第15話 天狗崖


 どうしてこうなった?


 ゴォーっと強い風が岩壁をなぞり吹き上げる。岩に全身を貼り付けるようにして必死で耐える。パラパラと崩れ落ちてくる小石に気を払う余裕はない。

 現在、僕がいる場所を例えるなら世界で一番死者の多い山、谷川岳。そこに存在するいち倉沢くらさわ幽ノ沢ゆうのさわなどの急崖きゅうがいルート。まさに本物の登山上級者しか挑まないそんな場所を登山のド素人がハーネスやロープも使わず、山伏装束で下駄を履いたままフリークライミングする。自殺志願者か頭がおかしくなった気狂いの所業だ。もちろん落ちたら真っ逆さま。とがった岩に削られてミンチ確定である。

 もちろん好きでやっているのではない。登山者数世界一を誇る子供でも楽しめる優しい山を登っていたはずが、いつの間にかこんな事になっている。いったい僕の運はどうなっているのだろう?


(死ぬ――死んでしまうっ)


 進む事も出来ず戻る事も出来ない。完全に進退きわまってしまった。崖の中腹であるこの場所に留まっているのがやっとなのだ。これではまるで断崖絶壁に張りつき命懸けで塩を舐めるヤギではないか。

 以前ネットで彼等ヤギが岩に張り付いて動けなくなっている動画を見て「頭が悪いなぁ」と笑っていた事がある。だから罰が当たったのだ。今なら彼等の気持ちがとてもよく分かる。きっとヤギも生きるのに必死だったに違いない。僕が悪かった。謝るから許して下さい。

 メンタルが限界に近い。パニック状態で合理的な判断が出来ず必死でヤギに謝っている。

 

  つまり今、僕が何を言いたいかというと――――


「…………ギブっ!! ……ギブですってっ! 師匠助けてっ」

「数日前と言ってる事が違うのぉ。のではなかったか?」

「言い返してる余裕なんてないですからっ。ほらっ。僕がつかんでるここ見て下さいここっ。今にも崩れそうだ。マジやばいってっ」

「この鍛練は様々な要素が必要になる。もちろん瞬間的な判断力も必須だ。だからそんな所を選んで登ったお主が悪い」

「いやいやいや。今はそういうのいいからっ。小言なら後でいくらでも聞きますって! それより早くっ」

「……仕方ない奴だのう。まったく」


 近くの断崖に立っている師匠が呆れながら近寄ってくる。何度見ても脳がバグってしまう光景だ。足だけが磁石みたいにくっついているのはこの間飯綱が見せてくれた六通のひとつ、神足通の応用である壁歩きによるもの。

 そのまま師匠によって回収された僕はまるで荷物のように小脇に抱えられた。そうすると今まであえて見ないようにしていたが嫌でも目に入る。あまりの恐怖で全身がすくみあがる。もらしてしまいそうだ。


「どれ。面倒だから一気にいくぞ」

「ひっ!?」


 この崖登りにチャレンジしてから実は今日で4日目。天狗崖てんぐがけと僕が勝手に命名したこの場所は、僕に世界の違いという現実を見せてくれた場所である。


「はぁ……はぁ…………どうかしてる」

「いづなは一気に行っちゃうから。助けてあげられなくてごめんね」

「い、いや。飯綱ちゃんは気にしないでよ……いつまでも登れない僕が悪いんだ」


 何度か見せてもらったが飯綱はこの断崖だんがいを手を使わずにもの凄い勢いで駆け上がる。聞けば、滅茶苦茶な理屈だが神足通を使って岩が崩れるより早く足を前に出すのだそうだ。他者と比べ非常に体重が軽いのも有利に働いている。

 逆を言えば彼女は師匠のように岩肌など一カ所に長時間とどまる事は出来ない。だからこの鍛練では心優しい飯綱に助けてもらう事は期待出来ないのだ。ゆえに僕の命を握っているのは鬼畜なおっさんただひとり。地獄の鍛練と化している。


「登れない登れないと言っておきながらお主。体力には余裕があるのだろう? 気づいておるぞ」

「……む」


 ――実は意外にもそうだったりする。自分でも信じられないが今の僕には余力があった。この崖登りは太陽が登りはじめる早朝から行い、現在その太陽は徐々に西に傾きつつある。それなのに体は程よい疲労感しか感じていない。握力をはじめ全ての筋肉に余裕がある状態だ。


(最初チャレンジした時より体力は着実に増している。でもいつも毎回同じ所から先に進めなくなるんだ。それは鍛練があまり上手くいってない事を意味してる)


