第1章 6

 あの日以来、響子は異様な気配を感じることはなかった。以前異様な気配を感じた時刻の行き帰りの列車の中で、異様な気配を感じることはなかった。レストランで旬一があの男性と話してから、異様な気配を感じることがなくなったので、異様な気配から開放されたのは旬一のお陰であると響子は思った。旬一への感謝の気持ちが湧いてきたと同時に旬一があの男性と交わした会話の内容について知りたいと思った。会社で交わす会話の殆どは仕事に関することだったので、彼があの男性と交わした会話の内容について聞く機会がもてなかった。

 仕事が一区切りついたとき旬一はレストラン「フルッティ・ディ・マーレ」のことを話題にした。願ってもないチャンスとばかり響子は旬一があの男性と交わした会話の内容について尋ねた。

「彼とは大学のコンピューター部で一緒だったんだ。偶然の再会で嬉しくて話が弾んでしまったんだ。でも会社の同僚との打ち合わせが中心だったから、いつまでも話していられないしね」

 あの男性との会話の内容について聞くことができたのはこのセリフだけであった。響子と旬一との会話はまたほとんど仕事に関するものになってしまった。この話題についてもう聞かなくてもいいという気分になっていった。列車の中でもレストランでもあの異様な気配を感じることは全くなくなってしまった。旬一とあの男性が大学のコンピューター部で一緒であったという話については幾ばくかの疑念があった。話し声が聞こえないほど離れていたので、内容について聞くことが出来なかったが、彼らの話しているときの表情は彼女には識別できた。彼らの話している顔には笑顔は見られず、沈鬱な表情であった。大学時代の話題を懐かしんで話していると到底思えないような様子であった。

 優しさからくる嘘もある。響子は旬一の嘘がそのような類の嘘であると思った。旬一とあの男性との会話の内容が響子を傷つけるものであり、ありのまま伝えないことが一番良い方法であり、そのため嘘をつくことは最善の方法であると旬一は思ったにちがいない。それがまさしく旬一の優しさであると思われた。

 旬一に響子が初めて会ったのは、もちろん会社内でのことであった。そのとき旬一に対して、コンピューターの専門家ということ以外では特に印象に残ったことはなかった。思春期から社会人になるまでの期間、惹かれるような男性には確かに何人か巡り合ってきた。旬一に最初に出会ったとき、そのような感情は全く感じなかった。

 旬一に対する感情の微妙な変化があったのは、HTML言語に苦闘していた響子を助けてくれたときであった。C言語に精通している旬一にとってHTML言語の読み書きはいともたやすいことであった。そのとき響子のうちに湧き上がったのは、プログラムも堪能な旬一への尊敬の念であった。日々の業務の中で旬一のプログラム力には目を見張るものがあって、響子の旬一に対する尊敬の念は確固たるものになっていった。この確固たる尊敬の念が積み重なった重厚な思いがあったから、旬一のあの男性との会話に関しての嘘が、旬一に対する軽蔑の念を起こさせるどころか、旬一への密かな思いを芽生えさせる媚薬のようなものになったのかもしれない。

 旬一がデスクを離れているとき、無意識のうちにデスクの上に目が移ってしまうことが最近よくあるようになってしまった。机上にはパソコンの専門雑誌が開かれた状態で置かれていることが多かった。それは大抵はパソコンやアプリケーションソフトの広告で、人気女優がパソコンやアプリケーションを使っている様子がアップで映し出されているものが多かった。女優が身につけているビジネス用にしては幾分ファッショナブルな衣服は見るたびに響子の目に焼き付いた。

 その日は仕事がいつもよりも早く終わったので、響子は書店に立ち寄った。コンピューター関連の雑誌のコーナーへと足を運び、棚に陳列されている雑誌の表紙を眺めていた。ある雑誌が目に止まり、手に取って適当にページを捲った。そのときすぐにその雑誌が、旬一のデスクの上に置かれている雑誌であると気がついた。何ページかを捲ったときあるページが目に止まった。旬一のデスクの上に開いて置かれていた雑誌のときと同じページであった。女優がパソコンを操作している場面が映し出されている広告のページである。その女優の衣服が彼女の目に印象深く焼き付いていたものであった。その雑誌を持ってレジへと足を運んでいった。

 書店を出た後、百貨店に入り婦人服のコーナーに立ち寄った。いくつか婦人服のコーナーを見た後、ある婦人服のコーナーで、響子が買ったパソコン雑誌の中の広告に映っている女優が身につけていた衣服と同じものが展示されていた。響子はすぐに値札をチェックした。彼女が普段購入するものに比べて可成り値が張るものであった。財布の中身を確認したが、持ち合わせの現金はその額に到底及ぶものではなかった。クレジットカードを取り出して、その商品を持ってレジへと向かった。

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