第3話 一 あの日の夢、あの日の空

 家路にて考えていた事。

 それはこれからの事。つまり、世間一般に余生と呼ばれる時間の過ごし方である。

 これまでは仕事をメインに考えていればよかったものの、これからはそうもいかないだろう。

 何故そう思ったのかは、以前若者社員達が話す最近の夫婦の事情を聞いてしまっていたからだった。

 どうやら風呂清掃は当番制らしく、ゴミ出しは早朝、夫の一番の仕事。それだけではなく、たまの休日に食事を作るのが夫の仕事なのだとか。しかも社員の呟きは苦言ではなく、むしろ嬉しそうな表情を浮かべていて、ワシはしばらくの間思い悩んでしまった。

 風呂掃除やゴミ出しを頼まれるのはいいとしても、食事を作れと言われたなら正にお手上げ。炊飯器の扱い方さえ知らないワシには無理な話である。

 ゆこからそんな事をお願いされないとは思うが、もしかしたらばという懸念が頭に過る。が、やはりそれはない。

 台所が自分の居場所だと言い切るゆこがワシを台所へ立たす事を許す訳もなく、性格上、その他も言いつけてはこないだろう。多分…。

 思わず胸を撫で下ろすと、ふと桜子と秀人の事が脳裏に過った。しかし、それこそ今さら考えても仕方がない。親という立場ではあるものの、大人となった二人の責任ある行動にどう口を挟む事ができようか。

 ただ黙って見守り続け、本気で困った時にだけそっと手を差し伸べればいい。もういい大人達なのだから放っておくしかないのだ。と、少し寂しい気もするのだが…。

何より今はどんな気持ちで、どんな表情で我が家の玄関をくぐるのかの方が深刻である。

 きっとゆこは今日という日を祝福して迎えてくれる。何も心配する事はなく、胸を張って家に戻るだけ。そう、何も心配する事などないのだ。

 様々な想いを心にも頭にも過らせながら路に歩を進ませていくと、我が家の前。視線の先には玄関があった。インターフォンを押そうとした指が止まった。柄にもなくワシは何故か緊張していた。

 自分の家に入るだけなのに何故緊張しなければならないのか。そう思い返し、ふっと息を吐き、背筋を伸ばして『ままよ…。』と勢いのままインターフォンを鳴らすと、秒も待たずして玄関が開いたと同時に破裂音と共に紙屑が飛んできた。

 ワシはびっくりして思わず後ろへと飛び跳ね、視線を前に向けると、玄関の内側でクラッカーを手に持った眩しい笑顔のゆこ。

「うふふ。びっくりさせちゃったわね。それより、四十三年間の会社勤め。お疲れ様でしたっ!!」

「なんだよ。ホントびっくりしたなあ、もう…。寿命が十年くらい縮まっちゃったよ。」

 その言葉に、ゆこは更に微笑んだ。

「うふふ、だーめ。長生きして貰わなくちゃ困るわ。これからの人生に二人だけで祝杯を挙げましょう!!後で片づけるから、早く中へ入って。」

 いそいそと家の奥へと消えていく背中を眺めていると、表情が自然と緩んでいくのに気がついたワシは、軽く咳払いをこぼして玄関を締めた。

 いつもと変わらないはずなのに、家の中がやけに眩しく思うのは何故なのだろうか。自分の家にも関わらず、きょろきょろと周りを見渡しながらリビングへと入った時、ワシは目を疑った。

 まるで今から学芸会が催されると思わしき飾り付けがリビング中に施されていて、ダイニングテーブルにはゆこが腕に寄りをかけた料理が所狭しに並んでいた。その真ん中には『祝☆岡部商事卒業』と板チョコに書かれたホールケーキが置かれていた。

 目を瞬かせながらそれらを眺めているワシの背広を脱がそうとするゆこは、「驚いて欲しくて、朝から頑張って用意してたのよ。アナタ、嬉しい?」

 顔だけで振り向く側に、万遍の笑みを浮かべたゆこの顔。思わず眼頭が熱くなる感覚を懸命に誤魔化しながら力強く頷いて見せた。口元が微かに震えているのが自分でも分かる。多分それにゆこは気づいているのだろうが特に気に止める事もせず、背広をハンガーにかけてダイニングの椅子へと座った。

「今日の為にちょっとだけいいロゼも取り寄せたのよ?さ、アナタ。食べましょっ!!」

 料理の魔力に吸い寄せられるようにダイニングテーブルの椅子へと座り、改めて目の前に広がる料理はまるで宝石のように輝いて見えた。

 席を向かわせて手を合わせ、「では、いただきます…。」「さあ、たんと召し上がれ。いただきます。」

 端にある料理から順々に箸をつけていくと、当たり前なのだが全て美味であり、次第に止まらなくなっていき、年甲斐になく勢いよく食べるワシの姿を微笑ましそうに眺めているゆこの視線とぶつかった。

