第二十九章 大きな背中
ゆるやかな曲が流れている。
男がチョイスしたイージーリスニングである。
雪子はシーツにできた皺を白い指でなぞりながら、小さく笑った。
「ふふふっ・・・」
男はその細い指先に優しくキスした。
「何・・笑ってるの・・・?」
まとわりつく男の唇を、くすぐったそうにして女がささやいた。
「伸ちゃん・・の背中・・・。
大きかった・・・。
すごく・・安心した・・の・・・・。
でも、何故こんなに・・・。
たくましくなったの・・・?」
唇はやがて指から首すじに移る。
甘い匂いを楽しみながら囁いていく。
「さっき・・・
ユキをおんぶしながらも言ったけど・・・。
僕はあの事故の時・・・
アメリカ海軍の戦艦に救助されたんだ・・・・。
ちょうどアメリカに緊急帰還する途中で、軍医もいて設備も整っていたから僕は動かすのも危険な状態でもあったし、そのままアメリカに渡ったんだ。
僕の腕時計は飛行機のトイレで顔を洗う時、はずしたまま忘れてしまったのを誰かが拾ってはめたんだろうな。
それを見てみんなは僕だと思ったんだろうけど・・・。
もちろん海軍の人も事故の事を知っていて、行方不明者のリストを新聞なんかで調べてくれたらしいんだけど・・・・。
男性は四十一才の人しか、いなかったらしいんだ。
たぶんその人が僕の時計を持っていったんだろうけど。
死亡者の事は逆に盲点になっていたんのかな?
おかげでそのまま、よくわからなくなってしまったんだ。
僕は飛行機が不時着する時、ベルトのボルトがゆるんでいたのか投げ出されて、どこかに頭をぶつけて気絶してしまったらしい。
そしてたぶん・・その後水圧でドアが壊れて、僕は海の中に吐き出される格好になったんだ。
かなり岩とかに顔がぶつかったらしくて、救助された時は血だらけで元の顔も分からなかったらしいよ・・・。
その時の司令官が今のパパで、二年前一人息子を亡くしたばかりだったんだ。
傷が癒えてアメリカの基地の中で、リハビリを続ける僕を何かと助けてくれた。
顔中、包帯だらけなのにね・・・。
幸い英語が得意だったから、すぐその生活に馴染めたんだ。おまけに記憶喪失になっていて、自分でも僕が誰だか分からなかったし・・・。
ただ一つの手がかりは首にかけていたロケット一つだったのさ。
その中にはほら、君の写真が・・・」
男はベット脇の机の引き出しから、ロケットを取り出した。
二人、お揃いで買ったものだった。
雪子も持っているものだ。
そのロケットの中には、雪子が十七才の時の写真が色あせて入っていた。
「僕は記憶にないこの女性を、唯一の心の故郷としてその後生きていった。
ロケットに入れるぐらいだから、恋人かすごく大切な人なんだろうって・・・。
だから8年間ずっと憧れていたんだ・・・
この人に・・・」
そう言うと男は雪子を引き寄せ、唇を近づけた。
人差し指が、男の唇をさえぎる。
「ダメよ・・・まだ続きを聞きたいわ。
あ・と・で・・・」
いたずらっぽい目でクスクス笑っている。
男は少しすねた顔をしてが、再び微笑みを作ると話を続けた。
「その後、パパの正式な息子として引き取られたんだ・・・。
海軍の中の学校にしばらく通った頃にね。
成績もよかったし、パパの力でアメリカの国籍もなんなく取得できた。
何故か事故で体質が変わったのか、背も又伸び始めたのには驚いたけどね・・・。
パパも男はたくましくないといけないと言って、海軍の訓練にも特別参加したんだ。
ママもその頃一緒に基地に住んでいたし・・・。
優しかった。
今思うと、両親を小さい頃に亡くしていたから、素直にパパとママに違和感なく甘えられたのかもしれない・・・」
「それでこんなに大きくなって・・・。
シュワルツ、ネッガーかと思ったわ・・・」
雪子が男のたくましい胸の筋肉をなぞった。
女が気を許した隙をついて男が抱きしめ、唇を優しく奪った。
「あん・・だめ・・よ・・伸ちゃん・・・」
ようやく女を離した男は。満足そうに息をはいた。
女が潤んだ視線を投げている。
「どこまで話したっけ・・・?
