第二十五章 婚約指輪

分厚いステーキをナイフでざっくり切り、大きな塊を口をいっぱいに広げて頬張る。

片方のほっぺたをプクッと膨らませて、大胆に顎を上下させる。


唇は肉汁の脂で光っている。

旨味の快感が脳を刺激するのだろうか、時折片目を閉じるようにして、トロンとした表情になっている。


ドレッシングをかけたサラダの皿にフォークを突き刺し、レタスとキャベツを口に放り込む。

さわやかな冷たい水分が口の中の脂を流していく。


隣の皿に盛られたパスタをフォークですくい、ズルズルと音をたてて呑み込んでいく。

喉に詰まったのか、ビールのグラスをとると、ゴクゴクと音をたてて流し込んでいく。


「アーッ」

と、やっと息をついた顔は、まるで子供のようである。


ひとみの母の安子は、うれしそうに頬杖をついてながめていた。

ひとみも手を休めて、呆れたように見つめている。


その薬指にはダイヤのリングが光っていた。


「ちょっとー、もっとゆっくり食べなさいよ。

誰も取りゃしないんだから・・・」


ひとみに言われて、青井は少し照れるようにビールを飲んだ。


「はっはー、先々週から一人暮らし始めたさかい、

家庭の味に飢えとったんや・・・。


ほんでも、めちゃ旨いなあー。

お母さん、料理、上手なんですねぇ・・・」


安子はうれしそうに微笑むと言った。

「よかったわ、お婿さんのお口に合って・・・」 


二人が結ばれてから三週間後の土曜日に、青井はひとみの家に正式に挨拶にきた。

神妙な顔であらわれると、指輪持参で婚約したいと申し出た。


安子は快く承諾し、この息子になるには少々年をとった男の為に、朝からご馳走を用意して三人で夕食を囲んだのだ。


「あら、あたしだって一緒に手伝ったのよ。

それに時々、作ってあげてるでしょ・・・?」


そう言いったひとみは、母と目が合うと顔を赤くした。

この頃遅くなる理由を話したようなものだからだ。


「そんでもな、どっかちょっと違うんやな・・。

なんちゅーか、年期の違いちゅーか、

まったりとして、それでいてしつこくなくて・・・」 


ひとみはフランスパンを半分ちぎって、青井の口に詰め込んだ。


「勝手に言ってなさい」


ひととおりオチがつくと三人は楽しそうに笑った。

こんなににぎやかな食事は、夫が亡くなって以来始めてであった。


安子は自分が食べるのも忘れて、男の食べっぷりを眺めている。 

食事が終わると、安子とひとみはキッチンへ後片づけに立った。


「ひとみちゃん、いいわよ。

お婿さんのお相手してあげなさいよ」


安子が気を遣って言うと、


「いいのよ。

あのオジさん、ズーズーシーから一人で飲んでるわ」


ひとみは汚れものを持ってくると言った。


「そんな事言ってアツアツのくせに・・・。

ふふっ、でもよかった、いい人で・・・。

死んだあの人にそっくりだわ・・・」


ひとみはそう言われて、目をむいて大きな声で言った。


「ええーっ、全然違うじゃない。

お父さんの方がもっとスマートだし、

あんな関西弁まるだしのオジさんじゃなかったわよ」


ひとみがムキになって言うので、くすくす笑いながら母は言った。


「それはあなたが勝手に思い込んでいたんでしょう。

お父さんだって商売やってて乱暴な所もあったし、

だいいち・・・・元々、関西の人だったのよ」


母に意外な事言われると、ひとみは驚いた顔で言った。


「えーっ、そうだったの・・・全然、知らなかったわ」


母は少し、しんみりして言った。


「そうね、あの人が死んでからあんまり昔の事、

話さないようにしてたものね。

でも、覚えていない・・?


