第25話

 集落の広場の1つでは、進行を止めない巨人に民草はわなないていた。官吏の誘導で町の外へと避難する者達が大半を占めるが、中には怖気づいて憮然とする者、家を守ろうと槍を手にする者、官吏に八つ当たりする者など、町には騒乱が渦巻いていた。

「神鳥様はどこに行かれたのだ……」

「ああ、お助けください!」

「我らの神よ……」

 戦慄の声がそこかしこから響く。

 決戦の第一線に赴くロクサーヌの耳にももちろん、それらは届いている。だが彼女は心を痛めつつも毅然と正面を向いて、優雅ささえ感じるほどに落ち着いている。

 その時、男が顔を真っ赤にしてロクサーヌの脚に縋りついた。

「ロクサーヌ様! 神鳥様は助けてくださるのですか! 私たちは……一体どうなるのですか!」

 ロクサーヌは内心、吃驚に悲鳴を漏らしそうになったが、なおも王女として、憂慮すべきことなど何もないと態度で示すように男の手を取った。

「神鳥様はいらっしゃいます。きっと今も、私たちの挙措に至るまでつぶさに見てくださっています。あなた方は信じるだけでよいのです。それが神鳥様の御力の源となり、ひいては私の力にもなります。

 ———さぁ、手を合わせ、鼓舞なさい。シンフォレシアの為に、神鳥様と共に敵を打ち負かしてみせましょう」

 言葉ではなく、態度でもなく、ロクサーヌの内に憑依した神性によって、男は組み伏せられていた。これが王族か、と男は感じ入り、神妙に両の掌を密着させて祈りを捧げる。『神鳥様、ロクサーヌ様。町を、シンフォレシアを救ってくださいますように』。それは清純な信仰であった。




 ———声が聞こえる。

 暗い大空を仰ぎ、そこにはない太陽を連想したロクサーヌは大いなる気配を体感した。

「大丈夫、大丈夫……」

 かの存在はいつでもロクサーヌの側に居た。神殿でも、森でも、独房であっても。鐘の音のような、時には金属を裂いたような、頭に反響する声の主が、今は一段と近い。シンフォレシアの命運はこの娘のか細い指先にのしかかることを、ずっと前から知っていたかのだろうか。

 ロクサーヌは、今度は籠手を胸に抱いて親友の面影を想起する。たとえ離れていようと、彼女もまた側に居る。

 ロクサーヌは馬に跨り、少し高くなった視点から北領軍に目線を向けた。

 ものの数分で敷かれた線状防衛陣には万全の兵士達が並ぶ。半身は覆えるであろう長方形の盾を右手に、左手に持つ剣には武者震いを伝わせる。兵士の馬は用意できなかったようだが、小回りが利かなくては対ゴーレム戦ではむしろ邪魔になるだろう。彼らの先頭に立つのは、黄金の鳥に変身した千月だ。鋭い鉤爪を見るだけでロクサーヌは冷や汗を流すこともあったが、この瞬間に限っては頼もしい。

 町から200メートルの地点で巨人は動きを止めた。あの脚力であれば、この距離は瞬時に詰められるだろう。反面、地を駆けるゴーレム隊は速度を緩める素振りはない。

 指揮官はそれを敵意と悟って「進めー!」と威勢を湛えて叫んだ。彼の号令を皮切りに、吶喊が盛大に上がる。

 北領軍とゴーレム隊が接敵する片隅で、ロクサーヌの跨る馬が出馬した。

 これより先に待ち構えるのは、ロクサーヌと巨人の一騎打ち。巨人と矮小の絶対的な体格の差を補う手筈はない。全てが即興の初陣を制する糸口は、彼女の右腕にある。

 ロクサーヌは紋呪に意識を集中し、籠手に神鳥の力を流し込んだ。水晶は鮮やかに、青く、力強い光を放つ。彼女の荒削りで制御しがたい流動がまるで何者かに手引かれるように安定を掴み、増幅を繰り返す。

 彼女が準備を進める間、巨人の肩で佇んでいたイポスティは目を落とした。老境も久しく、乏しくなった視力であっても、物体が近づくことくらいは確認できる。大儀そうに嘆息した彼は「あれを殺せ」と巨人に下知を授けた。体の節々から砂を零し、巨人は命令を遂行に移した。

 拳がロクサーヌ目掛けて振り落とされる。馬は本能的に危機を察知し、避けようと斜めに逸れた。何とか命は助かったものの、地震かのような衝撃に文字通り足を掬われてしまう。

 激しい転倒。ロクサーヌは受け身を取ったものの、馬の前足は打ち所が悪かった。もう使い物にならないだろう。そう判断した彼女が巨人の足に向かおうとした瞬間、拳が再度降り注いだ。砂埃に混じり、血液が飛び散る。馬もロクサーヌも命潰えたかと思われたその時、砂埃を突き破ったのはロクサーヌの剣だった。

 紋呪による身体強化———。彼女の肉体は普通の少女と何ら変わりはない。筋力も瞬発力も町娘と同等で、巨拳からの寸での回避はおろか、剣すらも十分に薙げないはずだ。

 だが、彼女は成し遂げた。奇策ではなく、王族が代々受け継いできた特別な権能を、誇るも同然に発揮した。

 方法はいたって簡単だ。紋呪の補助装置である籠手をふんだんに活用し、力を外に向けてではなく、体内に向けたのだ。そこには、フロネー・ダーソスの賢しさが表れている。

 錬金術の真髄とは、循環を司ること。人体の血液は心臓を出でて、再び心臓に戻る。同じく紋呪———神鳥の力もこの世界シンフォレシアを循環する。その力は土となり、樹となり、人となる。そして、生命が死んだ後、力は再び神鳥のもとへ帰り、また神鳥から生まれる。

