第7話 二人の家路

 言った瞬間、今まで我慢してきたものが堰を切ったように溢れてきた。口元が歪んだ。後はもう止まらなかった。殆どしゃくりあげるようにして、綾子は涙をこぼした。

 清彦は困ったような笑顔を浮かべ、綾子の肩をあやすように叩いた。


「なんだよ、泣くなよ。これじゃ、俺が泣かしてるみたいだ」

 清彦は後ろのポケットからハンカチを取り出して、綾子に差し出した。

 ハンカチを持ち歩いている、しかもきちんとアイロンがかかったのを。そんなところまで変わってなくて、嬉しいのに綾子はますます泣けてきた。

「だって~……」

 ずびー、という音が構内に響き渡る。

「あぁっ! お前、鼻かんだな、今!」

「ごめんなさい~」

 ずびー。

「……もういいよ。それ、やる」

 清彦はため息をついた。でも内心は呆れているのではなく、ほっとしていた。

 綾子は、変わってない。

「ううん、ちゃんと洗濯して返すもん」

 綾子は赤い目をこすると、涙声のまま語り出した。


「……今日ね、来る時、東京タワーが見えたの。それがすっごく綺麗で……清ちゃんに見せたいな、って思ったの。それから、仕事で杜乃もりの百貨店の西陣展示会に寄って……ここにある作品に比べたら私なんてまだまだだな、って思って……自分に足りないことを挙げたらキリが無くて……思い返してみれば、私、ずっと変わってないの。仕事を始めたばかりの時から、ずっと同じこと考えてるの。足りないものばっかり、もっと強くならなきゃ、もっと腕を磨かなきゃって、ずっと、一人で。そしたら、急に、目の前に、清ちゃんがいたから……」

 綾子の声は嗚咽おえつに変わった。ハンカチを顔に押し当てたまま、またしばらく泣いた。


「そっか」

 清彦は綾子の言葉も姿も、全てをそのまま受け止めた。今はもう、自分たちを隔てるものは何も無い。

「清ちゃん」

 綾子は顔を上げ、清彦を真っ直ぐ見つめた。

「会いたかった」

「俺もだよ」

 清彦は眩しそうに笑った。

「さ、とりあえず荷物置きに帰ろうか、早くしないと花火に間に合わなくなっちまう」

 そう言って、清彦は足元に置いていた大きな黒い手提げ鞄を持ち上げた。



「あっ、ねぇ、牛舎が空っぽ!」

 バス停からの帰り道、牧草地の脇の砂利道を歩いていると、綾子が大きな声を上げて指を差した。

 清彦は歩みを止めて、その方向を見た。傾きかけた陽の光に照らされて、牧草地は輝いていた。その広大な平野の片隅で、一番手前の牛舎だけががらんとしていた。

「あぁ、あそこの牛、今全部貸し付けてるんだ」

「チェルシーも?」

 綾子は振り返って訊いた。

「うん」

「残念だなぁ。せっかく帰ってきたのに、チェルシーに会えないなんて」

 綾子は無念そうに首を大きく横に振った。

「でも、草刈に出してるだけだから、すぐに戻ってくる。大丈夫、また会えるよ」

 そして、清彦はまた歩き出した。綾子はその背中を追った。

 家までの一本道で、何組かの祭りへ行く人々とすれ違った。子供たちだけの集団だったり、恋人らしき男女だったり、おばあちゃんから孫までの大家族だったりした。

 誰もが皆、高揚感に満ちた笑顔を湛えていた。からんころんという下駄の音が、夕映えの忍び寄る青空に響いていた。

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