 この天狗崖は文字通りの断崖絶壁だんがいぜっぺきだ。しかし登り始めの最初の方は比較的傾斜けいしゃも緩く、頑丈な岩などつかまる場所も多い。時間をかけてゆっくり登っていけば、ある程度の所まではクライミングの素人でも登っていけるのだ。問題は崖の中腹以降。急に傾斜は鋭くなり難易度が跳ね上がる。もろい今にも崩れそうな岩も多くなってバランスを取るためにつかまる場所の判断を誤れば……鋭い岩肌による天然の大根おろしにられる運命が待っている訳だ。先ほど僕が動けないヤギになっていたのもそういう理由からである。


「そのために儂が近くで見ているのだろうが。もっと勢いよく思いっきりいけ。今のお主であれば少しくらい岩にぶつかっても死にはせん」

「……じゃあガッツリ岩にぶつかったら? 万が一下まで転げ落ちたら?」

「死ぬ」

「やっぱり死ぬんじゃないですかっ」

「――あのな。多少の危険も冒さないで何が身につくというのだ? 全く痛い思いをせず、苦労もしないでつかみ取った物にいったいどれ程の価値がある? お主は他者に用意してもらった舗装済みで安全な道を歩くのが好みなのか? 違うであろう? 道とは各々が切り拓くものなのだ。そうして初めて自分にとっての価値が生まれ、誇れるものになる。違うか?」

「………………そう簡単に割り切る事なんか出来ませんよ。命はひとつしか無いんです……とりあえず滝に行って頭冷やしてきます。飯綱ちゃんいこ」

「うん」 



 天狗崖と師匠の説教から逃げるようにして場を後にする。そして梅の滝の中心――飯綱のすぐ隣で瀑布ばくふに身をさらしながらひとり反省会と今後の崖の攻略法について考える。


(――悔しいけど師匠の言う通りだ。このままじゃいけない。ずっと同じ所でつまずいてる。見よう見まねのロッククライミング方式じゃダメなんだ。プロじゃない僕はルートの見極め方なんて知らない。いずれつかめる場所が無くなってむ。そもそもこの鍛練はそういう常識的なものを求められている訳じゃない。やり方が間違ってるんだ)


 この半月はんつき、鍛練をしていて気づいた事がある。天狗の鍛練は常識に縛られない。まともな人や普通の方法では無理なのだ。正道せいどうを外れ、つまらない常識を超えていく必要がある。


(この滝は……ただだけでよかった。そして崖登り。この鍛練は滝と違い自分の意思で前に進まないと終わらない。自ら直接事を求められている。やっぱり一皮むける必要があるんだ)


 そんな風に考え事に集中している時。頭上に違和感を感じ、考える間もなく反射的に手を伸ばし水に混じって落ちてくるソレをつかみ取った。ゆっくり滝の流れに逆らわないよう手を下ろし、落ちてきた物の正体を目を開いて確かめる。木の枝だ。落ちてくる枝を直接目で確認したわけではないのに、勝手に体が反応していた。


(……危ないな。まったく。やっぱこういうの少し落ちてくるじゃん――――まぁいい。とにかく対策と根本的な見直しが必要だ。アプローチを変えなきゃ。今のままじゃ時間の無駄。自主練するしかないかなぁ)


 ポイッと枝を投げ捨ててから目をつむり再び考え事に集中する。隣で飯綱が大きく目を見張りながら一連の様子をみていた事に、考え事に没頭ぼっとうする僕は最後まで気づく事はなかった。



「明日の鍛練は自主練……自分で予定を立ててみてもいいですか?」


 その日の晩。いつも通りとても美味しい晩ご飯を頂いた後、僕はそう師匠に切り出した。

 疑問を浮かべる師匠に対して僕は先ほどの自分の考えを要約して述べる。現状の方法ではとても上手くいきそうもないので抜本的な見直しを図りたいという話だ。


「そういう事であれば構わぬ」

「明日は里から出るつもりはないので、師匠は自身のために時間を使って下さい。明後日からまた宜しくお願いします」


 軽く頷く師匠に続いて飯綱からも声が掛かる。


「いづなも……」

「飯綱ちゃんも自分の鍛練に時間を使って欲しい。正直なところ僕も具体的に何をしたらいいか考えあぐねているんだ。貴重な1日を無駄にする可能性が高いんだよ。そうじゃなくても最近ずっと付き合ってもらってるでしょ?」

「………………わかった」


 少し不満そうな顔をしていたが飯綱からも何とか了解を取り付ける。懐いてくれるのは素直に嬉しいけど最近はカルガモの親子のように行動を共にしていた。たまには飯綱自身の鍛練も必要だろうと思っての事。自らも鍛えられる滝や崖に挑むならまだしも明日は自主練だ。飯綱にとって意味のない1日になる可能性が高い。こちらの都合に毎度巻き込むわけにはいかないだろう。


 こうして僕は半月ぶりに自分でスケジュールを組める貴重な1日を手に入れた。


 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る