夏と乙女とまっちょ
――とうとう、この季節が来てしまったんですね。
伊集院時子は真剣な瞳に、艶やかな唇からは小さな、憂いをこめたため息を漏らしました。
白い陶器のような肌、黒く長い睫、ぱっちりとした夜色の瞳、腰まである長い漆のような髪は二つに分けて三つ編みにして垂らしている姿の彼女は学校では「白雪姫」と呼ばれるほどです。可愛らしい日本人形のような美貌を最大限に利用して学校の影の女王さまとして君臨しておいででした。
その日、時子は、朝の日差しを燦々に浴びて汗をだらだらとながしながらも登校しておいででした。顔の憂いとは裏腹に朝一の気合いのいりようでした。
時子が、この季節を、この日をどれだけ心待ちにしたことでしょうか。十七歳、夏のはじめ……全校生徒が夏服に変わる日。時子は燃え上がるような気持ちを、その小さな胸に力いっぱいに押し込めて、学校の建物にはいりました。
ほどなくして廊下を歩き、教室に入ろうとした時子を粗野な声が呼び止めます。
「あれ、時子さん、早いですね」
時子は振り返ります。ああ、待ちに待ったものを見てしまいました。
男子の夏服! ――それも白シャツ、ボタンはほとんど外されて、胸板見放題ときたもんだ!
時子は、思いっきり鼻血を噴出し、朝の一番から大騒ぎを起こした挙げ句に、保健室に運ばれました。
なんの運命の悪戯か時子は稀に見る筋肉フェチでした。それも鍛え上げられたむっちり、きっちりのマッチョが大変お好みでありました。幼いときに時子の横に住んでいた憧れのお兄さんというのが、プロレスラー(それも悪党マスクだったそうです)。それから時子は筋肉、それもにおい立つような汗とむっちょりとした筋肉に身もだえ、ハァハァと荒い息を立てて、鼻血を吹いてしまう大変変態で、萌えに生きる女の子に育ってしまいました。
「私は」
時子は保健室で目を覚ますと、自分の頭を抱えて記憶を辿りました。
ああ、なんてことでしょう。私としたことが、たかだか伊藤(陸上部)如きにあのような醜態をさらしてしまうなんてと後悔しました。――時子さん的マッチョ四位。ちなみに一位は隣クラスの武田君(柔道部主将)
ああ、けれど、夏。そう、夏がいけないのよ。あんな朝のはよから着崩して、健康的にむっとしたくせぇ! といいたくなるほどの汗をかいて、胸板を見せるなんて。ああ、憎い夏。こんちくしょう夏め。てめぇのおかげで胸板みほうだいたぜ!
時子は白く清潔なベッドの上でこれでもかっていうほどに身悶えと妄想と思い出し萌えを繰り返して、満足したとき、それに気がつきました。
「あら、あなた、いましたの」
「ずっと横にいました。時子さん」
隣のベッドに寝ていたのは時子さん的、あいあむ空気男である同じクラスらしい、名前は……
「誰でしたっけ」
時子はさらりと聞きました。隣に寝ていた青白い顔をした黒髪の貧弱という文字をしたような眼鏡男子は肩を落とした。
「井原です。井原勝」
「まぁ、そうでしたの。そういえば、しょっちゅう保健室に運ばれていましたっけ?」
「はい。生まれたときから体が弱くって、貧血を起こして……時子さんも貧血ですか? 僕は、教室で殺人事件が起こったみたいに血まみれなのが気持ち悪くて倒れてしまって」
「あら、そうでしたの」
時子は、自分が井原の倒れた原因だということもまったく気にせず優雅な微笑みを浮かべました。心の中では、こいつほっせーな、出来ればウドの大木のような男が貧血の一つでも起して横に寝てくれないものか。そしたら気絶している間、筋肉見放題。まぁ、私ったらはしたない。うふっ。
などと不埒なことを考える時子。彼女の美点は、自分に都合の悪いことはきれいさっぱりなかったことにするということでした。
「えへへ。時子さんと一緒なんて嬉しいな」
「まぁ、私はちっとも」
さらとり時子が言い返すのに井原としてはちょっとショックでした。というのも、井原はとしごろの男子よろしく見た目は清楚で美しい時子に恋心を抱いておりました。
時子の、見ただけで吐いてしまいそうな十段弁当箱の豪快な食いっぷり、見た目は細いくせしてなにか気に障るときは机を思いっきりひっくりかえして「てめぇなんばしよっとね」となんかどこぞのヤーさんみたいな怒鳴り声を愛していました。恋は盲目。自分にないものに人は憧れます。
「私、そろそろ教室に戻りますわ」
むしろ、はやく筋肉を堪能したいというのが時子さんの今の気持ちです。倒れているなんて惜しい日です。
「あ、僕も一緒に」
そういうことで二人は並んで教室に戻る道を歩き出しました。
「カツ、あれ、迎え、いらなかったか?」
麗しきドス声に時子の胸はきゅんと締め付けられました。ふりかえると、時子の愛してやまないまっちょ三位の伊藤くん(剣道部)でした。
伊藤は、親友である井原を迎えに来たようです。
「それも、胸板キター! むしろ、横腹がすける夏服の白っ!」
夏服のなにがたまらんかというと、透けてシゃツが肌に貼りつくなんて、もうなんて憎い!
