永遠の恋人

平凡、もしくは凡庸を形にしたらまさに彼である。

 根元まできっちりと押し上げられた枯葉色のネクタイ、気位の高いペルシャ猫のような灰色のスーツ、アイロンをかけたときのようにぴしっと糊がつけられていて、気持ちのいい姿。

それが一日の仕事、八時間もパソコンに向かっていたのにしわも寄らず、疲れひとつ感じさせない。きっと中身はロボットなのよ、と同僚である彼女は思う。

一ミリの隙もない同僚は、仕事のときは頼もしいけれども、一旦私生活に戻るとひどく平凡――ぶっちゃけて言えば退屈させる男だ。

 仕事の打ち上げはビアガーデン。あまり気乗りはしなかったけれども、これもまた人間関係のためと割り切って参加したが、隣がロボットマンではつまらない。

 それに彼には昨日、夜の痴態が見られていた可能性を思うとうかつに声もかけれない。

もともと、口下手な彼女はすっかり退屈して食べることに専念していた。ビールのつまみに丁度いいこってりとした揚げ物はひとつ、ふたつ食べれば胃にどっと重くのしかかってくる。

 ああ、憂鬱。

 ため息を口のなかでかみ殺す。仕事のように、毎日が同じこと、処理をして、次へ、次へと流れていく。からからとまわり続けるための歯車。社会をまわす存在。広げていくための存在。それが自分。永遠の退屈。

 場の雰囲気を盛り上げるためか、よくわからないが、クラシックの曲が流れるなか、彼女は明日からのことを考えて、未来のとりとめもないことまで思って小さく肩を落としていた。

「つまんねぇな」

 ぼそりと声が聞こえてきたのに驚いて目を向ける。ロボットが、黒縁の眼鏡越しに自分を見た。

「抜け出しませんか」

 ロボットの反乱を耳にした。


 はじめは、空耳か、もしくは幻聴かと思ったけれども、ロボットは空のジョッキを持って立ち上がったあと、来ませんかと見下ろしたまま自分に告げた。透明なレンズ越しに向けられた瞳が夜に輝く星みたいに魅力的に見えて、ふらふらと自分も立ち上がっていた。おかわりという手っ取り早い言い訳をついて二人で出ていったのはビアガーデンの下のフロア。

 暗がりのなか、すでにシャッターを下ろされて、透明な硝子越しに見えるいくつもの商品たち。

 ロボットと称される彼は真っ直ぐに、迷いなく、歩いていくのに彼女はあとについて行った。脱け出してロマンティクなんてほど遠い。

 自分と彼じゃあ、とくに。

 彼女がそんな小さな皮肉で口元を綻ばせていると彼はあるところで立ち止まった。そこは楽器を扱っている店のようだが、彼は手に持っていたジョッキを床に無造作に置いてシャッターに手をかけた。

「あなた、なにをするつもりなの」

「なにって、もちろん、忍び込むんですよ。大丈夫、ちょっとコツさえ掴めば、こういうの簡単に開く、ほらね」

 がちゃんと音をたてて、シャッターが上がった瞬間、彼女は警報が鳴るんじゃないのかとどきどきした。

「泥棒」

「盗みませんよ。ただね、あそこの音楽を聞いていたらたまらなくなって」

「音楽……ああ、なんか、昔のでしょ? すごく流行っていたわよね。どっかの国で、その国、なくなっちゃって、えーと、希望の曲とかで、今だって流行ってるわよね」

 沈黙を恐れるようにして必死に記憶から覚えている先ほどの曲についての知識を引っ張り出していた。

「あれ、作ったの、俺なんですよ」

「は? だって、あれは、もう百年も昔からのもので」

 彼はにっこりとほほ笑んだ。同胞からの親愛をこめた微笑みだ。

「あ、あなたもなの!」

 彼女が声を荒らげるのに彼は口元に人差し指を置いて、気障ったらしくしぃと制する。信じられないと彼女は小さく呟いた。

 彼はその間に目当ての品――ヴァイオリンを取り出した。まるで最愛の恋人に出会ったときのように彼の唇が表面に触れると、ヴァイオリンは初心な処女のように心をときめかせて色づくのを彼女は見てほぉとため息をついた。

「昔は、しがない音楽家で、革命家の友人がいたんです。そいつのために情熱的な、燃えるような、魂が一番輝くような曲を作ってやったんです。それだけだったのに、やれ希望だ。やれ、美しいといってもてはやされて、国が滅んだ」

