第五章 ライブハウス

「雪ちゃん、こっちこっち・・・」


煙草の煙と人いきれでムッとするライブハウスの奥で、相川が手を振った。


「ごめんなさい、お父さ・・・

頭取に急に呼び止められて・・・・。

来週の会議資料の翻訳を言われたの。

ああ・・懐かしい・・・この店」


ようやく落ち着いたのか雪子は店内を見回して言った。


「そうだろ、俺達がやってた頃より大きくてきれいになったけどね。


あっ、食事まだだろう?

簡単なものならあるんだぜ。

俺達は前の店で食べてきたから・・・。」


「じゃあ、ピザをいただくわ。

あと、ジン・ライムを・・・」


相川がボーイを呼び、飲み物が揃うと乾杯をした。


「あっ、遅れたけど紹介するよ。

片山君といって、

四菱銀行から来た産業スパイなんだ・・・」 


「人聞きの悪い事言わないで下さいよ。

相川さん・・洒落にならないですよ・・・」


男の困惑する表情に思わず雪子は吹き出してしまった。


「東野雪子です。

初めまして・・・。


あっ、相川さんに紹介されると何言われるか分らないから自分で言いますね。


秘書課で東野頭取付になっています。」


雪子が軽く頭を下げると、チャカスように相川が言う。


「そりゃないでしょ、雪ちゃん・・・。

僕が君の事悪く言うはずないじゃないか。

どうだい、片山?

こんな美人で英語もペラペラ・・・

おまけに頭取の一人娘。

逆玉にのった方がスパイするより、割りいいぞー」


「又、しつこいんだからぁ・・・。

へえー、でもすごいな、それは。

こちらこそ。

初めまして、宜しく・・・」


片山の顔から白い歯がこぼれるのを雪子は潤んだ瞳でじっと見つめていた。


涼しげで大きな瞳が眼鏡の奥に見え隠れしている。


あるかどうか、わからない程度だが額に少し傷が残っている。


伸男の写真とて8年前のものしかなく、それほど似ているかどうかも分からないが相川の言うとおり、なるほどハンサムな青年であった。


「おっとっと・・・

いくらなんでも、二人の世界に入るのはちょっと早すぎるよ」


そう言いながら相川は、雪子が緊張しないように話を盛り上げていく。


頃よい時間になると、腕時計を見ながら言った。


「あー、もうこんな時間かぁ・・・・。

俺、明日出張なんだ。

悔しいけど先に帰るよ。

片山、雪ちゃんに手を出すんじゃないぞ。

じゃあね、雪ちゃん。

小野のチケットはとっておくから・・・」


相川がいなくなったテーブルで、グラスをもてあそびながら片山がポツリと言った。


「いい人ですね、相川さん。

何かと気をつかってくれる・・・」


雪子もいつになく飲みながら楽しそうに笑っている。


幾分、顔がバラ色に染まっていた。


演奏がバラード系になり、二人はゆっくり楽しむように聞き入っている。


「又・・・会っていただけますか?」

深く透き通った瞳で雪子を見つめて、男が言った。


「ええ・・・」

短く答えると、雪子は更に顔を赤く染めて下を向いてしまった。


バラードの歌声が大きくなり、二人を包んでいく。

伸男が死んで、8年目の春であった。

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