第1章 12

 その日の仕事が終わり、ロッカールームへバッグを取りに行った。ロッカールームから出たとき、響子は旬一に呼び止められた。旬一は響子にUSBメモリーを手渡した。響子がデーターのコピーを渡すために、マンションで旬一に渡したものであった。響子はそのUSBメモリーをバッグに入れて会社を出た。

 駅の通路はいつもより人通りが多かった。あの異様な気配を突然体中に感じた。その瞬間人混みの中で、体がすれ違う人と微かに触れるのを感じた。それと同時にあの異様な気配は消えてしまった。

 自宅に着くと、居間のテーブルの上にポケットの方を下向きにしてバッグを置いた。チャックなしのバッグのポケットから小物が落ちる音がした。テーブルの下の方を見ると、USBメモリーが落ちていた。退社する時に、コピーしたデーターを渡すために使ったUSBメモリーを旬一から返された。それをバッグのポケットに入れたことを思い出した。響子はしゃがみ込んで、手を伸ばした。USBメモリーを拾ったとき、テーブルの下に何か小さなものがあるのが見えた。手を伸ばして拾うと、響子が持っていたものとは別のUSBメモリーであった。

 このUSBメモリーもバッグのポケットから落ちたのだろうか。旬一から返してもらったUSBメモリーしか入れた覚えがない。それまでは、バッグのポケットには何も入れてなかった。今朝そのポケットの中を確認した覚えがある。

 突然恐ろしい妄想に襲われた。駅の通路で異様な気配を感じたときのことを思い出した。そしてそのときすれ違う人と微かに体が触れたことを。その時すれ違ったのは、異様な気配を感じたとき、いつも彼女が見える範囲にいた例の男性ではなかったか。

 レストランで、響子が座っていたテーブルから離れたところにあるテーブルに彼は座っていた。たまたまそこに居合わせた旬一が、彼のところに行って、しばらく言葉を交わした。離れたテーブルだったので、彼らの会話の内容は響子には聞き取れなかった。後で旬一に会ったとき、彼が大学時代のコンピューター部で一緒だった友人で、懐かしくて世間話で盛り上がったと言っていた。響子は彼らの表情から察してそのようには思っていなかった。響子から異様な気配について聞いた旬一は、何か重い言葉を彼に言ったのだろう。彼が響子に近づかないようさせるような何か重々しいことを言ったのだろう。旬一は響子への思いやり故にあえてその内容を響子に言わなかったと響子は信じていた。優しさからくる嘘であると信じていたのである。

 彼は旬一から言われたことで響子を恨んでいたらどうしよう。彼はその腹いせにこのUSBメモリーをバッグのポケットに入れたのだろうか。でも腹いせにUSBメモリーをバッグのポケットに入れることに何の意味があるだろうか。腹いせに嫌がらせをしようとしたら他に効果的なことはいくらでもある。

 USBメモリーにコンピューターウイルスを忍ばせて、パソコンに入れたとき、パソコンがクラッシュするのを狙っているのだろうか。とするとこのUSBメモリーをパソコンに接続することは、危険ではないか。

 しかし、USBの中身が今すぐにでも見たいという好奇心が、知らずのうちに湧き上がり消えることがない。怖いもの見たさの心理だろうか。翌日旬一に頼んで調べてもらおうと思ったが、翌日まで待てない思いが強まるばかりだった。旬一が以前話していたことであるが、彼はコンピューターウイルスが心配だけど、対象のファイルを調べたい場合、もう破棄してもいいような古いパソコンをネットに繋がっていない状態で使うと言っていた。

 使っていない古いパソコンが一台あった。近いうちに処分しようと思っていた。響子はそのパソコンを納戸から探して取り出した。

 古いパソコンをセッテングして電源を入れた。パソコンが起動した後、出処の不明なUSBメモリーを差し込んだ。画面にUSBメモリー内に保存されているファイルが表示された。響子にとって見たこともないファイルで全く検討がつかないものであった。唯一響子に理解できるファイルがあった。エクセルのファイルであった。ファイル名はアルファベットをデタラメに並べたファイル名であった。拡張子がエクセルファイルの拡張子なのでエクセルファイルであることが響子でも分かった。

