第4話 二 路頭に用意された希望

 退社して早二週間。

 会社に向かわなくてもよくなくなったにしても、数十年続けてきた生活習慣は変わらず同じ時間に目が覚め、用意されている食パンとハムエッグを食し、会社へと向かう用意をする。はずが、もうその必要もなくなっていたワシはこれから先の時間が問題なのである。

 とにかくやる事がない。

 会社の若社員の会話を聞いていたから、「何かワシに手伝える事はないか?」と一応訊ねてみたのだったが、「大丈夫よ、ありがとう。」と笑顔で返してきた。やはりワシのできる事は何もなく、這いずる様に家中を掃除して回るゆこを横目に、煙草の煙をパカパカと浮かべながら朝刊の記事を端から端まで眺めるのがワシの日課となっていた。

 それはまるで会社にいた時と同様。いや、あの時は書類に判をつく唯一ワシにしかできない仕事があった分今の方が断然酷い。

 ゆこが何も言ってこないからできる事がない。これではまるでフロアに佇むだけの新入社員と同じではないか。そう思うと何だか情けなく感じながら、トイレという閉鎖空間へと身を隠すのだった。

 そんな日々がしばらく続く中で、ゆこの態度が段々と変わっていく様を流石のワシも感じ取っていた。

 いつも通りゆこは炊事洗濯をこなしているのだが、そこに笑顔はなく、殺伐とした雰囲気にまみれて掃除機をかけていた。ワシが煙草に火をつけたその時、

「アナタっ!!いい加減にして下さいっ!!!」

 金切声を上げながら、掃除機のノズルをその場に勢いよく放り投げた。尖らせた瞳をこちらへ向けて、言葉は続く。

「毎日毎日そうやって煙草吸いながら新聞やテレビを眺めてるだけ…。別にそれはそれでいいの。今まで頑張ってくれてたんだから。ただね、ちょっとくらい家から出る用事ないの?」

「えっ?」

 ゆこが何を言い出したのか意味が分からなかったワシは、その場でただただ狼狽える事しかできない。

「あ、ごめんなさい。驚かすつもりはなかったの…。あのね、気分転換にでもちょっとだけ外出してくればって思ったのよ。うん。その方が私もちょっとだけ助かるから。ねっ?お願い。」

 その言葉の意味。やはりはっきりとは分からないが、今は家を出る事が吉。そう思ったワシは、携帯電話と財布だけを手に家を飛び出した。

 そういえば退社後一度も外に出ず、リビングのソファを占領し続けていたぐうたらさよろしく。ゆこが機嫌を損ねるのも無理はないと思った。

 日中の商店街は意外と人が少なく、時折隣を通り過ぎる近所の顔見知りと挨拶を交わしながら毎朝通勤していたこの路を進ませていると、いつの間にかコンビニが建っていたり、古びた市場が大きなスーパーマーケットに変わっていたりと、微妙な街の変化が目に入ってくる。

 何故これまで気がつかなかったのか。きっとそれは心にゆとりがなかった…。いや、それは違う。穏やかで、毎日が幸せすぎたワシは周りの変化を気にしようとしなかっただけなのかもしれない。

 ビールや煙草、その他諸々。生活必需品は常に用意されていて、ワシ自身が買いに行く事などなかった。

 そう、ゆこに全て支えられていた暮らし。それは感謝の念の他何物でもなく、帰宅した際、もう一度ゆこに素直に想いを伝えようと思った。

 気がついた時、ワシは会社の正門の前に立っていた。

 あれだけ咲き乱れていた桜はすっかりと新緑眩しく、たくましい姿へと変わっていて、営業マンや業者の方々が行き交う姿が岡部商事の安泰さを物語っているように思え、ワシは胸誇らしく会社を見上げた。


『あれから一カ月近く経っていて、総務課は通常通り動いているのだろうか、係長であったワシの後釜は誰が任されているのだろうか。部下達は元気にしているのだろうか…。』


 ふと今一度会社へと入りたいという想いが胸に過った。が、現役時にあれだけ鳴っていた携帯電話も退社を境に一切鳴らなくなっていて、行ったところでワシの居場所はあるはずもなく、(元々あるようでなかったような気もしなくはないが)厄介がられるだけだろう。

