第七章 196×年、距離と時間を超えるもの

第1話 雨足の報せ

 先刻より降り出した雨が強くなった。

 梅雨時の雨はまっすぐだ。ぽつぽつ降り始めたかと思うと、あっと言う間に路地をぬらし、植え込みの木の緑が濃いものへと変わっていく。

 雨の匂いと木々の青い匂いが一緒になって、小さく開けた窓から入ってきた。


「間に合ったんやな、運のいいこって」

「ええ、お豆腐がぬれないよう、走ったんですから」

「綾ちゃんは足が速いな。せやけど、豆腐ははじめからぬれとるやん。水の中に入っとるんやから」

「あ、そうでした」

「もう、綾ちゃんはぼけとるんか、しっかりしとるんか分からんなぁ。けど、瞬発力はピカイチやな」

 香奈は雑誌をめくる手を止めて、笑った。


「豆腐屋さんのラッパを聞いて、あわてて飛び出したんですけど、私、うっかり鍋を忘れちゃって。それで、おかみさんに持ってきていただいて、必死に追いかけたんんです。清水商店さんのところでやっと追いつきました」

 綾子は照れ隠しのように、前髪の雨粒を指先で触る。

「豆腐屋さんから手桶を受け取ったら、鼻にポツっと冷たいものが落ちたんです」

「そいで、ぬれんよう急いで走って帰ったわけやな」

「はい」

「この雨に間に合ったんやからやっぱり、運がええなあ」

「そうですか……?」

「そうや。あの逃げ足の速い豆腐屋のおっちゃんを呼び止められたんやし、雨にも間に合った。これを運がいいと言わんで、どうするんや」

 香奈はそう言うと、おかきのかけらを口に放り込んだ。


「それに……」

 言いかけて、意味ありげな笑みを浮かべた。

 香奈がこの顔をする時は、決まって綾子をからかう時なのだ。

「もう、何ですか」

 綾子はわざとふくれっ面をして目をそらした。

「さっき、いいものが届いたから、綾ちゃんはますます運がええなあ」

「え? いいものって」

 恥ずかしいので、わざと誤魔化してみる。

 でも、香奈にはお見通しなのだろう。


「はよ、開けてみたらどない?」

「いえ、あとにします。まとめノートの今日の分がもう少しで終わりますから」

「えらいなぁ、綾ちゃん。ほな、邪魔やと思うし、ちょっと出てくるわ」

 香奈は財布を手に立ち上がった。

 障子を閉める時に、またにやにやしているのを綾子は見逃さなかった。

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