ちりんか
爪が割れる前に、必ず、いらしてくださいね、と私は口にするが、彼女が店にやってくることは気まぐれな春風よりも、ずっと、稀なことだった。
彼女が私の店のドアを開けるとき、必ず、といっていいほど、甘い、椿の匂いがした。からん、と鈴の音とともに彼女はしずしずと入ってくる。
店は予約制なのだが、今日彼女に振られたという女が泣きながら飛び込んできた。レズビアンという彼女は心の涙に似合う爪にしてくれと懇願してきた。けれど仕事は介護士だから、一晩で落とすけど、と受ける、受けないという返事する前に好きに語る女に私は応じて爪を削り始めた。丸い、水仕事でいたんだその指先は、つよく、かたい。もうすぐ彼女の来る時間という苛立ちと不安をひた隠して、女の爪をひたすらに磨き、淡い桃色に染めると、透明な色で守り、その上に青をたらした。深い海色、その先に淡い水色を落とす。彼女の匂いが私の鼻孔をくすぐった。狭い、うなぎの寝床のような店で、待合室と仕事場を仕切るものはない。だから顔をあげれば確認できる。そんなことしなくてもわかってしまう匂いが彼女にはあった。
来ているのだと思うと、私は自然と背筋を伸ばして、息を殺し、女の爪に集中した。涙ではなく、笑顔でもなく、ただ沈んだ悲しみの心を映すように。泡沫の夢のように。青に落とした水の玉を女は、鼻で笑った。ものすごく陳腐だけど、好きよ、と三千円を残して去って行った。自分のことばかりの女はひどく傲慢で、傷ついて、けれど背筋だけは伸ばして出て行った。その背を見送る私と彼女の視線が合った。
「いらっしゃいませ、すいません。飛び込みが」
「いいのよ、ここではあまり他のお客様に会わないから、儲かってないのかと思ったわ」
「ここは基本、予約制ですよ。他のお客様と会うことになるのでしたら、時間をきちんとずらします」
「そうなの」
ため息のような彼女の答えに私は、さぁ、と私の前の席を手で示した。
「爪を、見せてください」
三味線を弾くという、声の限り歌うという。
文楽は男のもの、三味線と人形、語り部の三者が揃って出来る世界。それに女の芸人もいるそうだ。女性の場合は、語り部と三味線のみで行われる。
彼女は三味線弾きだ。どこへでもふらりと、自分の三味線を持って行く。
私の店にはじめてやって来た時もそうだ。彼女は背筋を伸ばし、片手には盾のような、武器のような、細長いものを藍の布に包んでやってきた。しゃなりしゃなりという音が自然とつきそうな、静かな歩みに、私は圧倒された。テレビでぐらいしかそんな着物の人を見たことがない。生憎、私は田舎の島国から出てきた者なので、自然と着物を着こなした女性をはじめて見た。白い肌に、歳相応の皺を刻んだ彼女は細い目をさらに細めて、私を見た。電話で受け付けた予約ぴったりに来た彼女は、よろしくね、と笑った。そのときだけ十代の娘のようだった。
電話でお聞きした声は、とても若々しかったですよ、と私は本音を口にした。人によっては失礼だと怒り出すかもしれないが、彼女相手には許されると思った。
三十分ほどの爪の手入れの時間をどのように過ごすかは私の腕前にかかっている。元来、あまりおしゃべり好きではない私はただ黙々と爪を研ぐ。それに客人は好き勝手に口を開く、まるで壁になったように聞き流し、そうですね、と笑うと客人はみな、癒されたと口にする。たぶん、聞いてほしいのだろう、それだけで人は自分のなかのある程度のものを整理できるのだ。それで爪もきれいにする、少しだけ喜ぶ。私はだから壁でいようと決めた。ただ、その日、彼女に対して私の灰色の心が動いた。言葉選びを間違えてしまっただろうかと不安に揺れながら私は必死に爪を見つめてしゃべる。使い古した爪は、先は白く、擦れていた。親指はとくにひどく、ひびがはいり、割れてもいた。人の肉体はいくら痛めつけても必死になおろうとする。爪もそうだ。彼女の爪は幾度も戦い、敗れ、噛みつき、殴り飛ばしたようにぼろぼろだったが、それでもまだ戦えると震えていた。
「声には気を付けてるからねぇ」
十代の娘さんのような声だ。私は爪を撫でた。
「けど、商売道具の爪はあんまり大切にしてやらなかったよ。前に組んだ太夫に、そんな爪じゃあ、おえんから、ネイルに行け言われたんよ」
「ほぉ、それは」
「それで、困ったさかい、あっちな、雑誌をめくるのも目が厭うけん、目についた店にしたんよ。それがあんたの店やったん」
「光栄です」
