第十五章 霊感
「フー・・・」
キーボードに打ち込む手を止めて雪子は大きく息を吐いた。
モニターにはぎっしりと英訳された銀行の報告書が、映し出されていた。
いよいよベルツ銀行に提出する報告書を作成するため、雪子も資料の英訳を手伝っているのだが、その膨大な量に改めて驚いている。
連日のように夜遅くまで作業は続いていった。
今日も夜の十時だというのに、窓辺で作業するMrグラントの指からは休む事なくキーボードを叩く音がひっきりなしに聞こえてくる。
本当にタフな男だと思う。
欧米人は残業等しないという先入観に反して、グラントは日曜日さえも仕事をしているらしい。
雪子を介さず、直接銀行に出社するのを守衛の人に聞いた。
トップシークレットを扱う仕事だけに、雪子も出来るだけグラントに付合うようにしていたが、さすがに疲労が蓄積していた。
それでも男の陰謀の証拠をつかむため、懸命に仕事を手伝うのだった。
だが、男の仕事を理解すればするほど、その自分の銀行の不良債権処理のずさんさや不利なデータが浮き彫りになってくる。
確かに普通に提携した場合、ベルツ銀行が多大な損失をこうむる事になるだろう。
雪子の頭は益々混乱してしまうのであった。
モニターの画面が霞んでいく。
堪え切れない睡魔が襲ってくる。
(ユキ・・ユキ・・・)
誰かが呼んでいる。
(ユキ・・僕だよ・・・)
伸男の声だ。
(伸・・ちゃん・・・)
夢の中で答えた。
男が笑っている。
昔の笑顔そのままに。
(会いたかった・・伸ちゃん・・・)
雪子は声を出した。
目に涙をためている。
(また・・ユキは本当に泣き虫だな・・・)
(だって・・・だってぇ・・・・。)
(可哀想に・・・)
髪を撫でている。
伸男の指だ。
(寂しかった・・伸ちゃん・・・)
鼻にかかった声で甘えている。
(ごめんな、ユキ・・・)
優しい声が包む。
(伸ちゃん・・・)
雪子の頬を涙が伝う。
(いかないで・・どこにも・・・)
切なく叫んでいる。
(幽霊でもいい・・ずっと・・・
ずっとそばにいて・・・)
男は答えない。
ただ、雪子の髪を撫で続けている。
(わたし・・誰も・・伸ちゃん以外・・・)
涙で声が途切れていく。
(ユキ・・・)
男の声も悲しそうに沈む。
(無理しちゃ・・ダメだよ・・・)
(伸ちゃん・・・・。)
(自分の・・・
自分の気持ちに正直になるんだ・・・)
男が霞んでいく。
(伸ちゃん・・・)
(僕の事はもう忘れるんだ・・・)
涙がとめどなく溢れていく。
(伸ちゃん・・伸ちゃん・・・)
(本当に好きな人と・・・)
男が消えていく。
見えなくなっていく。
(いやだぁ・・いっちゃ、いやぁ・・・)
咄嗟に男の手をつかんだ。
(行かないでぇ・・伸ちゃん・・・)
しなやかな感触が頬にあたる。
(伸ちゃん・・伸ちゃんの指だ・・・)
(ユキ・・ユキ・・・)
男の声が聞こえる。
(伸ちゃん・・・)
涙が指に伝っていく。
(ユキ・・ミス・・ユキコ・・・)
声が大きくなる。
そばにいる。
男は生きている。
逃さぬよう、男の手をしっかりとつかんだ。
離れない。
どんな事があろうとも。
「ユキコ・・ミス・ユキコ・・・」
涙で滲んだ視界に、男の顔がボンヤリ見えていた。
「大丈夫ですか、ミス・ユキコ・・・」
雪子は暫くの間、呆然と見ていた。
「疲れているようだ・・申し訳ない・・・」
男はもう一方の手で雪子の髪を撫でている。
「ミスター・・・グラント・・・」
まだ思考が醒めていない。
動く事が出来なかった。
両手で掴んだ男の指と頭を撫でる感触が心地良かった。
男は笑みを浮かべたままもう何も言わなかった。
静かに時が流れていく。
ふと我に帰った雪子は慌てて男の手をはなした。
「ミ、ミスター・グラント・・・?」
跳ね上がるように立ち上がった。
「わ、わたし・・・」
混乱して日本語で喋っていた。
「眠っていたんだね?