 響子はそのエクセルファイルをダブルクリックしてファイルを開いた。エクセルファイルは2枚のシートが含まれていて、1枚目のシートの中身が表示された。

 一列目のセルにはそれぞれ4つのドットで区切られた数字が並んでいた。これがIPアドレスということは、大学のIT関係の講義で学んだことなので、響子にはすぐに分かった。2列目のセルには、一列目のセルに書かれたIPアドレスに対応する形で人の名前が書かれていた。カーソルを移動していくと、IPアドレスと人の名前のセットは、ちょっと見た感じでも数百行に渡る感じであった。

 カーソルを移動していく中で、一瞬見覚えのある名前を通り過ぎたような気がした。カーソルを注意しながらゆっくりと戻していった。見覚えのある名前が画面に出てきたときカーソルの動きを止めた。今川健。宣伝部情報課の今逮捕されている者と同姓同名である。ここに書かれている今川健と今逮捕されている今川健が同一人物だとしたらどういうことだろうか。

 マウスをクリックして、二枚目のシートを表示させた。一列目のセルにネット銀行の名前が、二列目のセルに口座番号が、三列目のセルに人の名前が書かれてあった。

 駅の通路ですれ違った異様な気配の男性が、響子のバッグのポケットに、このUSBメモリーをいれたのではないかという考えが、一瞬の内に消えてしまった。

 響子の頭に浮かんだのは、旬一であった。データーのコピーを渡すために、旬一に響子のマンションに立ち寄ってもらったときのことを思い出した。旬一にいてもらったのは、響子がデーターをパソコンからUSBメモリーに移す作業のため必要な時間であった。その間旬一にはお茶を飲んで待ってもらった。精々十数分くらいの短い時間であった。響子はその短い時間の間のことを思い浮かべた。旬一は響子がデーターをコピーしたUSBを渡すとき、ポケットから小さな巾着のようなものを出した。それを出すとき、巾着の紐が指にからまり、手を振り回した。その時下に何かが落ちる音が微かに聞こえたような気がした。あまりにも小さな音だったので、響子は気のせいだと思って気に留めなかった。いつもだったらそのようなとき念の為下を見て何か落ちなかったか確認するのだが、響子の心の状態はいつもとは違っていた。旬一を初めて自分のマンションに来てもらったことに、平常心ではいられなかった。響子はいつものような行動がとれる状態でなかった。

 このUSBメモリーが、旬一が間違って響子のマンションに落としてしまったものだとしたら、これはどういうことなのだろうか。旬一はなぜこのようなデーターを持っていたのだろうか。旬一はこのデーターを何に使っていたのだろうか。エクセルファイル以外の意味不明のファイルは何のファイルだろうか。最初このファイルの中身について旬一に聞こうと思ったが、このUSBメモリーが旬一のものではないかという疑念が湧いた今、旬一に聞くことは何か不味いのではないかと直感的に感じた。

 自分のものではないUSBメモリーが、自分のマンションの部屋に落ちていた。そのUSBメモリーは旬一のもので、彼が間違って落としていった可能性が否定できない。普通ならばそのUSBメモリーが旬一のものであるならば、彼にそのことを聞いて、彼のものであれば彼に渡すだけで、ことは済むはずである。しかし、そこに保存されているファイルの中にエクセルのファイルがあって、今川健の名前が偶然にも目に止まった。会社では宣伝部情報課の今川健が横領の疑いで逮捕されている。同姓同名である。偶然に単に同姓同名で別人であったらいいのだが、同一人物だったらどういうことなのだろうか。この一つのエクセルファイル以外は、すべて響子が見たことも聞いたこともないようなファイルばかりである。このUSBファイルが旬一のものであるかも知れないという可能性が出てきた今、彼に聞くことは不味いのではないかという思いが直感的にしてきた。と同時に響子の頭に大学時代にITの講義を担当していた江上晃司教授の顔が浮かんだ。空の別のUSBメモリーに、エクセルファイル以外のファイルをコピーした。

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