第3話 牛舎の来客

 清彦が家に帰ると、時計の針は五時を回っていた。

 夏至を過ぎたこの時期の太陽は、沈む気配を一向に見せない。

 玄関を上がり居間に行くが、いつも出迎えてくれるはずの母の姿が見えなかった。どこか買い物にでも行ったか、おおかた綾子の母親と立ち話にでも夢中になっているのだろう。

 鞄を置き、チェルシーのいる牛舎に向かう。


 母屋を出て、牛舎までは少し距離がある。

 牧草地沿いの道を五十メートル程行くと、青いトタン屋根の牛舎が見えてくる。

 チェルシーはその一番奥にいる。


 父が見かけない男性とこちらに向かって歩いてくるのが見えた。

 その男性は農協の文字の入ったツナギを着ている。

 すれ違いごしに清彦は会釈をした。

 いつものように、飼料や種付けのことなんかで農協の人が来たのだろう。


 牛舎に入り、肉牛たちと乳牛たちの間を通り抜ける。

 清彦はチェルシー以外の牛たちに名前をつけることはしない。

 いったん名前をつけて愛着を持ってしまえば、別れがつらくなるからだ。

 肉牛は肉になるために売られていくし、年老いて乳の出の悪くなった乳牛もまた売られていく。

 それが牛たちとこの牧場の宿命だとは思うのだが、やはり悲しかった。

 そうした別れは子どもの頃から幾度となく経験してきたが、いまだに慣れることがない。

 だから、せめて最低限の愛着でいようと名前はつけないことにしている。


 チェルシーのところにようやく辿り着いた。チェルシーはいつものように、黙々と飼い葉を食べていた。寝床のわらを替えてやらねばならない。

 用具置き場に行った清彦は、父と先程の男性が話しているのを見つけた。

 なんとなく出て行きづらくて、開き戸の影でしばらく待機することにした。


「ええ、全部です」

 父の低い声が聞こえる。

「では、この牛舎のすべての肉牛と乳牛をお貸しいただけるのですね」

「はい、早ければ来月中に」


 とんでもない会話を聞いてしまった。

 その後、チェルシーの寝床をどのように替えてやったか、あまり覚えていない。

 チェルシーの瞳と、飼い葉を反芻はんすうする口の動きしか覚えていない。

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