第1章 10

 響子と旬一は早速外で夕食を取りながら打ち合わせをすることとなった。「フルッティ・ディ・マーレ」が二人共知っている場所であり、偶然一緒になったことがあるレストランでもあったので、自然にその場所に決まっていったかんがある。

 単に打ち合わせのためだけなのに、旬一と二人だけで食事ができることに内心浮立っている自分に違和感を覚えながらも、その気持ちに満足している自分がいることを響子は否定できなかった。

 旬一とレストランでの打ち合わせがある日はいつもとは違うことがあった。その日に限って、服装のワンポイントに加えているものがあった。それは旬一のデスクの上に開かれた状態で置いてあることの多い、パソコン専門誌の中の広告に写っている女優の服装のワンポイントである。これなら誰にも気づかれないが、もしかしたら旬一は密かに気づいているかもしれないと思っている自分がいることに、ロッカールームの鏡に映っている自分を見て、響子はハッするのであった。

 レストランでの打ち合わせは、毎回食べている時間が殆どないほど盛りだくさんの内容であった。全工程が終了するまでに、何度レストランで打ち合わせをしたのか、二人共ほとんど覚えていないくらいの打ち合わせをした。そのためだったのだろう、すべての必要な打ち合わせが終わったあとであったにもかかわらず、気がついたらレストランの座席に座っていた。

「そういえば、もう打ち合わせをすることはなかったのね」

ふたつ折りの閉じられたメニューの表紙を見ながら響子が言った。

「まあこれでほとんど仕事が終わりに近づいた感じだから、慰労会ということで」

先程まで捲っていた綴りを鞄の中に仕舞いながら、旬一が言った。

「折角レストランに来ているのに、いつも打ち合わせの支障にならないように、毎回パスタかピザだったかしら」

「とにかく、今日は打ち合わせの必要がないのだから今まで食べたことのないもので、これまで食べたいと思っていたものをゆっくりと時間をかけて食べられるな」

 響子と旬一は打ち合わせのときの流れの雰囲気で、仕事以外の話をした。レストランで食事を注文して、食べるという設定のなかで、最初話の話題は自然と食べ物や料理に関することであった。今まで仕事以外のことを話題にして話したことがなかったので、料理の話題だけでも話が尽きなかった。旬一が料理に関しても知識が豊富であることに驚いた。コンピューター関する知識技術には、驚きの連続であったし、彼が専門家だから考えてみれば当然だと思っていた。料理に関する旬一の知識は意外であったが、考えてみれば当然のことであった。彼のコンピューターの知識を得る手段というのが異質なものであった。普通コンピューターの学習をする場合学校か教室に通ったり、書籍を購入して独自に学習したり、専門家や得意な人から教えてもらったりする。旬一の場合は違っていた。そのどれにも当てはまらないように思えるのである。実際その中のどれかに当てはまるのか、それともどれにでも当てはまるのかもしれない。しかしそのように見えない何かがあるのである。響子はそれがわからないが、なぜか知りたいという思いがあるのも確かであった。凡人には分かりかねない天才の部類の特質なのかもしれない。実際そんなことはないのだろうけど、あらゆることがインスピレーションだけから得てしまったという信じられない発想である。

「結局イタリア料理は、建築や芸術品と同じように、歴史上の重厚さに支えられているに過ぎないんだよ。イタリアにはたくさんの建築や芸術品が街にあふれていて、それは過去の多数の建築家や芸術家が残したものなんだけど、その恩恵に現在のイタリア人は預かっている。たいした苦労をしなくても毎年夥しい数の観光客がやってくる。それと同じようにイタリア料理も過去の天才料理人の発案したものに支えられているんだ。パスタにしてもピッツアにしても、それを発案し世界中に浸透させたことに意義があるんだ。今のイタリアのレストランで食べるパスタの味がどうかということではないんだ。おそらくこのレストランで食べるパスタの味に匹敵する味のパスタをイタリアのレストランで見つけることは至難の技だと思うよ。そのような日本人観光客はイタリアで食べるパスタの味にがっかりするんだ。イタリアで食べるパスタの味に感動する日本人観光客は、ただ本場イタリアでパスタを食べていることに単に感動しているんだよ」