「う、おっ……と、時子さん、ど、どうしたんだよ」
「時子さん?」
「失敬。私としたとことが」
ほほっと時子は笑ってみせます。
その様子を見ていた井原は思った。
「時子さんって、もしかして……伊藤くんのことが、好き?」
「いえ、全然」
時子は地獄耳でした。
「全然って、即答だな」
「私、あなたの顔には興味ありませんのよ。あえていうならば……体?」
その場を通り過ぎる罪もない生徒たち、また教員たちは、時子のエロスボィズに思わず胸が締め付けられました。あらぬ恋、あらぬ禁断の恋の芽がにょっきりと出てきちゃったかもしれません。
「体って、あんた」
伊藤も普通の男子生徒として顔を赤くします。
井原は諸々のショックのあまり倒れそうになるのを慌てて伊藤が太い腕で支えます。
「あら、勘違いしないでね、私、マッチョが好きなんですのよ」
「はぁ?」
「あの匂いたつような、抱きしめられたら、あん、折れちゃうみたいな、がっしりとして、それでいてむっちょりとした筋肉。筋肉は世界を救うのよ。いいえ、筋肉を好きな人に悪い人はいなくってよ」
この女、見た目はいいが実は変態かと伊藤は気がつき、はやく親友を連れて帰ろう。そう思って支えている親友を見てぎょっとしました。親友の目がきらきら星のように輝いているのです。
「かっこいい」
人間、自分にないものを好きになってしまうのは性のようなものです。
井原の場合は、その典型でした。
「時子さん」
腹の底から井原は声を出して時子を呼びます。とはいえ、貧弱な井原の気合の入った声というのは、普通の人の声くらいなのですが。
「はい?」
「マッチョだったらいいんですね」
「ええ」
「これでどうですか」
井原、男を見せます。
白いシャツのボタンを開きました。そこから現れた体は時子に負けずと劣らず白い肌に骨が透けて見えてしまいそうで、見ているほうが痛々しい病弱さです。時子は思わずはしたなくもぺっと唾を吐いてしまいました。あら、乙女としたことがいけませんこと。ほほほ。
井原は、あまりのショックにその場に倒れました。その拍子にぽろりと眼鏡が落ちました。
「カツ、大丈夫か」
「伊藤くん」
井原が顔をあげたとき、その場にいた罪もない通行していた生徒、教員は足を止めました。
眼鏡をとったら、美形。そんなお約束な。が、お約束なお約束。長い睫に目の輝きは女の子にだって負けません。思わずその場にいた生徒、教員を夏らしく恋と禁断愛に火をつけて、かきたてます。
が、そんなもの時子には通用しません。なぜならば、マッチョをこの世で愛しているから。
「美形なんざ、お約束すぎて、つまらないですわ」
はんっと鼻で笑う始末。
「じゃあ、マッチョだったらいいんですか」
「ええ」
時子は微笑んで言い返します。
「伊藤くんみたいなのでしたら、いいかも」
「おい、そこのむかつく女、蹴るぞ。なぁ蹴ってもいいよな。許されるよな。なんで美女を蹴ったら顰蹙買うんだろうな。俺のほうが人権無視されてるわけなのに」
「美しさは正義なのですわよ。伊藤くん」
「うわ、地獄落ちろ。てめぇ、このアマ!」
「伊藤くん」
「なんだよ」
井原の真面目な顔に野生のカンが働き、あ、これはいやな予感。
「君の筋肉に勝つ」
予感はだいたいあたるものです。思わず頭が痛くなりました。
「……やめとけ。お前貧弱さは俺が一番よく知ってる。学校登校するだけで息をぜぇぜぇしていて、さらにいうと階段のぼって倒れそうになる。体育の時間は毎回倒れる。そのうち血でも吐くんじゃないかって、俺の心配を増やすな」
「そんなことない……こ、こんな筋肉」
ひょろりとした腕で伊藤の胸を叩いた瞬間、ぽ、きっ。何か折れてはいけないものが折れる音がその場に響きました。
「わぁあああ! 井原っ!」と、叫ぶ伊藤のまっちょ、むんむんな胸板に時子は胸きゅんをしました。貧弱な腕すら打ち砕く鋼の肉体。ぷはぁーと思いっきり鼻血噴射。その鼻血が、なんと文字となりました。
「筋肉愛」
画数が多いというのに見事なものです。ですが、そのために時子も再び貧血で倒れました。
「こっちもきもく倒れたしぃ! ああ、もうっ!」
救急車を呼びつけ全治一ヶ月の井原の目標はまっちょ。伊藤は、そんな親友を捨てるべきか、見守るべきかと本気で悩み。早々に復活した時子さんは理想のまっちょを求め視線を彷徨わせます。
それぞれの短くもくそ暑い夏が幕を開けました。
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