第1章 11

 映画館を後にして、「フルッティ・ディ・マーレ」で夕食を取った後、どうしてもその日に旬一に渡さなければならないデーターがあることに響子は気がついた。彼女のマンションに立ち寄ってもらうことになった。旬一にお茶を飲んでもらう間、響子は、パソコンからUSBメモリーにデーターをコピーした。旬一にUSBメモリーを渡した後、玄関から彼を送り出すとき、言い知れぬ胸の疼きを覚えた。その原因を突き止めようとする思いを振り払うようにして扉を締めた。

 翌朝響子が出社すると、会社全体が騒然としていた。宣伝部情報課の社員である今川健が、横領の疑いで逮捕されたのである。健は旬一と同じようにICT能力において、旬一と同じように社内で五本指に入ると言われている専門家である。彼は会社の口座をネットを通して操作し、違法に入手した口座に、会社のお金を振り込んだという疑いで逮捕された。会社の口座にある会社の資金の異常な変化に気づいた会計課の担当者の訴えで、会社は警察に操作を依頼した。警察のハッカー担当の職員が会社のサーバーのログを調べたところ、銀行の会社名義の口座に健が不正にアクセスしていたことを裏付ける形跡が残っているということである。健は最初から一貫して犯行を否定しているという。


「そうすると今川健の自宅のパソコンから会社のサーバーにアクセスした記録があるというのが一番の決め手になりますね」

「彼の自宅のパソコンのIPアドレスが会社のサーバーのログファイルに記録されていました。アクセスしている時間が指定銀行の口座にネットアクセスしている時間と一致しています」

「会社のサーバーを遠隔操作して指定銀行の口座にアクセスしたのでしょう」

「指定銀行の口座にネットアクセスするための情報をどうやって手に入れたのだろうか?」

「今川は会社のサーバーのスーパーユーザーです。サーバーの中にある情報に無制限にアクセスできるんです。メールアドレスはサーバーのメールボックスを使っていたようですから、指定銀行の口座にネットアクセスすることはお手の物だったのでしょう」

 澤田龍は、警視庁サイバー犯罪対策課にこの4月に入った。入った当初は、夢に見ていたサイバー犯罪対策の仕事につけたことで意気揚々としていた。だが実際入ってみると、新人の龍に最初に割り当てられた仕事は、記録係であった。記録をしている中で、会議のなかで誰も気が付かなかった問題点に気がついて、意見を述べたことがある。意見を言う機会を慎重に狙って述べたのであるが、いとも簡単に黙殺された。会議のあと、上司からこっ酷く叱れた。このような苦い経験がある。この一年間は記録をとることに専念して大人しくしていることが懸命であると思った。来年から意見を述べられるようなっていけばいい。そう思うようになった。

 龍がサイバー犯罪対策の仕事に興味を持つようになったのは、父親がサイバー犯罪の被害者だったからである。中堅企業の会社員であった龍の父親は、そこそこの給料ながらコツコツと預金をしていた。住宅ローンを組むのに必要な頭金として十分な残高になった。振込手数料が安いということから、ある新設のネット銀行の口座を開設し、そこに預金を移した。龍の父親のメールアドレスにそのネット銀行に類似した名前のなりすましのメールが届いた。なりすましのメールとは知らずに龍の父親はそのメールを開いた。ネット銀行の口座にアクセスするための情報を入力してしまった。ネット銀行の口座から預金が全額降ろされていることに気づいたのは、ネット銀行からそのお知らせのメールが来てからのことであった。長年汗水流してやっと蓄えてきた預金を失った龍の父親はすっかり憔悴しきってしまい、まったく人が変わってしまった。それから数日後のことである。龍の父親が路上で車にはねられてなくなったのは。警察は単なる事故として片付けたが、龍は父が自ら命を絶ったのだと今でも信じている。

 会議を聞いている中で、最初今川健に対して憎々しい思いで記録を取っていた。会議の流れは犯人をどう見ても今川健に特定しているようであった。それは会社のサーバーのログファイルに今川健の自宅のルーターのIPアドレスが記録されていたからである。そしてアクセス時間が会社の指定銀行の口座に不正アクセスされている時間と一致していたからである。龍には気がかりな点があった。今川健を犯人と断定する証拠が、会社のサーバーのログフィルに記録されたIPアドレスだけだということである。今川健が最初から犯行を否定していることが気になる。この事件で組まれた対策チームのメンバーで、IPスプーフィングに触れたのはまだ誰もいない。サイバー対策課に入っているのだからネットの専門家である。IPスプーフィングのことを知らないはずはない。なぜこんなにも単純に決めつけようとしているのだろうか。最近サイバー犯罪があまりにも増えているので、この事件にいつまでも関わっていたくないという気持ちがあってそうさせているのだろうか。会議の中でこのことに触れたいのは山々だが、また元の木阿弥である。黙殺されて、上司にこっ酷く叱られるのは目に見えてあきらかである。今回の対策チームに一人だけ話を聞いてくれそうなメンバーがいる。加山順である。この会議が終わったあと加山順にこっそり聞いてみようと、龍は思った。


「そこまで考えなくていいんじゃないかな。我々はもっと深刻な事件を控えてるんだよ。この事件にそんなに時間をかけていられないよ」

順はコーヒーポットからカップにコーヒーを注ぎながら言った。

「それでは、なぜ今川はそれほどまでに頑なに否認しているんですか?彼はIPスプーフィングのことは触れなかったんですか?」

順が注ぎ終わった後、龍も自分のカップに注ぎながら言った。

「IPスプーフィングのことを触れていたよ」

「彼はそれを盾にしないですか?」

「ICTに詳しい弁護士が就くみたいだから、一番の武器にするだろうな」

「会議の中でIPスプーフィングのことが一切言及されていないのですが、対策チームとしてはIPスプーフィングのことをどう考えているのですか」

「君には済まないが、会議外でオフレコで語られている。実はね我々がIPスプーフィングに関心を持っていないように相手の弁護士に思わせたいんだよ。その弁護士は噂によるとネット上の裏社会に詳しいというらしいじゃないか。徹底した調査をして証拠を掴んでくれたら幸運じゃないか」

「それでは、対策チームは、今川健が黒であると踏んでいるわけではないんですか?」

「真相は分からないが、あーきっぱりと無実を主張しているし、IPアドレスだけが証拠というのも」

「家宅捜索でも何も出なかったんですよね」

「会社での今川健のデスクとロッカーとパソコンの捜査からも何も出て来なかった。どだいIPアドレスだけで逮捕に踏み切ったのは、間違いだったんだよ」

「誰の判断だったんですか」

「次長だよ。次長と言ってもどの次長だか分かるよな。俺がいつも名指しで不平をお前にこぼしているもな」

「次長はなぜそんなに逮捕を急いだんですか」

「実は今川健は他の会社から引き抜かれたんだが、その会社でも逮捕歴があるんだ。そのとき彼に就いた弁護士が可成りの腕利きで、逮捕後78時間以内に今川健の無罪を証明しただけでなく真犯人の手がかりを掴んだ。次長はその弁護士の力を借りて真犯人を発見しようと思っているんじゃないかな。今回短時間で真犯人が発見できれば、次期課長候補として有力になると思っているかもな」

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