あの人、普段は標準語しゃべってたけど、

怒る時はもろ関西弁になって、そのギャップもあったけど、

ものすごく恐かったじゃない・・・」


そう言われてみて、ひとみは幼い頃の記憶をたどってみた。


そういえば、さすがに大きくなってからは殆ど怒らない父であったが、幼い頃、嘘等つくものならばものすごく怒られた記憶がある。


特にごまかすようなズルイ嘘をついた時、いつも話している言葉と全く違う調子で怒る父がまるで怪物に思え、絶対嘘はついてはいけないと何度か肝に銘じたものであった。


「へえー、あれって関西弁だったんだ。

小さくてよく覚えてなかったけど・・。

だから嫌いだったのかなー、関西弁・・・。

すっごく恐かったもの、お父さん怒ると・・・」


ひとみは懐かしそうに言った。


「そーね、お父さん普段は優しい人だったから・・・。

特にひとみは目の中に入れても痛くない程、

可愛がっていたものね」


その父も今はいない。

もし、いたら今日はどういう反応を示しただろうか。


だが父の面影を追いかけていたからこそ、青井に無意識に魅かれていたのかもしれない。

父とは正反対のイメージだと思っていたのに。 


ひとみは改めてキッチンのドア越しに青井を見た。

男はぼんやりとタバコの煙をくゆらせている。


この広い世界の中で自分はこの男を選んだ。

最初は嫌悪感さえもいだいたのに。


男の人柄に触れる内、徐々に魅かれていった。

人の縁とは不思議なものである。


優子にしろ、そうである。

最初は中年など絶対イヤだと言っていたくせに、田坂と結ばれた。


すでに籍を入れ、一緒に暮らし始めているらしい。

十月の人事移動で、営業部は一新した。


全体の本部長に青井が就任し、今まで兼務だった相沢常務が副社長に昇格した。

二課の課長には高橋がなった。


相変わらず思い込みが激しい面もあったが、青井に出会ってから今まで空回りしていた才能を着実に開花させていた。

山中がサポートする形で、二課はこれからもいい雰囲気をつくっていくだろう。


四課も横田がリストラで子会社にまわされると、高橋と同期の山田が三課から移って課長になった。

一課も三課も三十代の若手が起用され、青井が仕事しやすいように会社も全面的にバックアップ体制をとってくれた。


栄京商事の中枢部は何と言っても営業部である。

青井は全幅の信頼をうけて動き出した。 


田坂はニューヨーク支社長として、優子を秘書に伴って赴任する事になった。

栄京商事の歴代社長は二人のポストから出ている。


二人の会社内でのレースは、実は始まったばかりなのである。

優子は言った。


「もしかしたら私達、

とんでもない人達と結ばれたのかもしれないわ。

でも思うの、もし田坂さんが奥様と別れていなければ、

好きになったりしなかったろうって・・・。


恋ってお互いが信号を出し合って魅かれていくものだと思うの・・・。

もし、あの人が奥様の事を思っていればその信号も出なかっただろうし、

私の方も別の意味で尊敬こそすれ、愛情はわかなかったと思うわ」


ひとみもそう思った。


自分は確かに青井に魅かれていったが、それは青井の方がひとみの恋の信号に微妙に反応してくれたからだと思う。

一方的に自分は不倫だと思い込み悩んでいたが、元々青井の方で無視されていたらこうまで好きにはならなかったはずだ。


世の中で泥沼の不倫におちいるケースは幾つもある。

だけど、それは殆ど家庭がすでに崩壊していたり、夫婦の愛情が冷めているせいなのである。


もう、すでに泥沼にはまっているのだ。

だから、そういう時、男も女も都合のいい嘘をついたりする。


そして次第に嘘がばれ、修羅場が展開するのである。

本当に愛し合う不倫など、実は存在しないのではないかと思う。


時代が違って、家同士の決まりで無理に結婚させられるなど、特別な場合でない限り一応恋愛をへて結婚した夫婦が簡単に浮気をするのには、ある程度の理由があるはずだ。

そんな時犠牲になる子供はかわいそうだが、その前にその家庭には何らかの事が起こっているはずである。


ひとみが悩んだようなケースはもしかすると、殆どないのではないか。

ひとみは、そう思いたかった。


そうでもなければ、あの時の自分は悲しすぎると思う。

身をひこうとは思っていたが、もしかすると無理矢理、青井を奪っていたかもしれないのだ。


そんな事をすれば、あの可愛い勇太君から家庭を奪う事になってしまう。

きっと、一生重い十字架を背負うことになったであろう。


つくづく、勘違いでよかったと思う。

何の代償もなく青井と婚約でき、勇太や美都子とも親戚になれる。


もうこれ以上の幸せは考えられなかった。


「でも、寂しくなるわ、ひとみがこの家からいなくなると」