「どう?美味しい?」

「そんな事聞くまでもないよ。ゆこは食べないのか?」

 ハンカチで口を拭いながら照れ隠すワシのその言葉。それを無視するように、「どう?美味しい?」

 首を傾げる仕草で真顔のゆこ。

「嗚呼、うんうん。美味いよ。ゆこ、ありがとう。」

「そう…、ならよかった。」

 深い息をついて笑顔に戻り、そこで初めて料理に箸をつけ始めた。

 手の込んだ料理とホールケーキ。ゆこおススメのロゼに舌鼓して、これまでの事、そしてこれからの事を踏まえた談笑を繰り広げながら、宵と酔いは深くなっていく。

 すっかり頬を赤らめたゆこは若い頃と何も変わらず美しく、総務の華と謳われていた事をふと思い出した。何故これまで忘れていたのかは、きっと時間という魔物に目を潰されていた。いや、只々過ぎゆく時の流れに全てを当たり前にさせていた自分の奢りなのかも知れない。

 ワシはプログラムを組まれたように毎日出社し、用意された書類に判をつくだけの日々。それに対し、ゆこは懸命に田中家を支え、愛する二人の子供を立派に育て上げてくれた。ワシはそれに少し加担しただけ。ただそれだけなのである。

 これまで感謝の言葉なんて言った事はなかった。しかし、今だけは素直にそう言える事ができる。

「ゆこ、これまでこの家を支えてくれてありがとう。感謝してるよ。」

「今さら何言い出してるんだか…。アナタが懸命に稼いでくれたから今こうして生活できてるんじゃないのよ…。」

 ロゼを少しだけ口に含ませると、改めてワシの方へ視線を向け、

「私の方こそ、こんな幸せな人生を与えてくれて感謝してるの。あの時、勇気出してアナタに声かけてよかったって思ってるわ。お互い様だから、ねっ?」

 ゆこは笑顔で再びロゼに口をつけた。

「ありがとう。本当にありがとうな…。」

 気がつくと頬に冷たい感触。眼頭は熱く自然と涙が溢れていた。ゆこに気づかれてはいけないと急いで袖で拭い、再び料理に箸を伸ばした。

 何より心に浮かぶ感情はゆこに対しての感謝の念しかなく、堪えがたきを耐え、忍び難きを忍びながら、つつがなく生きてきた自分自身の人生が本物だったのだと心から思えた瞬間だった。

 多いと思っていた料理もなくなっていて、片付けは明日にすると、数年、いや、数十年ぶりに夫婦二人で風呂に入った。

 湯船に浸かりながら湯煙に弄ばれるゆこの背中を見た時、これまで置き去りにしていた感情が胸の奥から雪崩の如く押し流されてきて、これまでうんともすんとも動かなかった下半身が反応しているのにふと溜息をついた。

「ねえ、アナタ。お背中お流し致しましょうか?」

 湯に煙るゆこの妖艶な笑顔にワシは若き日の少年のようになり、「いや、もうええんやで。ゆこ、先に出てくれんかの?」

「何よアナタ。まあ、いいわ。うふふ。先に出て待ってるからね。」

 そう言って湯煙の彼方へと消えていった姿を見ながら、未だ治まらない気持ちと下半身。もう素直になろうと思ったワシは、急いで風呂の用事を済ませてゆこの背姿を追いかけた。

 その後は言わずもがな。ワシらは若い時と同じように肌と肌を重ね合った。ただ、ただ。若かりし頃と違う事を敢えて申し上げたなら、そのまま放出しても受精する可能性はゼロ。

 そう。そうであるのだからなのか、ゆこは寛容に、そして妖艶にワシを求め続けて宵は過ぎ、疲れ果てて、ベッドへ幸せを打ち付けて二人眠り続けた。

 忘れていた妻の肌。幸せの形。これまでの会社勤め。

 何だかんだ頑張ってきたという表現は正しくないと言えるが、とにかく続けてきてこれまで過ごしてきた人生は間違いではなかったというのは確か。

『未来の事など、その時に考えればいい。』

 寝息を立てて眠るゆこの横顔を眺めてそう思い、そっとキスを施してワシも横になった。しかし中々眠りは訪れてくれない。見慣れた天井に視線を向けながら思う事は、

『明日から何をすればいいのだろう。』

 それしか浮かばず、影に浮かぶ天上とゆこの歯ぎしりと寝言を聞いた。

「康…、夫さん。うどん、鼻から…出てますよ…?うふ、ふふふふ…。」

 やはり、うだつが上がらないなぁとワシは思った。

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