 そう思うと入る気は一気に冷めていき、何故か震える身体を押さえながらそっと会社へと背を向けた。

 朝の柔らかな日はすっかり眩しく天高い所へと昇ろうとしている。家を出た時から優に一時間くらいは過ぎているのだろう。ところでワシはいつ帰宅してよいものか。 しかし、こんな心持ちで家に帰る気分にもならず、街を探索がてらもう少しそこら辺を歩いて回ろうと思った。

 そうしていればいくらかマシになるだろうという希望を心に添えて…。

 そういえば昔、一度だけ食パンを買ってきてと頼まれ、当時社内で話題に上がっていた街外れのベーカリーへと会社帰りに向かった事があったのを思い出し、ふとそちらの方へ足を向けた。

 街の外れのベーカリーとは会社の裏手の方にあり、そこは昔から閑静な住宅街が広がっていて、昼にも拘らず人っ子一人もすれ違う事もなく、たまに側を通り過ぎる車は全て高級外車。

 まるでジオラマのようなこの街。もしかするとテレビカメラがどこかに潜められているのではないか。そんな事はあるはずもないのだが、そう思うと胸を張り、自然とカッコつけて歩く自分自身がどこかおかしく、ニヤリ前を見つめながら歩を進ませていた。

 立派なビルディングがいくつかそびえる中であのベーカリーは未だ営みを続けていて、少しだけ離れたここでも焼けるパンの香りが風に運ばれ、ワシの腹の虫にいい刺激を与える。昼食は何がいいかと迷っていた矢先。これは丁度いいと思い、ベーカリーに立ち寄りアンパンとコーヒー牛乳を買って店を後にした。

 買ったはいいが店の前で立ったまま食べる訳にはいかず、減る腹を押さえながら歩いていると、高級住宅街はいつしかアパートや小さな商店が軒なむ下町へと姿を変え、馬鹿騒ぎをする若者達がワシの横を通り過ぎていくのを横目に眺めていた。

 ここまでくればちらほらと空き家も目立ち、それは同じ街とは思えないほどのほつれ具合が目立つ。どうしてここまでの違いがあるのかはワシにはよく分からないが、大阪でも同じような街はあり、行政の妙な癒着の元でそうされているのだろう。

 しかし、そんな事など関係なく、とにかくワシは先ほど買ったパンを食べる場所が欲しいとさまよい歩いていると、まるで昔のドラマかアニメかで見たと思わしき、この時代に珍しい空地が目の前に現れた。

 多分ここは、休日には少年少女達の恰好の集いの場所にきっとなっているのであろう。適当に手放された空間の奥に積み上げられた土管。放置されているゴミ袋の数々。空白の中に置き去りにされたこの心。

 ワシは吸い込まれるようにその空地へと入り、土管に腰をかけてアンパンを流し込むようにコーヒー牛乳を貪り飲んだ。

 空腹を征せば心も満たされる。と思いきや、心の空白は更に白さを増したように思え、「何やってんだ、ワシは…。」頭を抱えて深く項垂れた。

 いつ帰っていいのかさえ分からない自宅とゆこの機嫌。そういえば息子はともかく、娘の方はゆこには何でも話していたようだがワシには何も話さず、むしろ明らかに好感を抱いてなかった態度を何となく思い出してしまった。

 会社の同僚に相談したところ、その頃の年頃によくあるものだと背中を叩かれながらビールを注がれた。だからそう思ってやってきたのだったが、何か違う。でも言葉にできず過ごしていた。それは多分、いや、やはり娘にはこんなワシの姿が情けなく映っていたのかもしれない。

 確かにワシは昔からカッコよくなんてなく、これまで過ごしてきた人生の中でスポットをあてられた事はゆこを嫁にできた事だけ。それ以外には何もなく、そんなワシを最近の言葉で表現するとウザいやキモい。マジで言うとヤバいと感じて桜子はワシを避け続けたのかも。

