第十八章 アスレチックジム

車を帰し、一人日比谷公園の前を雪子は歩いていた。

あの夜、Mrグラントの言葉に怒ってタクシーをひろったその場所である。


その日からこの男の正体を暴こうと復讐に似た気持ちを抱いていたのに。

しっぽをつかもうと注意深く観察すればするほど、男の誠実さと有能さがわかるのだった。


男は一点のくもりもなく、仕事をこなしていた。

少しの妥協もなく。


嘘と欺瞞に満ちている銀行のトップ連中を見慣れている雪子にとって、それは新鮮な驚きでもあった。


男は決して逃げなかった。

どんな困難なデータに出会っても納得ないくまで追求し、答えを求めた。

国柄が違うといえばそれまでだが、自分が男なら迷わずMrグラントの生き方を選ぶと雪子は思った。


日本人の仕事の仕方は本当に曖昧だと思う。

単純でいいはずなのに、いいか悪いかの判断は客観的になされるはずだ。


データそのものに私的感情を込めようとする、日本のやり方は卑怯だと雪子は思っていた。


そして自分も同じ過ちを犯してしまった。

知らず知らずのうちに雪子はMrグラントの泊まるホテルの前に来ていた。


ロビーを抜けエレベーターに乗ろうとした時、雪子は思った。


(もしかしたらスポーツジムの方にいるかもしれない。たしか、ホテルに帰ったらジムで汗を流すって聞いていたわ・・・)


ホテルのフロントでジムの場所を聞き、別館への通路を歩いてスポーツエリアに入っていった。


アスレチックジムとエアロビクスのフロアは、ガラス張りになっていた。

注意深く探すと、奥の方に重そうなウエイトを引っ張り上げている男を見つけた。


Mrグラントであった。


重りは十個ちかく積み上げられ、周りで見ている人達も感嘆と呆れた表情でながめている。

まるでプロレスラーのような筋肉で、次々とメニューをこなしていく。


滝のような汗が額から首筋を流れていく。

歯をくいしばり最後の重りを上げ終え、一息ついてタオルで顔をぬぐう。


壁に作りつけになっている鏡にもたれると、片隅に見つけた顔を信じられないといった表情で振り返った。


(ユキコ・・・?)


寂しげな表情でこちらを見つめている。

慌てて近づいてガラス越しに男は言った。

 

「どうしたんだ、ユキコ・・・?」

女は何も言わず目を潤ませ、じっと男を見つめている。


「そこで待っていてくれ。

すぐに着替えていくから・・・」


男は急いでシャワールームに駆け込んだ。


何故か雪子が、そのままどこかへ行ってしまいそうに思えたのだ。


急いで着替えたMrグラントはジムの前の廊下を走ってきた。


雪子はコートのポケットに手を入れたまま虚ろな表情で男を見ている。


「よかった、まだいたんだ・・・

いったいどうしたんだい、ユキコ・・・。

まるで、まるで・・・ゴーストのようだ」


男の言葉に初めて自分がどこにいるかを自覚したのか、雪子は男を見つめながら崩れるようにベンチに座った。


男も隣に座り心配そうに聞いた。


「本当にどうしたんだ、ユキコ・・・?

何があったんだ・・・」


雪子は無理に男を見つめていたが、顔を手で覆うと本当に泣き出してしまった。


「ユキコ・・・?」

男は何も言わず、ただこのか弱い女を眺める事しかできなかった。


淡いベージュ色で統一された長い廊下には誰も通らず、雪子のすすり泣く声だけが微かに響いていた。


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