第2話 綾子の筆跡

「清彦」

 母は靴を履きながら、鋭い口調で言った。


「あんた、あまりお父さんのこと責めちゃだめよ。今、うちが厳しい状態なの、あんたも知ってるでしょう。お父さんだって、好きで牛を貸し付けに出すわけじゃないんだから。チェルシーのことがあるから、感情的になるのは分かるけど」

 清彦はわざと返事をせずに、足元の玄関マットを凝視していた。母はそれを見てため息をついた。


「そんな顔しないの。まぁ、今回の馬の件がうまくいけば少しは状況も良くなるだろうし」

 そう言って、母は清彦の肩をぽんぽんと叩くと、いそいそと出て行った。


 楽観的で羨ましい、とは到底言えない。

 宮瀬家の空気は、母の明るさで随分救われている。

 清彦はドアの鍵を閉めた。


 清彦はゆで卵とトースト、ほうれん草の炒め物、そして牛乳という簡単な朝食を取ると、自室に戻った。

 家はしんとしていた。

 時々牧場の方から、牛の鳴き声が聞こえてくる。それに混じって、トラックの通る音、従業員の話し声も聞こえてくる。

 清彦は敷きっぱなしの布団に横になり、そっと目を閉じた。


 状況が良くなる? 本当にそうだろうか。

 こんな風に、細々と牛乳と卵の生産、肉牛の繁殖、乗用馬の生産・育成を続けていくだけじゃ、いずれはまた同じような壁にぶち当たるだろう。零細化していくのも時間の問題だ。

 一つでいい、何か一つでいいから、宮瀬牧場ならではの「売り」があれば……


「宮瀬さーん。郵便ですよー! 宮瀬さーん」


 清彦は玄関からの大声で目を覚ました。いつの間にか二度寝をしてしまっていたのだ。

 壁時計に目を遣ると、既に十二時を回っていた。

 寝すぎてしまった。

 清彦は大声で「はーい!」と返事をして、目をこすりながら慌てて階下へ降り、郵便を受け取った。

 一通は書留だったので、印鑑を押した。母方の祖母からだった。これは今開けない方がいい。後で母に渡しておこう。


 もう一通の宛名の筆跡を見るなり、清彦は胸がどくんと鳴った。

 見覚えのある、神経質なほどにかしこまった筆跡。

 淡い紫色の封筒を裏返した。一際胸が高鳴った。

 やはり、と思った。


 綾子からの手紙だった。

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