二人はどんな関係なのだろうか。恋人同士なのだろか。被疑者と瑠津絵に似ている女性とが恋人同士という考えは、陽介にはそのことに関して何かをいう権利などないのだが、屈辱的なことに思えた。

 被疑者が植物の話をしている間は、一見恋人同士に思えるほど親密に見えたのだが、突然様子が変わってきたことが、感じ取れた。話の内容が突然深刻な内容に変わってきたことがはっきりと感じ取れた。

 女性は沼を背にしてこちらを向いている。被疑者は背を陽介の方に向けて女性を見ている。被疑者の声の調子から被疑者の顔つきが変わったことが感じ取れた。被疑者の声が益々大きくなって来た。彼の声の響きには怒りの調子があった。女性が震えているのが見えた。女性の目が涙で溢れそうなほど濡れているのが分かった。

 陽介は被疑者が大声を上げて話している間、被疑者の手元をずっと注意してみていた。被疑者の右手が、被疑者が左肩に掛けていた鞄の方に伸びた。右手が鞄のチャックを開ける音が聞こえた。鞄の空いた口の中に入れられた被疑者の右手は、暫く鞄の中で身を潜めていた。被疑者の声が大きくなるに連れて、被疑者の声の興奮の度合いが増すにつれて、被疑者の右手が少しずつ姿を現してきた。被疑者の右手が鞄の中からすっかり出てきて、その姿をすべて現した時、その右手にしっかりと握られているものがあった。被疑者は拳銃を女性の方に向けた。

 陽介は、被疑者が女性に対して語っていた言葉を聞いていたが、被疑者の声が少しずつ大きくなり、怒りを含んだ興奮した声になり、その内容が憎悪に満ちたものになっていくにしたがって、陽介の被疑者に対する怒りが激しさを増していった。被疑者の右手に拳銃が握られているのを確認した時、陽介の怒りは我慢の限界寸前のところまで来ていた。被疑者の拳銃が女性に向けられたのを確認した時、陽介の怒りは我慢の限界を通り越してしまった。陽介は我慢の限界を通り過ぎて、理性を失ってしまった。陽介の身体は自分の意思ではなく、怒りによって生じてきた衝動によって動いていた。

 陽介は我に返って気がついた時、冷静な自分に戻った時、自分が被疑者の背後にいて、被疑者の右手を自分の両手でぎっしりと握っていた。譲治が手錠を被疑者の左手にそして陽介が握っていた右手にかけた。章星は、地面に落ちていた拳銃を拾い上げると、ヘッドセットの無線機のマイクに向かって言った。

「池田旬一を銃刀法違反と殺人未遂で逮捕しました」

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