随分とうなされていたよ・・・」
グラントが話す言葉に、ようやく落ち着きを取り戻し英語で答えた。
「す、すみません・・仕事中に・・・」
「オーケー、気にしないでいい・・・
もうあらかた作業も終わったし。
今夜はもう帰ろう・・・」
穏やかに話す表情は優しさに溢れていた。
雪子は男の手を見た。
体格の割りには華奢には見えるが伸男程は細くない。
しかし夢の中の感触は鮮明に残っていた。
(もしかすると・・・?)
雪子は男をジッと見つめた。
どう見ても伸男とは別人である。
背も一回り高く顔も全然違う。
こんなに逞しくゴツゴツしていない。
だが、何かオーラのようなものを感じる。
すぐそこに伸男が立っているように思えるのだ。
「ミ、ミスター・グラント・・・」
雪子はおずおずと聞いた。
「ほ、本当ですか・・・?」
「ん・・・?」
男は不思議そうに見ている。
「こ、この間・・・っしゃっていた・・・」
嘘だと思っていた。
からかわれているのだと。
「ポルターガイスト・・・」
「オゥ・・・?」
青い目を大きく開いてグラントは言った。
「日本語だから何を言っているのか、
分からなかったけど・・・。
ノブオ・・そうだ・・・
確かそう言ってなかったかい?」
雪子はコクリと頷いた。
「もしかすると・・・。
よくあるんだ・・・
友人なんかが家に泊まりに来た時なんか・・・。
君の・・・昔の恋人の霊が夢の中に現れたのだろう。多分、そうだ・・・。」
「じゃあ、あれはやっぱり・・・?」
雪子は一瞬、顔を輝かせた。
「いや・・・」
しかし男の言葉が直ぐに遮る。
「単に君が思いつめていただけかもしれない。
がっかりさせて悪いけど・・・」
雪子の顔が不安に曇る。
「この間はすまなかった・・・。
大切な思い出を踏みにじるような事を言って・・・。
でも信じて欲しい。
霊感が強い事は本当なんだ。
だが、それで君にどうこうしようという訳ではない。あれはあくまでもジョークさ・・・」
雪子は寂しげに目を伏せた。
騙されてもいいから、もう一度伸男の声を聞きたかったのだ。
「ヘーイ・・・?
そんな顔をするなよ、ミス・ユキコ・・・」
男が大袈裟な身振りで言う。
「可愛い顔が台無しだ・・・。」
雪子の唇が微かに歪んだ。
「そうだ・・・
無理にでも笑うんだ、ミス・ユキコ・・・。
そうすれば本当に恋人の霊に会えるかもしれない。
何たって僕は霊感が強いんだから・・・」
「ミスター・・・」
「ジョージと呼んでくれ・・・」
男はウインクすると机の上を片付け始めた。
「さあ、今日はもう遅い・・・。
明日からは早く帰れると思うよ、ミス・ユキコ。
長い間、すまなかった・・・」
雪子も手伝いながら二人は帰り支度を整えた。
照明を消し部屋を出る時、雪子はそっと振り返った。
月明かりにボンヤリ照らされた部屋は幻想的に感じた。
もしかしたら伸男の霊がまだいるかもしれない。
泣き腫らした目蓋で見つめていたが、力なくため息をつくとドアを閉めた。
そして両手で自分の顔をそっと包んだ。
乾いた涙で突っ張る頬に伸男の指の感触が残っていた。
それはグラントの指であったが。
金髪の男は見守るようにエレベーターの前で待っている。
雪子は足早に近づいていくのだった。
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