特別な恋人

 賢士に一方的に電話を切られた妙子は暫しブティックのフロアの隅で佇み、壁の時計を見てオープン時間が迫っている事に気付き、慌てて輝にメールをして仕事モードに切り替えた。


[今日の夕方、青葉台のKeel's Barへ行こう。ケンジが新しい彼女を紹介すると『約束』した。]


 一階店内にはカラフルな小物とバッグが並び、入り口付近にはフルーツジュースとスムージーのカウンターがある。二階、三階はシャツとスカートとジャケットがメインで、ショッピングをする彼女を待つブティック「teaser」は男をじらす女がコンセプトのファションブランド。


 スマホをポケットに入れて持ち場に戻る妙子をオーナーの溝端千紗子が背後から呼び止め、妙子は賢士との会話を聴かれたと焦った。


「妙子ちゃん。賢士に何かあったの?」

「いえ、ちょっと気になって連絡しただけです。元気そうでしたよ」


 賢士の母・千紗子は50歳を過ぎても美しさは衰えず、むしろ進化しているとアパレル業界でも評判の美人オーナーで、親戚の妙子は「精神的に脆弱な息子の力になって欲しい」と千沙子に頼まれている。


 妙子の個人的な見解であるが、この親子のコミュニケーションはゼロ。モンスターを恐れる美しい魔女と王子はファンタジーの世界へ逃げ込み、お互い愛情表現に不器用で仲違いしている。


「前にも言ったけど、妙子ちゃんと賢士ってお似合いだと思うのよ。子供の頃から仲良かったし、付き合えばいいのにね?」

「あの、オーナー。私、結婚してますんで」

「そうだった。アキラくんによろしく」


 千沙子はそう言って微笑むと、別のスタッフの方へ行きオープン前の指示を出し、妙子もドアの前に立って客を迎え、輝からのメール着信がありってスマホの画面をチラッと見て苦笑する。


[天変地異の前触れか?命懸けで、BARへ行く。]



 たまプラーザ駅前、東急系列の不動産会社に勤める輝は妙子からのメールを見て、『賢士が自分達に紹介するという事は、特別な恋人を見つけたのか?』と驚愕の表情で退席し、事務所のベランダで空を見上げて深呼吸をした。



 空は青く晴れ渡り、並木道には春のそよ風が吹き穏やかな時間が流れている。輝は興奮を抑え切れずに携帯電話で賢士に電話したが、「ケンジ……」と発する前にプツンと切られた。


 しかしそれが賢士らしくて安堵し、携帯電話を片手で閉じて素早くポケットに入れ、笑みを浮かべて事務所へ戻り、「約束か」と呟いて席に着く。

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