第六章 青い目

「おい・・・聞いているのか、雪子?」

父の声に我に返ると、慌てて顔を上げて雪子は答えた。


「は、はい、すみません・・・」

娘の顔を見ながら呆れたような口調で父が言った。


「大丈夫か?

この頃やけにボーとして・・・

好きな人でもできたのかい?」


父の言葉にドキリとして、慌てて資料を見るふりをしながら答えている。


「そ、そんな事ないです・・・。

ちょっと春めいてきたから・・・すみません」


雪子の態度をニヤニヤしながら見つめて父が言った。


「まあ・・・いい。

それより何度も言うが今日からベルツ社から派遣してくるジョージ・グランドというディーラーの通訳兼秘書としてお前に頼むぞ。


これは我が社とベルツとの提携の前段階の調査を兼ねているんだ。大切なお客様だから、くれぐれも失礼のないようにしっかりな。

わかったかね・・・東野君・・・?」


「はいっ・・・わかりました。

東野雪子、広洋銀行の明日を背負って、ひたすらガンバル所存であります」


雪子の大袈裟な口調に、父と娘は車内という事もあって楽しそうに笑い合った。


皇居の桜並木がもう三分咲きとなって美しい花のトンネルを作ろうとしていた。

 

※※※※※※※※※※※※※※


雪子はボンヤリと役員フロアの廊下を歩いていた。


車中での父との会話を考えている。

片山との昨夜の出来事であった。


ライブハウスで相川から紹介されてから、何度かデートを重ねていた。


昨日は家の近くまで送ってもらう途中、近くの公園で優しく唇を奪われた。

伸男以外の男と初めて交わす、キスの味であった。


(伸・・ちゃん・・・)

うっとりと見上げる雪子の頬を撫でながら、愛をささやく片山に伸男の面影を重ねていた。


しかし再び抱き寄せられて時、痛みが走った雪子は我に返った。

胸のロケットが、男の胸に押しつぶされたのだ。


「ご、ごめんなさい、今日は楽しかったわ。

どうも、ありがとう・・・」


振り切るようにして走り去る雪子を戸惑った表情で見送る片山であった。


「私、あの時・・どうかしていたのかしら?

伸男さんが戻ってきたのかと思った・・・。

片山さん・・悪い事しちゃったかな・・・?

謝らなくっちゃ・・でももし、又・・・」


片山の事が好きなのだろうか。

自分でも分からない雪子だった。


そんな心のうつろいに戸惑いながら、何度もため息をついていた。

役員室に入ると、背が高くガッシリとした体格の男が立っていた。


「おーお、やっと来たか、早速、通訳を頼む。

グラントさん・・・

この女性があなたの通訳兼秘書の東野雪子です」


英語に訳して雪子が挨拶すると、微笑んで握手を求めてきた。

 

「ジョージ・グラントです、初めまして」 


短く刈り上げた金髪は固そうに立ちあがり、大きなブルーの瞳で雪子を見つめている。


身長も高く、身体はスーツ越しからでも判るほど逞しい筋肉を宿している。

微笑んではいるが冷たそうな視線は、瞳の色のせいだけではないような気がした。


押しつぶされそうな圧迫感に、雪子は軽いめまいを覚えた。


「初めまして、ミスター・グラント」

恐る恐る差出した手を握られた時、違和感を覚えた。


もっとゴツゴツした指を想像していたのだが・・・。

冷たい手だ、と思った。


(まるで・・・)

ゴーストのようだと。


「オーケー早速、仕事だ・・ミス・・・?」

「ユキコ・・で結構です、ミスター・グラント」


普通の男なら何かしら言葉を返すか戸惑いの見せる程の雪子の笑みをグラントは無視すると、ぶっきらぼうに言った。


「分った、ミス・ユキコ・・・

まずは、銀行内の格部署を廻る」


あらかじめチェックしていたのであろうか、フセンが付いた何冊もの資料をスーツケースから取り出し机の上に置いた。


その中から一冊を抜き取り雪子に手渡した。


「このリストの順に見ていく」


そこにはディーラ室を始め、営業から守衛室までも細かく人名等が書き込まれていた。


(いつのまに・・こんな・・・?)


雪子でさえよく知らない部署も、全員の名前から経歴が書かれていた。


「時間がない、急ごう・・・」

男は直ぐに行動にうつった。


連日のように雪子を従え、各部署を廻りながら質問を飛ばしていく。


「どうして、この部署はこんなにフロアキーパーがいるんだ、多すぎないか?」


「警備員の数が少ない・・・。

本店の受付フロアだというのに・・・」


自分の会社の事は概ね把握していた積りだったが、こう矢継ぎ早に聞かれると受答えに自信が持てなかった。


雪子は軽いショックを受けていた。


社長秘書という会社の中枢部署にいながら、肝心な部分は何も把握していなかった。


男の指摘は鋭く、的確に銀行内部の弱点をついていた。

しかし、その冷淡な仕草に雪子は不快感を覚えた。


何か、自分の銀行が取り調べを受けるような気がするのだ。

確かに提携するには正確な情報が必要なのだろうが、これではまるで粗探しではないか。


会話は全て英語で行なわれ、二人の会話も囁くようにしていたが、案内する部署の面々は皆一様にグラントの事を好奇の目で見ていた。


雪子は落ち着かない気分で視線を浴びていた。


男の片棒を担ぎながら、銀行を裏切っている気がするのだ。

男は精力的にスケジュールをこなしていく。


持ってきたノートパソコンを銀行のメイン・コンピューターに繋ぎ、次々とデータを開いては分析しているようだ。

雪子の父である頭取のパスワードを使い、役員のみが知る極秘事項までもアクセス出来るのだった。


あとで父に聞いた話によると彼はハーバード大学のMBを取っており、ベルツ銀行でも群を抜いた才能をもつ若手ディーラーであるらしい。

 

父親はアメリカ海軍、ネイビーの極東長官だった人で、今でも何かあったら軍艦の一隻ぐらい動かす事などたやすいという。


広洋銀行でも、今回のベルツ銀行との提携を成功させるには、この男の調査に合格しなければならず、やむなく頭取自ら娘と共にこの男の応対に全力をかたむけるのであった。


もちろんVIP待遇で、ホテルからの送り迎えも専用の車でまず雪子を乗せた後、迎えに行くのだった。

しばらくの間、雪子はこの超VIPの接待に追われ、片山の事も忘れていった。


桜並木が満開になり、昼休みにはオフィスから集まるサラリーマンやOLでにぎわっていた。


伸男が死んでから8年目の春が今、花盛りになっているのだった。  

  

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