私は顔をあげて笑うと、彼女の黒糖のような目が微笑んでいた。
「けど、あっちの爪、ひどいやろう? これ、平気かねぇ」
「割れているのはもう治っておりますから、大丈夫ですよ。先に研いで、整えて、その上で一度、塗って、……その間に、好きな色や模様を教えてください。事前にこうしてほしいというものがあれば」
「へぇ、ネイルってやつは、時間がかかるし手間もかかるんやねぇ、こんなおばあちゃんがおしゃれしちゃあ、高いねぇ」
「失礼ですが、御年は?」
「女に聞くもんじゃないねぇ」
「あなたが言いだしたことですよ」
「違いないね。八十の女に似会う色はあるかい」
温和な笑みだ。けれど、良く尖れた爪と牙のような笑みだと思えた。
「あなたなら、どんな色も平伏すでしょう」
爪を研ぎだすと、それを合図のように彼女は話し始めた。
「あっちはね、三味線をしているんだよ」
「三味線を」
私は律儀に言い返す。爪だけを見ている。彼女の過ごした時間や経験をすべて叩き込まれたそれは、ひどく疲れ果てているのに、まだ立ち向かう力を携えていた。
「そ。二十歳のときに、嫌いなやつと結婚しろと言われて、逃げるように弟子入りしてねぇ。お前さんみたいな音痴には三味線しかないって言われちまって」
「辛辣ですね」
「弟子入り後は、もっと、辛辣で、ひどかったよ。蹴られたときもあるし、冬の寒いなか外に叩きだされたこともある」
「俺だったら、泣いて、逃げてますよ」
「嫌いな男のもんになりたくなかったからねぇ」
風鈴がちりん、ちりんと鳴るように彼女はからからと笑った。
爪はまだ戦えると訴えるようにつやつやしていた。
学のない私に、身一つが価値である時代に生まれた彼女の言葉は闊達で、すたすたと歩くように鼓膜を叩く。
好きではない男との結婚がいやで、二十歳で家を飛び出し、三日三晩、家の前で正座の末の弟子入り、姉妹弟子たちとはどぶ水をかけあい、いがみ合ったりの立ち振る舞い。まるで舞台の上での語り部のように彼女は語る。
話のなかで私と彼女の家が近くで――歩いて三十分のところだった。一人の食事は寂しいと彼女が私を口説き、それにのせられて家に上がりこんだ。あがりこんだとき、彼女の惚れこんだ男と、親不孝な息子に手を合わせた。
私は必ず彼女に手土産を持参した。さる有名なデパートの寿司、ケーキ、シュークリーム、煎餅、ときどき花。それを知って彼女は私の訪問のとき小走りに駆けてくるようになった。今日はなぁに、と強請る微笑みは、妖艶だった。
彼女の作る素朴な味噌汁や焼き魚を私は心から好んだ。そして酒を飲みながら二人して言葉を交わすことにも。
「俺は、愛人の子だったせいか、どうにもこういうものと縁が遠かったんだと思います」
「お前さんの母親はろくでなしかい」
「人の母を勝手に悪人にしないでください。いえ、マッサージ師をして、あっち、こっちと死にかけを相手に、そりゃ、慈愛をふりまいてますよ」
「ほぉ」
「うちの父、七十だったんですよ」
「あらまぁ、それ、よく出来たわね」
「母のマッサージの腕がよかったんですよ」
彼女が吹きだした。
「そんなわけでね、私の兄にあたる人なんて、私の父といってもいいぐらいの年の人でしたね。優しい人でしたよ、父のしたことにはものすごく怒ってましたが……母は働き者でしたし、人並のことはすべてしてくださいましたが」
父が来る日は決まっている。それを母と心待ちにしていた。幼いときは父がどうしていなくなる日があるのかわからなかったが、それも二十歳を過ぎればわかった。父が死んで身を引いた母はずっと影でしかなかった。
「そのせいで、あんた、ホモになっちまったのかい」
「……男に飢えていたことは否定しません」
「もったいないねぇ、あっちみたいな美人がいるのに」
「あなたが美人なことは反論しません。真に残念至極」
「この口先だけのろくでなしめ」
「否定は致しません」
数回の逢引きを経て――というよりも、家にあがりこむ前に礼儀として私はゲイなので、男しか抱きませんし、抱かれませんので、ご安心くださいと口にした。自分でもあんなにも軽率に暴露していいのだろうかと思ったが、彼女はからからと笑って。あんた、こんなばーさん相手に勃つの、と口にした。
私は、数年ほど不倫をしていた。さる代議士――酒の酔いの力はすごいもので、私は、それを彼女に口にした。定期的に来る男を持つ私の不毛さも含めて。その不倫を辞めたのは、彼の妻にばれて、包丁を持って脅されたせいだ。