 よくよく思い返すとイギリスへと留学するのもゆこに相談して、ゆこの口から伝えられた。ゆこがワシに話すという事はゆこ自身が肯定したのだから。そんな事ワシでもわかるから、否定する事なんてできなかったのだ。我が娘ながら頭がいいやり方であり、だからこそ悔しかった。

 その点、秀人は純粋で単純。ゆこの手伝いも利害関係なく行っていて、何よりワシの話をよく聞いてくれた。それは今でもそうで、結婚後一度も帰国しない桜子とは対照的であり、それが理由でという訳では…。いや、それが全てである。ワシは桜子より秀人の事の方が可愛く思っていた。

 親として好き嫌いはあってはならない事はよく分かっている。しかし、これまでの経緯を考えればそう思ってしまっても仕方がない事。と、いい訳させてほしい。

 それよりも、ワシはいつ家に戻ったらいいのだろうか。

 携帯で家に電話すればいい話ではあるのだが、家を出る前、初めて聞いたゆこの叫び声が胸に突き刺さっていて、どんな言葉で電話していいものか…。

 これまでもゆこはワシの行動に対し我慢していた事ばかりなのか。もしかするとゆこと桜子はワシの事を罵り合いながら過ごしていたのかもしれない。いや、そんな事は…。


『本当にないのか?』

 

 会社員だけではなく、父として夫としてもうだつが上がらない自分が小さく、この歳になってまでも変わっていない自身が情けなく思えた。

 ふと煙草が吸いたくなり、ポケットをまさぐってみても、あるのは携帯と財布のみ。溜息を大きくつかせながら再び視線を落としたその先に、泥にまみれた一冊の雑誌が落ちている事に気がついた。

 この空地に捨てられている雑誌の種類なんて往年の物語から優に予想がつく。もし、その雑誌による情報に与えられる煩悩がこの頭に宿る記憶を歪ませてくれるのなら、胸に残る痛みを和らげてくれるのなら。

 ワラにすがる想いで、震える腕を伸ばしてその雑誌に手を伸ばしながら、


『きっとこの雑誌のタイトルは「スイート・レモネード(仮)」か、「ハニー・プロテイン(謎)」に違いなく、古めかしいアニメ画か昭和を感じる艶めかしい女性の姿が表紙に掲載されているはず。

 それよりも、そのような雑誌を見るなんて何年ぶりなのだろうか…。最近の事情など分からないワシにはいささか刺激的な描写が待ち受けているに違いない。覚悟して拝見する事にしようじゃないか…』


 そう思う事わずか余り。

 指に雑誌の感触。まるで全身が心臓と化したような身体の震え。

 鳥のさえずりと、少し陰り始めた日の光。だけど眩く、ワシは目を閉じて思いっきり雑誌を引き上げ、胸の前に。ワシはまだ目は閉じたまま、両手でソレを持ち直し、震える指を止めるのに必死。いや、目を開ける勇気さえ持てずに困惑していた。これを見てしまう事により、ゆこに対しての浮気になってしまうのかも、と…。


『いや、そんな事はない。別にこれを見たところでゆこに対しての気持ちが揺るぐ訳ではなく、やましい気持ちなどあるはずなどないではないか。ちょいと立ち寄った場所で気になる物に意識がいっただけ。

 いや、それが浮気になるのではないか?そんなはずはない。ただワシは、二次元の無機質な画像を見るだけではないか。それがゆこに対しての浮気になるのであれば、この現代全てが汚れているという事になるではないか。

