第2章 10

 被疑者が自宅の最寄りの駅から、会社の最寄りの駅まで列車に乗っている間、陽介と譲治は、気づかれない程度の距離から被疑者を観察していた。

 被疑者が彼の勤めている会社の最寄りの駅のホームで降りたので、陽介と譲治は彼に気づかれない程度の距離を保ちながら、ホームに降りた。

 列車内で、被疑者の会社の最寄りの駅の駅名がアナウンスされた時、一瞬の内に記憶が押し寄せてきた。


 それは非番の時、私用で出かけたときであった。被疑者が自宅から会社の最寄りの駅までの通勤に使っている、今陽介がホームに降りた路線の同じ列車に、通勤時間帯に乗車した。通勤時間帯であったので満員ではなかったが、座席に座れるほどには空いてはいなかった。陽介は、乗車すると列車のロングシート間の通路まで進み、つり革に掴まった。自分の足元を見て列車に乗っていた陽介が顔を上げたのは、被疑者の会社の最寄りの駅の駅名がアナウンスされたときであった。陽介は何の気なしに乗降口の方を見た。

 陽介は生まれてこの方感じたことのないような感情で、体中が震えるような経験をした。

 突然体中を迸る感情に対して、どのように対処したらいいか陽介には分からなかった。つり革を持つ右手が、体中の震えをつり革に伝えていた。身体の震えがつり革を通じて天井に伝わり、天井が震えているように思えた。陽介は今、列車の中にいることを忘れてしまいそうな感覚に、襲われていた。今地上にいるのではなく、何処か未知の別世界にいるような何とも言いようのない空間に突然迷い込んだ感覚を覚えた。

 乗降口からホームに降りていく瑠津絵の姿が、陽介の瞳の中に飛び込んできたのである。

 瑠津絵の姿が、ホームを歩いている人の群れの中に溶け込んで、見えなくなり、列車のドアが閉じられたとき、陽介の身体の震えは嘘のように消えていた。今までに見たこともない夢から覚めたような気分で、つり革を掴んで立ち尽くしている自分に、陽介は気がついた。ただ寂寞感だけが残っていた。

 瑠津絵の姿を見かけた路線の列車は、陽介が通勤に使用している路線ではなかったが、その路線を使っても通勤できないことはなかった。ただ10分位余計に時間がかかるだけであった。しかし、陽介が見た瑠津絵の姿が幻であったとしても、また、同じ時間に同じ路線の同じ列車に乗れば、また同じ幻が見られると陽介には思えた。

 陽介は、翌週、瑠津絵を見たのと同じ路線の同じ列車に、同じ時間に乗って、通勤することにした。たまたまその週の出勤時間に都合が良かった。

 陽介は、瑠津絵の姿を見たのと同じ列車の同じ車両に乗った。列車の座席はすべて埋まっていた。座席間の通路と、乗降口付近に、疎らに、つり革を掴んで立っている乗客がいた。陽介は、乗降口付近のつり革に掴まった。陽介が乗った乗降口から、座席間の通路を隔てたところの乗降口付近に、つり革を掴んで立っている瑠津絵の姿が見えた。瑠津絵が着ている衣服は、陽介が今まで見たことのない衣服であった。たとえ今まで見たことのない衣服を身につけていたとしても、瑠津絵の姿であった。

 あの日見たときのような身体の震えはなかった。あのときのような感情は陽介の身体の中にはなかった。不思議なくらい陽介は自分が冷静であることが分かった。

 冷静な心の状態で、陽介は悟ることができた。今陽介が見ているのは瑠津絵ではなく、瑠津絵に瓜二つの女性である。だが陽介にとって衝撃なのは、この世界に、瑠津絵にこれほどまでに似ている女性が存在することであった。瑠津絵は一人娘であった。双子の姉妹がいた訳ではなかった。よく映画やドラマで、隠された双子の兄弟姉妹が、後から判明するような話しがある、瑠津絵に関してはその様なことは、断じてないことは確かである。

 列車の中で見かけた瑠津絵が、瑠津絵ではなく、単に瑠津絵に瓜二つの女性であると分かった時、陽介は不思議なことに一種の安堵感を覚えた。そして列車の中で瑠津絵と瓜二つの女性を見ている短い時間が、至福の時にいつの間にかなっていた。

 翌週の非番のとき、特に何の用もなかったが、陽介は、同じ路線の同じ列車の同じ車両に、同じ時間に乗った。彼女の姿はなかった。

 列車で彼女を見かけることができなくなってから、偶然に別の場所で彼女を見かけた記憶が次に陽介の脳裏に浮かんできた。それはあるレストランに譲治と章星と一緒に食事に行ったときであった。確かに列車で見かけた瑠津絵と瓜二つの女性であった。列車で初めて彼女を見かけたときの感情に支配されることは決してなかった。それくらい冷静でいられた。瑠津絵に非常に似ている女性を偶然見かけただけで、瑠津絵が生き返って陽介の元に戻ってきたわけではない。陽介は現実を率直に認められるくらい冷静でいられるようになっていた。それでも瑠津絵と似ている女性がこの地上に存在していて、偶然にも見かけていることは、陽介にとってこの上もなく幸せな時に思えた。この時間が永遠に続いたらいいのにと思った。しかし彼女は見ず知らずの他人である。何の繋がりも接点もない全くの赤の他人である。見ず知らずの人をじっと見続けていることは、不味いことであると思った。相手に気づかれたら、下手をするとストーカーに間違えられかねないことであるかもしれない。刑事として何度も犯人を尾行した経験のある陽介にとって、気づかれないように見ることはお手の物のはずである。だが、相手が瑠津絵と瓜二つの女性である場合にはまた話は別である。確かに瑠津絵と瓜二つの女性を目にしても、冷静でいられるようになってはいるが、いつもの自分であることは断言できなかった。

 列車で彼女を見かけることを諦めていたのに、彼女を見かけたときは、陽介は嬉しさで胸がはち切れそうな気分であった。ロングシートの座席に座った時、向かい側のロングシートに瑠津絵に瓜二つのあの女性が座っていた。彼女は、コピー用紙の綴を捲りながら、必死に何かを学んでいるようであった。彼女をずっと見続けていたい。そこに座っているのは、瑠津絵ではないことは、否定しようのない事実であることは間違いないのではあるが、瑠津絵に非常に似ている女性が目の前にいることが、陽介にとってこの上もない喜びであった。何の気にはなしに彼女を見かけることは、問題ないだろう。彼女をずっと見続けることは、超えてはいけない一線であることが分かるほど陽介は冷静ではいた。それでもやはり彼女は瑠津絵にあまりにも似すぎていた。生き写しと言っても過言ではなかった。列車に乗車している間読書をしようと鞄から文庫本を出して読み始めたが、集中することが出来なかった。時々気持ちを抑えることが出来ずに、彼女の背後に見える車窓の景色を見る振りをしながら、一瞬彼女をじっと見てしまうことがあった。何度そういうことを自分でしたのか覚えていないが、一瞬だけ彼女をじっと見ていたとき、彼女が自分の方を見るかのように顔を上げようとして、彼女の頭が動いた。陽介は慌てて下を向いた。陽介が文庫本を開いているページは前回読んだときの続きではなかった。関係ないページを開いて読んでいる振りをしているだけであった。暫く時間が経ってから、彼女の背後の車窓の景色を見ようと、顔を上げた。彼女は顔を伏せて眠っているようであった。

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