 フロネーは、それら二つの相似する循環を同一の規模にまで落とし込み、紋呪の力をロクサーヌの肉体に漲らせられることを見抜いていた。

 ロクサーヌは拳が自身を圧死させる直前、脚に力を込めていた。圧迫されたバネが解放されるように、地面を蹴って窮地を脱すると、続けざまに縦に跳躍し、落下する勢いのまま剣を振り下ろした。

 剣術も工夫もない、力任せの斬撃は意外にも巨人の右拳を破砕した。

 圧縮に圧縮を重ねた巨人の肉体を斬ることは岩石を斬るに等しい。だが籠手から力を注入された長剣は、土の装甲をものともしないほど強度も鋭さも飛躍的に向上させていた。

 巨人は、体の一部の崩壊を目の当たりにしてもうろたえなかった。土を固めただけの人形に痛覚や感情が無いからこそ正確に、しかし大胆に、今度は右足を繰り出した。足であれば体重を付加できる分、瞬間的な落下速度は拳よりも上位だ。けれどもロクサーヌは後退し、これも躱す。単に素早くなっただけならば拳と同じ。単純な力技ではあるが、ただ、拳よりも威力を強化したのなら反動はつきものだ。

 巨人は数秒の間硬直した。重心を安定させるために、隙を晒さなければならなかった。

 ロクサーヌは口角を上げ、紋呪で強化された両足で瞬く間に脛を駆け上がる。

「フロネーと山を駆け回ったことくらい、何度もあるんだから!」

 彼女は腰まで猛進すると、巨人が察知するよりも早く腕に飛び移り、肩まで走破した。人の域を逸脱した敏捷さは、もはや神速と言って差し支えない。

「もうすぐ!」

 ロクサーヌは心身を巡る高揚感に躍動を任せて、胸先まで一挙に間合いを詰める。

 そして胸へと剣を突き立てようとした刹那、彼女が登った反対側の肩で始終を眺めていたイポスティが視界に入り込んだ。彼女の思考が凍り付いたのは、彼がそこに居ることではない。彼は奇妙なしたり顔をしていた。巨人の弱点に肉薄しているのに、勝利したと言わんばかりの優越を隠すことなく湛えている。

「っ!?」

 右側から襲い掛かる物体をロクサーヌは跳躍で回避した。どうやら巨人は彼女を捕縛せんと、羽虫をはたく要領で左の掌を振るっていたらしい。

 間一髪。胸から離れてしまったが、イポスティの悪あがきもこんなものか、と彼女はほくそ笑んだ。それが過ちだった。

 戦場とは、人と人が命を賭して行う、華やかさの欠片もない闘志の殴り合い。血で血を洗う直中では気を緩めてはならない。ましてや高を括るなど、殺してくれと首を差し出すようなものなのだ。

 ロクサーヌの身体を捕えたのは、巨人の右手だった。

「なんで! 壊したはずじゃ———」

 修復された巨人の右腕は、形こそ正常なものの以前より厚みを減らしている。これが土を素材とする利点だった。土の肉体はコアの力で引き締められてはいるが、根本的には脆い。だが、脆いからこそ土という材料は容易に形を変えられる。

 巨人は彼女を持ち上げ、口をあんぐりと開く。

 それは死の穴だった。ロクサーヌが見る限りあの奥は黒く、暗く、何もない。日光が差し込んでいたとしても、闇であることしかわからなかっただろう。人体ならば口には舌があり、喉も辛うじて見えるはずだ。だが、そこには生物的な器官は見当たらない。奥歯にすり潰され、胃の中で消化される方がまだ解せる。しかし死を感じながら、自分がどうやって死ぬかもわからない未知にロクサーヌは狂気を患った。

 ロクサーヌは臍を嚙みながら必死に悶える。幸い、剣を持つ右手は拘束されていない。

「放してよ!」

 挽回を試みて、彼女は一心不乱に剣を振り下ろす。が、刃は届かず、手元を離れて後方へ飛ばされていく。

 巨人は、ロクサーヌの眼前で咆哮をどよめかせていた。それに伴って吐き出されたのは、激烈な強風。彼女は息が出来なかった。いや、空気を取り込めてはいた。だのに呼吸と呼べないのは、それを吐くことが能わなかったからだ。ロクサーヌの身体は肺が潰されたかと錯覚し、生命を保護するために意識を緊急停止させようとする。

 衰弱したロクサーヌは、口すらも動かせなかった。フロネーを奪ったイポスティを憎みながら、濁っていく彼女の瞳が捉えた最後の景色は、死の穴の闇だった。

「見事よのう」

 巨人がロクサーヌを飲み込み、イポスティは嗤う。王女の活躍も、『永遠の生命』フィロソフォス・コアにとっては虚しい児戯に過ぎない。

 彼は北領軍と争う錬金術師達が優勢なことを眇めた目でじっと捉えて、

「さて、征こうか」

 と、巨人の足を進めた。

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