そうそう、それから2年してパパが引退してパパの故郷に帰ったんだ。
そのあと僕は海軍の学校でとった資格で、ハーバードの大学院に入学した。
けっこう勉強がんばったから飛び級で入れたんだ。
そこでMBの資格をとってベルツ銀行に入社したんだ。
僕は猛烈に働いた。
早くトップリーダーになりたかったんだ。
そうすれば日本に行けると思ったんだ。
僕の記憶のルーツと君を捜しに・・・。
三年ぐらい経って、僕はどうしてもロケットの中の女性・・・雪子に会いたくなった。
それと、ずっと重くのしかかるような頭の痛みが気になっていたんだ。
パパも心配してくれて、やっと有名な脳外科の先生に紹介してもらえて・・・。
イチカバチカ手術する事になったんだ。
確率六十%で。
後遺症が残るかもしれないんでママはずっと反対していたんだ・・・。
でもどうしても僕は自分が誰だか知りたかった。」
雪子が真剣な眼差しで見つめている。
男も見つめ返したた後、一呼吸置いて続けた。
「手術は成功した・・・。
ぼんやりとした霧がはれていくように、徐々に記憶が戻ってきた。
日一日と、昔の記憶が戻ってきたんだ。
幼い頃どこで遊んだとか、そんなささいな事が割りと多かった。
まるで、もう一度人生をやり直しているようにゆっくり思い出していったのさ。
僕は楽しくてしょうがなかった
。何か生まれ変わったみたいで・・・。
でも、父と母が死んだ頃の記憶も思い出して心が沈んでいった。悲しかったなあ・・・。その後、親戚に引き取られて高校に入って三年の時、
君に出会ったんだ。
うれしかった。
まだ十五才の愛らしい一年生だった。
妹みたいな君がたまらなく好きだった。
そう・・・可愛い子猫のように、ね・・・」
「ふふふっ・・・
いいのよ、言っても・・。
伸ちゃん・・・子猫ちゃんって・・・」
女は甘えるように、男の胸に顔をすりよせた。
「ニャオーン・・・」
雪子の声がくすぐったく感じる。
男と女は白いシーツにくるまれながら、クスクスと笑った。
「あとは君と僕の共通の思い出さ。
あの事故までは・・・ね。
記憶が戻ってから僕は尚の事、一生懸命に働いた。
その半年ぐらい後に日本の銀行がうちと提携したいって話があって調査しようという事になったんだ。
そうしたら、なんとその銀行は君のお父さんのいる広洋銀行だったんだ。
一も二もなく僕は立候補したんだ・・・・強引にね。
まだ僕は経験も浅かったし、若かったから難しかったんだ、重要な仕事だからね。
ただ、パパの経歴と僕の日本語の能力と一応ディラーとしてある程度の結果を出していたから、なんとか日本へ行ける事になったんだ。
日本に着いて一番最初にした事は、興信所に行って君の身辺調査をする事だった。
別に8年間の君の素行調査というわけではないんだ・・・。
僕は死んでいる事になっているんだから当たり前なんだけど、君が結婚していたり好きな人がいれば僕は名乗れないと思ったんだ。
今更出ていって、君の幸せを横取りするなんて事は出来なかった・・・」
雪子は男の胸に顔をこすりつけた。
か涙で、濡れていた。
「そうしたら、ちょうど君は片山君という男性と付き合い始めたというんだ。
おまけに親友の相川と一緒のディラーというじゃないか?」
一瞬、雪子の耳元が赤く染まった。
伸男は抱き寄せる腕に力を込めた。
「ごめんよ・・思い出させて・・・。
でも嬉しかったよ僕の事をずっと想っていてくれて」
「伸・・ちゃん・・・」
「愛している・・ユキ・・・」
雪子の温もりを確かめるように囁いている。
「わたしも・・愛しています・・・・」
見詰め合う視線が絡みあう。
「広洋銀行に来て・・・」
ポツリポツリと話を続けていく。
「君のお父さんから内密に、相談もうけていたんだ。社内に何か不穏な動きがあって・・・
特にディラーが怪しいと言うんだ。
君のお父さんもたいした役者さ・・・・。
君に通訳を頼んでおきながら、実はバリバリのバイリンガルのくせにさ・・・。
だから僕にトップシークレットを堂々と見させてくれた。
別にベルツ銀行に吸収合併されてもかまわないから、徹底的に調査してくれってね・・・・。
バブルで腐りきった広洋銀行をきれいにしたいんだって・・・。
幸い殆どヒフティー・ヒフティーで提携できたのも、その正直で正確な資料があったからなんだ。
なんらかの無能でずる賢い役員はクビにする条件でね・・・」
ここまで話すと部屋のチャイムが鳴った。
