第十六章 セザンヌ

「今日だけでも会ってくれないか。

もう、僕は気が狂いそうなんだ・・・」


片山の悲痛な声を耳に押し当てた携帯電話で雪子は聞いていた。


「ごめんなさい。でも、今はダメなの・・・」

切ない声をしぼりだすように雪子は言った。


「わかってる。

相川さんにだいたいの事は聞いているよ。


Mr・グラントの事だろ・・・?

それについては僕にもいい考えがあるんだ。

じゃあ昼休みに相川さんも一緒に食堂でどうだい?」


相川も一緒という事と、片山のアイデアが聞きたくて雪子もおれた。

ただ、こんなぐらついた気持ちで片山に会うと、なにか流されてしまいそうで自分に自信がなかった。


「ええ、いいわ・・・だけど食堂はだめよ」

「じゃあ向かいのセザンヌで・・わかるかい?」


「ええ、あの大きい喫茶店ね?

じゃ、そこで2時に・・・」


Mrグラントに聞こえないように声をひそめて言うと雪子は電話を切った。

胸の動悸がいつまでも治まらなかった。


コーヒーカップにミルクを流し込む。

黒い液体にいったん沈んで消えたはずの白い渦が浮き上がって、また巻き込んでいく。


口に含むと香ばしい香りが鼻孔をくすぐる。

緊張した雪子の気持ちも一休みさせるようだった。


(わたし・・何をしているんだろう・・・?)

様々な想いが雪子の頭の中をグルグルと廻っていた。


伸男との思い出。

グラントへの憎しみ。


片山への想い。

やり切れない気持ちが込み上げてくる。


大切に仕舞い込んでいた物が暴かれ傷つけられていく。

今、こうして相川達を待っている間にも、グラントは懸命にデータを分析しているだろう。


本来なら雪子がサポートすべきなのに。


あれから一週間が過ぎようとしていた。


スパイの証拠をつかもうと入念に監視すればするほど、男の仕事の誠実さが浮き彫りになってくる。

そして、銀行の弱点や不正な事実も。


本当に乗っ取るつもりなのだろうか。

相川が言うようにグラントはスパイなのだろうか。

鬼気迫る仕事振りに雪子は邪心を見つける事が出来なかった。


(なのに・・・)

今、グラントを陥れようと相川達を待っている。


「お待たせ、大丈夫だったかい?」

相川が小さな声で言った。


ガラスのローパーティションから覗き込むようにして相川と片山が入ってきた。


「ええ、Mrグラントも私用で5時まで外出されるそうなの・・・」


雪子がそう言うと相川は片山とうれしそうに目を合わせた。


「そいつはチャンスだぞ。

片山とも相談したんだけど奴のデータにアクセスしてやろうと思うんだ。

もちろんバレないようにね・・・。


今、奴のパソコンはうちのホストコンピューターと繋がっているよね?」


「ええ、会社に彼のパソコンがある時はいつでも繋げているわ。


出かける時、特に接続を変えてないからたぶんそのままだと思うけど・・・」


まだ事態が呑み込めていない雪子は怪訝そうな顔で言った。


「奴の銀行へのアクセスパスワードは君が設定したんだろう?

それをすぐ教えてくれ。

奴が留守の間に俺達がデータをコピーするから」


「そんな事したら録が残っちゃうわ」

ようやく意味がわかると雪子が狼狽して言った。


それでは犯罪ではないか。


「俺達を誰だと思っているんだい?

四菱と広洋のトップディーラーだぜ・・・。

そんな素人みたいなドジはしないさ。

ハッカーも真っ青なテクニックを見せてやるよ」


「でも・・・」

やはり、黙って人のデータを盗む事には賛成できない。


まして、毎日Mrグラントが一生懸命データ入力しているのを側で見ている雪子にとっては、なおさらであった。


「そりゃあ雪ちゃんの気持ちもわかるけど・・・

今しかチャンスはないんだ。


これを逃したら奴がうちを乗っ取る気かどうかわからなくなる。


会社の為だ。

頼むよ、雪ちゃん・・・」 


相川の横で片山も訴えるような眼差しで雪子を見つめている。

別の銀行の片山までも巻き込んでしまっている後ろめたさも手伝って、雪子は遂にパスワードを教えてしまった。


「奴が全てのデータをHDに吸い上げていたらおしまいだけど、必ずいったんはホストコンピューターに記録しているはずさ。


でないと複雑な金の計算とかは出来ないからな」


そう言うと相川はパスワードのメモを大切そうにポケットにしまい、片山を促して店を出ていこうとした。


相川の後を追おうと立ち上がり伝票をつかんで片山は雪子に言った。


「さっきはごめん。

でも気持ちは本当なんだ。

どうか、わかってくれ。


この騒動が終わったら、きっと会ってくれるよね?

じゃあ・・・」 


片山の後ろ姿を見ながら雪子は不安が益々広がっていくのを感じた。

何かとんでもない事に巻き込まれているのだろうか。


あのコーヒーのクリームのように自分の運命が渦巻いていくようで、不安な気持ちから雪子は立ち上がることも出来なかった。

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