食後のコーヒーを飲みながら安子が言うと、ひとみは明るく答えた。


「大丈夫よ、その代わり私が会社を辞めてお母さんのお店手伝うから。

これでも英検一級だし、宝石の買付けの交渉なら任せてよ。

それに今まですれ違いの多い生活だったし、

かえって昼間ずっとお母さんのそばにいられるから

今より寂しくないわよ。

青井さん・・・

義和さんも時々は一緒に食事でもしようと言ってくれてるし」


そうして、はにかむように青井を見た。

テーブルの下で二人は手を握り合っている。

左手のダイヤがキラリと光っている。


「そうですよ、

さいわい僕のマンションもこの家からも近いですし、

お母さんも・・・照れるなあ・・・

こんな若い人つかまえて、いつでもうちに遊びに来て下さいよ」


青井のセリフに顔を赤らめると、うれしそうに安子は言った。


「そうね、考えてみると、私の方が青井さんと年齢近いのよね」

そう言うと色っぽく青井を見つめた。


「ち、ちょっとお母さん・・・

やめてよね冗談は、いい年して・・・」


ひとみがあせって言うと、


「あーら、私だって満更捨てたもんじゃないのよ。

ねー、青井さん?」


青井は笑いながらコーヒーを飲んでいる。 


「ちょっと何とか言いなさいよ。

イジワルー・・・」


ひとみが泣き出しそうな顔で言うと、コツンと頭を叩いて言った。


「アホッ、何むきになっとるんや。

こっちが恥ずかしなるわい・・・」


オチがついたところでお開きになった。

タクシーを呼ぶという安子に


「いや、通りまで出て拾いますわ。

少し酔いも醒ましたいし・・・」


そう青井が答えるとひとみが言った。


「私、そこまで一緒に行くわ」

母は微笑むと二人の邪魔にならぬよう玄関で別れを告げると、部屋に戻っていった。


十月になったせいか夜になると、だいぶ涼しくなっていた。

ひとみは青井の腕に自分の細い腕を滑り込ませると、やっと二人きりになれたと思った。


幸せを噛みしめるように歩いている。

青井はひとみの体重をくすぐったく感じながら、空を見上げて言った。


「来週やな、田坂達が日本たつの・・・」


「そうね、金曜日に送別会を兼ねて結婚パーティーをして、

日曜日に二人で行くのよね。 

私も十月いっぱいで会社辞めるし、

営業部も二人の美女を同時になくす事になるのね?」

 

ひとみが少し気取った感じで言うと、


「そやけど、今度来るフロアーキーパーの子、

可愛いって評判やで」


青井が意地悪く言った。


「ちょっとー、何よそのデレデレした顔は・・・

浮気なんかしたら許さないからね」


ひとみが頬を膨らませて言った。


「アホ、こんな中年の相手する物好きおるかっ・・・

お前以外にな」


大通りに出る前の路地で立ち止まると、男はひとみを抱き寄せた。

薄暗い街灯に照らされた影が一つになった。

女は唇を離すと、男に抱かれながら言った。


「泊まっていけば、いいのに・・・」

愛おしそうに頬を押しつけてくる。


「まだ・・・な。

今日挨拶したばっかりやし、いきなりズーズーシー事して、

嫌われてもなあ。

ほんでも明日はマンション来るやろ・・・?」

 

男が言うと女は顔を上げずに言った。


「どっしようかなー、

私の手料理なんか、おいしくないだろうしぃ」


「アホ、あれはお母さん喜ばそ思て言うたんやないか・・・

うまいよ、本当お世辞抜きで、お前の料理・・・」


女はうれしそうに顔を上げて言った。


「本当?」

「ああ・・・本当や、最高や」


「私・・・いいお嫁さんになれる?」

「ああ・・・なれるよ」


「うれしい・・・」

ひとみは又男の胸に顔を埋めた。


むせかえるようなタバコの匂いと汗の匂いが女を包む。 

ほんのわずかの間だけなのに。


明日又会えるのに。

別れたくなかった。


早く一緒に暮らしたいと思った。

ただ今夜は青井にもらった婚約指輪をゆっくりながめて、眠りにつこうと思った。


幼い頃から夢見ていた指輪である。

白馬に乗った王子様が左手の薬指にそっとはめてくれた。


少し年をとった王子様ではあるが。

青井は惜しむようにもう一度強く女を抱きしめ、軽く口づけすると手を振って言った。


「じゃあな、危ないから早よ帰れよ・・。

明日来る時、電話してくれ」


そして大通りに出てタクシーを拾うと乗り込んだ。

走り去るタクシーのテールランプを見送ると、ひとみはゆっくり家までの道をたどった。


こうして一人家に帰るのも、あとわずかであった。

十一月の吉日に二人は式を挙げる。


ひとみは空を見上げ静かに息を吐いた。

幸せなため息であった。


夜空の星が一つ、微かにまたたいている。

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