バスローブを着て伸男が出ると、ボーイがルームサービスを持ってきた。
ビールと冷えたワイン、ローストビーフのサンドイッチとチーズ各種がワゴンに乗っている。
チップを渡しボーイを帰すと二人はべッドの上で乾杯をした。
ビールの冷たさが喉越しに気持ち良かった。
「腹、減ってたんだ・・・」
そう言うと男はサンドイッチを頬張った。
たくましい顎が上下に動くのを。うっとりと女は見つめている。
「ユキも食えよ、うまいぞ・・・」
女はため息をつきながら言った。
「私は・・・胸がいっぱいで・・・。
あまり食欲がないの・・・
伸ちゃん、食べて・・・」
「そうかい・・・?」
男は次々とワゴンの上の物を平らげていった。
本当に昔の伸男とは違っていた。
瞳はブルーのコンタクトを外して、元の黒く澄んだ瞳に戻っていたが。
金髪に染めた短い髪。
ゴツゴツした顔。
事故の際、相当傷がひどかったらしく、後に整形手術をしたらしい。
逞しい身体の筋肉。
昔の伸男はアルバイトのしすぎのせいか、栄養失調気味で青白い顔をしていた。
髪も長くて女性みたいな顔立ちであった。
もっとも優しい瞳と、指のしなやかさだけは今も変わらなかった。
幾分太くなったが、洗剤のコマーシャルにでられるぐらいきれいな指をしている。
その指で髪を撫で上げられるのが、雪子にとっても無上の喜びであった。
本当に自分が子猫になったみたいで、思わず喉を鳴らしそうになる。
この指と澄んだ瞳が伸男の証であった。
それとライブハウスで聞いた唄声。
食べ物を詰め込んで、ようやく落ち着いた伸男は満足そうに横になった。
雪子はワインのグラスをもてあそびながら、次の寝物語を心待ちにしている。
女の潤んだ瞳のリクエストが分かったのか、男は自分の頭を柔らかな女の太ももに乗せると白く長い足を指でなぞって遊ぶようにして語り始めた。
「相川と片山君の事は雪子の方がよく知っているだろうけど、本当に僕は迷ったんだ・・・。
雪子の恋する目を見るのは初めてだったんでね」
少し意地悪っぽく男が言うと、女は男の頬をつねった。
「いてっ・・ははは・・・」
男は笑った後、すぐに真剣な顔に戻って話し出した。
「実際、どうしていいのか分からなかった。
やっと会えた僕の雪子が・・・
8年間ロケットの中の小さな色あせた写真でしか会えなかった天使が、別の男に恋している。
興信所の報告を聞いて僕はすごく悩んだ。
そこで、僕はある策略を思いついた・・・。」
髪を撫で上げる白い手を握って、女の顔を見上げた。
「策略って・・・?」
女が聞いた。
「ポルターガイスト・・さ・・・。
あれは別、ユキを騙すわけじゃない・・・。
実際、僕が死んでいると思い込んでいるユキに、一度は僕の存在を教えておきたかったんだ・・・。
それで、もし君の愛が本物だったら、僕はゴーストのまま身をひこうと思っていた。
ジョージに対しても・・・ね」
男の髪を撫でる手が止まり、水滴が落ちてきた。
見上げると、長いまつ毛の先から真珠のような涙がこぼれ落ちてくる。
唇が微かに歪み、頬が赤く染まっている。
男はため息をついて、女の身体をよじのぼり頬擦りをした。
「又泣く・・・本当にユキは泣き虫だな?」
女は男の顔を力いっぱい掻きむしるように抱きしめた。
「どうせ・・私は泣き虫よ・・・」
溢れた涙が男の頬を濡らす。
「私の身体は、涙で出来ているの・・・。
あの事故からずっと・・・
泣かない日がないくらい・・・。
子猫を見れば・・泣いて・・・。
ギターの・・・・
ギターの音が聞こえると泣いて・・・。
伸ちゃんの・・真を見ては・・・」
嗚咽でしゃべれなくなった熱い息を、男の耳元に吹きかける。
涙が男の首すじまで伝わっていく。
くすぐったい温もりに包まれている。
男は無上の喜びに浸っていた。
柔らかな女の胸に抱かれている。
8年間、小さな写真の中でしか見る事の出来ない少女にずっと恋をしていた。
天使のように美しく成長した雪子に抱かれ、幸福感で窒息しそうだった。
嗚咽が納まる頃、男は女の唇に自分を優しく重ねた。
世界中でこんなに幸福な男女が今何人いるだろうか?
TVから流れるイージーリスニングが、二人を包み込んでいく。
東京の夜景が窓の外に広がっている。
河を渡る船が一槽、二槽。
淡い光を宿しながら進んでいく。
伸男が帰ってきた、六月の夜の事であった。
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