いくらかの金を手切れ金として貰い、今の店をしている。私の店にはときどき、男の妻がやってきては爪を研いでいく。包丁のような爪だ。
「人のものを奪うっていうのはいけませんなぁ、いつか、自分も同じ目に合う覚悟をしなくちゃいけない」
「その覚悟なくしたのかい」
「まさか」
私は笑った。
「半分、お借りしただけですから、いつだって御返しする覚悟でしたよ」
彼女の唇はつやつやのピンク色で、微笑むと、ひどく色づいている。
「それで、あんたは、いつあっちに、似合う色を見つけてくれるのかねぇ」
「本当に、そればかりは、いつになるやら」
私は申し訳なさそうなふりをして頭をさげた。
定期的に爪を見せにくるし、私はそれを削る。撫でる。愛しむ。ときどき、家へとやってきて食事と酒を一緒にするが、どうにも、私は彼女の爪を彩る色を見つけれず、途方に暮れてしまっている。
前払いの代金だけは頂戴し、爪の手入れもしているのに、いつも、彼女の爪は素顔のまま。
女が化粧するように、爪も、人の前に出るときに我が顔を見せることに恥じを持っている。顔が人生なら、爪は、心だ。その人の荒みも、苦悩も、楽しみもなにもかも教えてくれる。それを化粧のように隠したくない女がいないはずがないだろうに。その大役をもらったにもかかわらず、尻ごみする。私ごとき凡人には、彼女の爪は手に余る。
焼きナスと熱燗に舌つづみを打ち、彼女は三味線を傍らに、ゆっくりと弦をはじく。べん、と背筋を伸ばした女のような音が鼓膜をひっかく。誰にもよりかからない、媚びない女の姿のような音。
それは私のなかでは母、店に来る女の姿に映される。
包丁をふりまわした女は、夜叉のようだったが、店に来るときは能面みたいな顔で、けれど爪だけはいつも赤色で彩り、緑や水色のストーンをちりばめて、激しい憎悪のように、燃やしている。今日きた女は、好きな女にふられて自暴自棄と口にしていたがネイルの淡い色を笑い飛ばし、一晩で消してしまうのだろう、敗れた恋心のように。べん、と音が響く。
「私の仕事も、あなたの仕事も同じですね。残りはしない」
私の作ったネイルは、剥げ落ちて、乱暴に拭われて、なくなっていく。一時、楽しませて、捨てられる。残りはしない。
彼女の三味線も同じ。いくら録音しようが、そのまま残り続けることはないのだ。
「残るわよ」
「そうですか」
「弟子がいりゃあね、残るんだよ」
「弟子、とったんですか!」
「いちゃ、悪いかい」
しれっと言い返されてしまった。
「あなたが人に教えるなんて、悪夢かと」
彼女が肩を竦めた。週三回ほど、夜に教室をしているというのに私は驚いた。カルチャー教室のノリで、弟子をとって、教えているという。
「何でも、残すためにあるのさ」
「そんな、潰しの利かないものをやって楽しいのですかねぇ」
「そんなもんさ、なんだって、潰しは利かないだろう」
「恐れ入りました。そうですね、極めるとしたら、潰し云然なんざ言っていられませんね」
「私のときは、怖いなんてなかったねぇ、この歳になって、ようやく、客のことを考えて、芸だけじゃだめだってことがわかってきた。太夫さんに指名されて、楽しく歌ってもらう、客には満足してもらうってことが楽しいと思えてきた」
彼女の手が弦をはじく。べん。
「あんたはないのかい、弟子とか」
「そんな恐ろしいもの、とれませんよ」
「あんたは、どうして、なにも残したくないんだい」
「……どうしてかな」
時々、確信を突いてくる彼女に私は曖昧に笑った。
なにも残らないような人生を歩んできた。好きになる人も、仕事も、なにかを贈るときも。その人の負担にならないように、消えもので。
いつも、そんなものばかり選んでいるのは、男を待ちながら一人で笑えるかしましい母のせいか、それとも恋人にと選んだ彼のせいか。
「あなただって、あるでしょう、怖いこと」
「怖いことねェ、この歳まで生きると、もうなぁんもないねぇ」
「……婆に聞くんじゃなかった」
私がしみじみと言うと、バッチが飛んできた。おお、こわい、こわい。
「怖いときはあったよ、好いた男に惚れて結婚しても、子を産むとなるとねぇ、仕事が干されちまうからねぇ」
「干されるんですか」
「そりゃあ、ここは繋がりの世界だからね、狭いからねぇ。一年仕事しなきゃ、縁が切れちまう。呼ばれなくなったら、どこでなにをするんだい。芸っていうのはね、極めるっていうのは客がいて、出来るものなんだよ」