 これは浮気ではなく、ちら見するだけ。そう、それだけである。いざ、尋常に…。』


 思う事、三秒半。とにかく適当に雑誌を開いて目を見開いた。

 そこにはどこかの外国人がカッコつけてポージングを決めているグラビアと、まとわせているスーツの解説文。よくよく見てみると撮影されたロケーションの場所の掲示。

「何だこれ…。」

 ワシは冷静になろうと一つだけ息を吐き、改めて表紙に返してみると、『月刊バロン』というタイトルと共にスーツに身をまとわせた男性外国人のウインクしたどアップ。

 確かこの男性はイタリア出身の元サッカー選手で、今テレビを賑わせているちょい悪オヤジの一任者だったはず。

 そこでワシは気がついたんだ。

 これはエロ雑誌ではなく、ただのファッション雑誌。

 何でこんな場所にこんな雑誌が捨てられているのか、いや、それよりもこの雑誌がこの男がワシの期待を飛び越えるほどの情報を与えてくれるのか。むしろ、


『この男がワシに何の用があるんだ?』


 そう思い、今与えられる現実に身を委ねようと思いのままにページをめくり続けていた。

 テーブルに頬をつかせ佇む姿や余裕に女性をエスコートする姿。めっさ笑顔で犬を撫でまわしながらカメラ目線。そして、上品にスパゲッチィ(雑誌ではパスタ)を旨そうに頬張る姿。

 この男は何故ここまでカッコつける事ができるのだろうか。

 雑誌を眺めている内にどこか苛立ちを覚えたのだが、少しだけ憧れた自分の気持ち。捨てきる事はできず、ページをめくり続けていると何故か悲しい気持ちになっていた。

 イタリア人、今日本のメディアを騒がす軟派なこの男。恰好のいい男性。軟派な真意、男でも感じる魅惑の眼差し。それをよしとする世論…。

 戦後、数十年。

 いつも見ているテレビ内容はそこまで真剣に見た事がなかったのだが、ワシらが若い時と比べれば大層つまらなく、まるでそれを補うように女性の露出が増えたような気がする。しかも、こんな軟派な雑誌の、こんな不埒な男に大和撫子達がときめき、目を輝かせているだなんて我が国は一体どうなってしまったのだろうか?

 ワシらの親父達は、お爺達は。そして先人達はこんな軟派な国を作る為に先の大戦で玉砕した訳ではない。

 着物でも袴でもなく、どこか分からない細身でカッコ…、いや。外国のスーツ。日本の俳優ではなく、イタリーだかナタリーだか分からないカッコい…、いや。外タレを使う為に。

 日本古来から続く古き良き歴史を、ナウでヤングでトレンディ。こんなカッコいいものに…。あ、言ってしまった。

 もういい。ワシの正直な気持ちを語ろう。

 アルマーニやシャネルを主に、他にもよく分からないカタカナブランドの召し物を着ている、このオシャレな雑誌にメインに映る男が悔しいがカッコよく思えて仕方がなく思ってしまっていた。

 それに引き替え、ワシはこれまでリクルート・スーツくらいしか着た事はなく、若い時からそんなにオシャレをした記憶もない。先に語った通り、光を浴びたのはゆことの結婚の他はなく、後は会社のホコリと人の冷たい視線を浴びた人生。

 それでも家族がいたから幸せだったには違いないが、男としての雄々しき生き方ができたのか。いや、そんな立派なものじゃなくていい。自分らしく過ごせていたのか。心の中にある言葉を吐き出せていたのか。

 そんな事思わなくとも自分が一番分かっている。

 大阪から東京へ来た時、ワシの心は希望と野心に燃えていた。にもかかわらず、いつ、その炎が途絶えてしまったのか。それはゆこを娶り、子を授かったから。家庭というものが若かりし日のワシに上書きされたのだ。

 それは悪いものではなく、何かを護れば何かを失うのは世の常であり当たり前の話であり、今さら何を思っても詮無き事。

 なのに今、自分は何故このような気持ちに陥っているのか。どうしていきたいのか。何をしたいのか。

 ふと考えてみても埒が明かず、思ってみても想いが膨らみ、堪らなくなったワシは思いのまま天を仰ぎ見て咆哮した。が、声は青空へと吸い込まれていき、

「何?あのおっさん。キモい…。」

 空地を通り過ぎようとしている女子学生に指を差されてしまう始末。その声に冷静になったワシは、未だ手に持っているこの雑誌を力強く地に叩きつけた。

 この雑誌からもたらされた情報がワシの心をざわめかせ、でも無駄ではなかったと何となく思うがやはり何だか分からない。

 ゆこの気持ちも分からないでもないのだが、ただ、ワシの家にワシの居場所を無くす訳にはいかず、意を決して足早に空地を後にした。

 連絡せずワシが戻ったゆこの態度を窘めるべく…。


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