萩原朔太郎「蟲─散文詩自註」『宿命』

 散文詩というよりは、むしろコントという如き文学種目に入るものだろう。ここで自分が書いてることは、ある神経衰弱症にかかった詩人の、変態心理の描写である。「鐵筋コンクリート」と「蟲」との間には、もちろん何の論理的関係もなく、何の思想的な寓意もない。これが雑誌に発表された時、二三の熱心の読者から、その点での質問を受けて返事に窮した。しかし精神分析学的に探究したら、もちろんこの両語の間に、何かの隠れた心理的関係があるにちがいない。なぜならその詩人というものは、著者の私のことであり、実際に主観上で、私がかつて経験したことを書いたのだから。

 しかし多くの詩人たちは、自己の詩作の経験上で、だれも皆こんなことは知ってるはずだ。近代の詩人たちは、言葉を意味によって連想しないで、イメージによって飛躍させる。たとえばある詩人は、「馬」という言葉から「港」をイメージし、「a」という言葉から「蠅」を表象し、「象」という言葉から「墓地」を表現させてる。こうしたイメージの連絡は、極めて飛躍的であり、突拍子もない荒唐のものに思われるだろうが、作者の主観的の心理の中では、その二つの言葉をシノニムに結ぶところの、れっきとした表象範則ができてるのである。しかもその範則は、作者自身にも知られてない。なぜならそれは、夢の現象と同じく、作者の潜在意識にひそむ経験の再現であり、精神分析学だけが、科学的方法によつて抽出し得るものであるから。

 それゆえ詩人たちは、本来皆、自ら意識せざる精神分析学者なのである。しかしそれを特に意識して、自家の芸術や詩の特色としたものが、西洋のいわゆるシュール・レアリズム(超現実派)である。シュール・レアリズムの詩人や画家たちは、意識の表皮に浮かんだ言葉や心像やを、意識の潜在下にある経験と結びつけることによって、一つの芸術的イメージを構成することに苦心しているが、ひとえに彼らばかりでなく、一般に近代の詩人たちは、だれも皆こうした「言葉の迷い子さがし」に苦労しており、その点での経験を充分に持ってるはずである。そこで私のこのコントは、こうした詩人たちの創作における苦心を、心理学的に解剖したものとも見られるだろう。

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