「ろくでもないわね」

 思わず吐き捨てていた。

「昔は、そうして死ねるものだと思っていた。ついうっかり、グール<不死者>になるまでは」

「ふーん」

「あなたは?」

「私は、ただの下町の小娘よ。気がついたら、グールになっていた。それだけよ」

「なにもない? お仲間は大抵才能があるけども」

「私には、なにもないの」

 神様は、どうして自分をグールなんかにしたのだろう。眠って、目覚めて、食べて、働いて、ただ不死というだけ。怪我もするし、病にも犯される、子どもだって産む。ただ死ねないというだけ。そういうのはなにか特別なことがあるからか、選ばれるべきものの特権のはずだ。今までの語り継がれた英雄物語だってそうだったし、巷の流行りの漫画やアニメだって不幸な事件とか、ささやかでも心躍るなにかがあるのに。ただ、彼女は気がついたら歳をとらなくなっていただけ。なにもない。

 死ねないけども空腹があるし、食べていくためには仕事をする必要がある。グールになった者の大抵は、才能があるから、それでうまく生きていくけれど。彼女にはそれがなくて、今まで出会った他のグールに生きていくための秘訣と方法、その他いろいろを教えてもらったのだ。

「あなたは才能があるのにどうして、今みたいな生活を?」

「懲りたんだ。一度、さんざん燃えて、もう燃えカスだっていうのに、まだ生きている。まさに生きる屍だ」

 嘲笑う彼の唇が艶やであることに彼女はぎくりとした。

「もしくは天罰なのかと思って、俺がしたことを俺はずっと見なくちゃいけないって。しかし、今夜のあの曲はない。どんな三流だ。俺の音楽がぜんぜん色づいてない」

 文句を口にしながらヴァイオリンを構える彼に彼女は唖然とした。弦を撫でる、弾く、叩く、ひっかく。

 びりびりと空気が震え、肌がつきたてられる。彼女は怯え、戸惑った。驚くほどの音楽があふれ出す。

「あんなもの聞いたら、退屈に生きていこうっていうのに、耐えきれなくなる」

 ちらりと彼の目が彼女を捕らえた。蛇に睨まれた蛙のように彼女は震え上がった。

「お前のよたよたとした足取りをみたときから」

「私の、ダンスのこと」

 彼女の声が震えた。

 昨日の痴態。

 疲れ果てて、ストレス発散のために髪の毛を解いて、履きなれないヒールを脱いで、一人ぼっちのフロアで彼女は踊ったのだ。

 慣れないステップ。それでも楽しかった。自分が好きなことを、好きなようにする。

 それをたまたま残っていた――帰ったと思っていたのに! ――彼が見たのだ。いそいで取り繕ったけども。

「踊れ、きちんと、もっと、ちゃんと」

 声とともに乱暴に音楽が彼女の背中を叩く。足がひっぱられる、腕が自然と伸びる。

「私、踊れない、こんな音楽の上じゃ」

「リードしてやるから、はやく」

 噛みつくように音楽が流れる。彼女は震えながら前に出る。さんざん練習してきたステップ。よたよたと踏み間違えると、音楽に笑われた。先ほどまでホール流れていたものと同じとは思えないほど凶暴で、凶悪で、それでいて甘い音だ。彼は舌打ちとともに片足をあげて彼女の腰を軽く蹴った。ひゃんと彼女は悲鳴をあげてよたよた、今度は反対側の腰が蹴られまたよたよたした。

「ヒール、合ってないんじゃないのか」

 男がまた笑う。それに彼女は、女は全身の熱を覚えて、ヒールを投げ捨てた。女は度胸よ。

素足に気持ちのいい床を蹴って手足を伸ばす。スカートが体を締め付けるのが邪魔で自然とまくしあげてステップを踏み出していた。それに男が釣られたように身を乗り出してくる。音楽が笑う。自分に誘いをかけてくる。尻尾をふる犬のよう、頭を撫でてあげる、喉を撫でてあげる、けどそれ以上はだめ、ステップが逃げると音が追いかけ、音が乱暴に噛みつくのにダンスは震え、激しくなっていく。

 二つの魂が揺れる。重なる。噛みつき、果てていく。


 気がついたとき汗だくだったのに女は、彼女は下唇を噛んだ。

「退屈は晴れたか」

「あなたこそ」

 噛みつくように言い返すと男は、彼は微笑み、またいつものように眼鏡をかけてロボットに戻っていく。彼女もそれにならってヒールを履いて、平凡という本来の姿に戻っていく。

「さ、戻りましょうか。みんなが心配しますよ」

 永遠にも等しいと思ったのは、五分と経っていなかった。

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