第三章 196×年、京都、仙台、二人の現実
第1話 綾子の先輩
誰かが階段をあがってくる音で綾子は目が覚めた。
障子から差し込む光がだいぶまぶしくなっていることに気づく。
「起こしてしもたかね」
先輩職人の香奈だった。盆を持っている。
「いいえ、そろそろ起きようと思っていたところです」
「あかんて。まだ寝とらんと」
香奈はそう言って、優しく微笑んだ。
綾子はこの七つ年上の香奈を姉のように思っていた。
弟子入りあと、男職人が多い織物職人の中で、香奈の姿を見つけた時は幾分緊張が取れた心持ちだったし、女同士のほうが何かと教えやすいだろうからと、親方は綾子の掃除や身の回りの指導を香奈に任せた。
香奈は親切に何でも教えてくれたし、二階の住み込み部屋では同室になり、寝る前のおしゃべりに興じることもあった。
たいてい、香奈が話して綾子が聞き役なのだが、無口な親方が時々休憩のたびに、だし殻のイリコの皿を手に外に出て行くのは、一服するのと逢引きのためなのだと聞かされた時は、大声を上げそうになった。
よくよく聞いてみると、その逢引き相手が三毛猫のミイ太、実はオスと聞いて笑い転げたものだった。三毛猫のオスは珍しいということを教えてくれたのも香奈だった。
「お腹すいとらんかもしれんけど、食べてな」
盆の上には、どんぶりに入ったうどんがあった。湯気が立っていて、食欲をそそる。
「あっ、今、お腹が鳴ったな」
腹の虫は正直だった。
「え……、聞こえちゃいましたか?」
「当たり前や、そないな大きな音、聞こえるにきまっとる」
だいぶ気分がいい。きっと食べれるはずだ。
「ありがとうございます。じゃ、いただきます」
麺をすすると、口の中につるつると気持ちよく入ってきた。
京風のあっさりした味付けに、ねぎとしめじとカマボコが入っている。つゆを飲むと、胃の中まであたたかくなった。
「もう具合、よくなったみたいです。ありがとうございました」
「かまへんかまへん」
香奈は手をぶらぶら振り上げながら、笑った。
この人はいつも明るくて元気だ。
なのに私は、と思う。
「香奈さん、私自分の不器用さが嫌になるんです。親方からお許しをいただいて、始めてもう二週間にもなるのに、全然覚えられないし……」
腹の虫をおとなしくさせたら、弱音の虫が出てしまった。
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