 傍から聞いていると、イタリアへ何度も言ったことがあるような口ぶりだが、よく聞いてみるとイタリアへは一度も行ったことがないらしい。それではイタリアに関する書籍を多数読んでいるのかというとそうでもないらしい。それならばこういった知識は一体どのようにして獲得したかというと、一般の人が普通に生活していれば、巷にあふれる情報に普通に触れる。普通の人が、そのような中から獲得する知識というのはたかが知れている。旬一はそのような同じ環境から驚くべき知識を獲得している。このことが旬一の天才的な面なのだろう。このような天才的な手法で、ICTの驚くべき知識と技術を獲得したのではないかと響子は無意識のうちに推測していたようだ。

 仕事以外の内容を話題にして、響子は、旬一と長時間語り合った。このような旬一との会話の中で、旬一への尊敬以上の感情がまた深まっていった。

 一般的な基準とはどういうものであるか分からないが、まあテレビに出てくるタレントや俳優に対して俗に言われていることだろうが、旬一はイケメンと言われるようなタイプではない。この基準に当てはまるとしたら幹夫である。入社式とその後のオリエンテーションで、幹夫に会ったとき、ときめきを感じたことは否定できない。そしてオリエンテーションが終わり、実際の実務が始まり、休憩時間の中での社員間の会話で、幹夫が既婚者であることを知ったときの失望感は否定することが出来なかった。

 課長の幹夫から商品部情報課の社員たちを紹介されたとき初めて旬一を意識的にみたのであるが、何も感じなかった。実際のところ男性として意識することもなかった。背丈は男性にしては低い方である。分厚いレンズのメガネをかけている。髪の毛は年の割には薄い。服装はあまりセンスがいいとはいえない。このような男性に普通の女性はときめきを感じるだろうか。男性として意識もしないのが普通である。

 幹夫は背丈は高い方である。メガネをかけていない。ふさふさした黒髪である。ブランド物のスーツを着ている。初対面で彼を意識しないでいられる女性は少ないかもしれない。しかしちょっとした言動から彼の金メッキは剥がれていき、彼は女性の視野の圏外に追いやられてしまうのである。後から彼が会社に不在の時に、囁かれることがある。彼は背丈を少しでも高く見せるために靴底の厚い靴を履いている。コンタクトレンズをつけている。彼の髪の毛はカツラである。彼は今でもスーツのローンを払っている。既婚者で夫婦仲が悪い。もしかしたら浮気をしているかもしれない。噂が社員間で伝わるうちに事実とどれくらい違ったものになっているのか実は誰も知らない。人の噂というものはいい加減で無責任なものである。

 実態は第一印象とは随分違うという実例を幹夫のうちに見せられたこともあるからだろう。旬一に対する印象は第一印象とは大分違ったものになった。旬一の外観に関するものの多くが、第一印象とは違って見えるようになった。

 旬一のコンピュータープログラミングにおける卓越した能力が、彼への尊敬の念を響子のうちに芽生えさせた。レストランの中でのことであるが、異様な気配の張本人と思われる男性のところに行って、しばらくの間会話を交わした後、異様な気配は彼女の周りからまったく消えてしまった。これを旬一のお陰であると響子は確信している。このことが旬一への尊敬以上の感情を響子のうちに芽生えさせた。レストランで夕食を取りながら二人だけで打ち合わせをしないかという幹夫からの誘いを何度も断り続けた。響子のパソコンのデスクトップの背景画面がかってに変わっていた。これも旬一に話した後なくなった。これもまた旬一のお陰であると響子は確信した。これが旬一への尊敬以上の感情をさらに深みのあるものにした。

 レストランで仕事以外の話題で話す中で、響子の旬一に対する尊敬以上の感情が徐々に姿を現してきた。イタリア料理についての旬一の卓越した知識を見せつけられた後、響子は旬一をいつの間にか男性として意識している自分に気が付き微かな胸の疼きを覚えた。

 いつのまにか普段なら打ち合わせを終わらせている時間を大分過ぎていた。話題は料理から様々なジャンルの話題へと次から次へと移っていた。気がつけば映画の話題で盛り上がっていた。もうお開きにするべき時間であることに気がついた響子と旬一は、二人の評価が一致した何本かの映画のうちのひとつを見に行くという約束をしなければ話を終えることが出来ない。それほどまでに映画の話題で話しが盛り上がっていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る