「……好いた男と結婚して、子を産んで、育てて、ただの主婦になろうとは思わなかったんですか」
私の昏い声の問いに彼女はからからと笑った。
「あっちが、そんな女に見えるかい」
「……いいえ、ちっとも」
素直に答えた。
「だろう? だから、忘れられないように、手紙のやり取りはしたし、毎日弾いてたねぇ。旦那も、息子も、そりゃあ、いつも聞いててくれた」
愛しむ声に、手が三味線を撫でる。夫はガンで、息子は震災で亡くなった。なにもかもなくしたのに、彼女はそれも愛しいものなのだろうか。
「あんたは、いつも屁理屈ばかりだねぇ、それだともてないよ」
「ほっといてください。今は、あなたのツバメで上等です」
「ツバメならもっと可愛くおしよ。ほら」
差し出されたチケットに私は目を瞬かせる。
「あっちの仕事、見においで」
「……いいんですか、チケットもらって、俺の店で売りましょうか」
「ばぁーか」
額を突かれた。
「見においで」
「……喜んで」
私の父は歳よりだったせいか、いろんなところに私を連れまわした。将棋やら野球、居酒屋、ついでに舞台。思えば、父は私を母に贈り、そのあと、私に贈るものを持ち合わせていなくて、消えていくものしか与えることが出来なかったのだろう。おかげで私の目は養われ、耳は肥えた。歳よりみたいな趣味だと思う。
女と男の違いはなんだろう。
男は妻と子を養わなくちゃいけない。それにたいして、女の芸は、どこか優しい。発表する場が限られ、少ないせいだ。
彼女の名のおかげか、それとも太夫が売れっ子だからか、はたまた他に目当ているのか、満員だ。受付で私が名を出すと、若い娘さん――着物を着て、今日が発表なんですよ、と楽しげに語った。つまりは彼女の弟子さんだ。
連れていかれた控室で彼女は私の知らない姿をしていた。弟子が若いつばめさんが来ましたよ、と口にした。つばめ、そうか、私はそんな風に言われているのか。悪くはない。
「化けましたね、美人になってますよ」
「一言目が、それかい」
「すごい熱気ですね、何かを作るっていうのは」
「残せなくても、作るっていうのは、それだけですごいものだろう」
彼女の言葉に私は笑った。
「そうですね」
彼女のお節介だ。
「爪を見せてください」
「ほら」
無造作に、仕事道具を差し出してくる。三味線はいつも大切に持つくせに。私は彼女の前に腰を落とし、鞄を開いた。
「仕事道具は持ってきています。すぐに塗りましょう」
「一時間もしたら仕事なんだけどねぇ」
「乾きますから、ご安心を」
「塗ったら、落としちまうよ」
「そうしたら、また塗りましょう」
「それでいいんだよ」
彼女の艶やかな赤い唇が笑う。私は彼女の爪を尖らせ、透明に染め、そのあと迷った挙句に薊の色にした。その色に緑の葉を描いた。彼女の視線を浴びて、私は息をすることすら忘れていた。作り上げた薊色の毒々しさと潔さ、枯れていくしかない緑の葉。重ねに重ねて、散っていく。なにも残りはしないが、それでも。また咲くことを待っている。
彼女の芸も、彼女も、なにも残りはしない。残せはしない。けれども、まだある。ここにある。失われていくもの。失っていってもいいもの。それを作っている。
愛と同じだ。女がなにもかも差し出して、犠牲にして誰かを愛するのと。なにも残らない、残るかもわからない。一生の、潰しのきかない。けれど、それでいいと思う。死ぬときに間違っていたと思うかもしれなくても、残らなくてもいいから、と。私も、そう。私もそれと同じ。残らなくてもいい、与えられなくても、見返りがなくてもいい。この爪を愛したい。
「綺麗な花だね」
「あなたは、もっと美しいですよ」
私は囁いたあと懐にいれたままのそれを差し出した。
「今日は、これを差し上げようと思ってました」
「また、乙女趣味だねぇ。あんたみたい」
私のプレゼントを彼女は鼻で笑った。そしておもむろに、今までしていた髪留めをのけると、それをつけた。
金に白い花のついた、ちりんかん。
ここに来る前、立ち寄った店で、悩みに悩んで手にとった、それは、私にとっては彼女のようなものだった。
「どうだい」
「貴女には、いつも惚れてしまいます」
「そいつはいいねェ」
闊達に笑う彼女に、私は緩く笑い返した。
だがしかし 北野かほり @3tl
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