夜を纏う者

夜というやつは、本当に厄介だ。

 人の本性を無闇にやたらと引きずり出そうとするケダモノだ。

 

 高級クラブ<鈴蘭>は榊の趣味が丸見えの店だ。

見た目が同じような女たちが、笑顔を売り物にしている。その店には月に数回、少なくとも二回は顔を出すが、わたしの趣味ではない。榊の顔を立ててだ。この店のほとんどの女が似ているのは、榊の愛人だからだ。

 その中で、はじめてみる顔があった。

 彼女はわたしをじっと見つめるのは誘っていると直感的に感じた。この女は、まだ榊の愛人じゃないとわかった。

 黒が似合う女だ。

 黒のドレスに瞳は全てを飲み込んでしまう力をもっている。

 話してみたい。

 わたしは、下心抜きでそう思っていると、彼女はわたしの気持ちを察したように近づいてきた。それまでわたしに言葉と笑顔を売っていた女が引き、彼女がわたしのテーブルについた。

「サキです」

 見とれてしまうほどのマニュアルどおりの笑顔。

 サキはわたしの席につくと、水割りを作り出した。

「私にはもう酒がある」

「これは私の分ですわ」

 サキは機械のように媚びた笑顔と共に言い返した。

 人間というものを機械にしたら、きっと彼女のようになるのだろう。もし、彼女が血の通わぬ機械だとしても、わたしは驚かない。むしろ、納得する。

 サキは、マニュアル通りに笑顔と意味の無い会話をわたしにふった。わたしは律儀に相槌を打った。

「榊に言われました」

 サキの目は、どこか遠くを見ている。わたしはその視線を追いかけた。榊がにやりと笑っている。今回こそ、わたしが落ちると思っているのか。

「なんと?」

「抱かれろと」

 あまりにもストレートな言葉にわたしは笑った。

「君は私に抱かれたいか?」

「私を抱きたいですか?」

 思わず聞き返されたのにわたしはしばしサキを見た。

 サキは美しい足をしている。

黒髪に黒い目、黒いドレスが美しい。

「ここには地下がある」

 この店がまっとうな商売をしているのは表向きだけのことだ。会員のみがいける特別な地下の部屋がある。わたしは、今まで一度も、この部屋を使用したことがない。

「知ってます」

「キーをとってきてくれ」

「わかりました」

 サキは本当に忠実な機械だ。

 今頃、榊が喜んでいることを想像するのは容易い。

キーをもってきたサキがわたしをじっと見る。

「抱かれることがいやか?」

「いいえ」

 サキは笑った。

「榊が、あなたは、女に興味ないものだと言っていたのでほっとするでしょう」

 わたしは肩を竦めた。もし、ここでサキを抱かなければ、今度は男を紹介されることになるところだった。

 生憎と、わたしは、全うなヘテロで、男には興味がない。

 サキの腰を抱き、わたしたちは地下の部屋に行った。



 まるでタチの悪いウィルスのように歌舞伎町には外国人が多い。

一番は中国人で、彼らはその多さから同じ人種でも出身によってグループをわけ、互いに牽制し、縄張り争いに余念がない。ご苦労なことだ。

 わたしたちのような少数派は、できるだけ頭を低くして、台風が通り過ぎるのを、ただ待つのだ。


 サキと地下の個室で過ごしてから、わたしはサキを指名するようになった。そうすると、榊の目はわたしに対して弱みを掴んだと語っていた。

 今まで榊の差し出す女に対してわたしは興味を示さなかったので、今度こそわたしをたらしこんだと持っているのだろう。

 わたしは、女に興味がないわけではない。

 問題は、榊の差し出すマネキンに対して欲情しろというのは無理だということと、他人の古など手を出す気はないだけだ。

 榊の店でのわたしの目的は、サキに絞られた。そのため、店に入ると、一時間は表で飲んで、そのあとは個室に入るというパターンになった。

 ベッド、ソファ、テレビ……最低限の、少しばかり寛ぎやすさを考えた部屋だ。

「このワイン、美味しいですわ」

 赤いワインに口つけたあと、サキはわたしを見た。

「抱かないことが不服か?」

「いいえ」

 本当にそう思っている口調が作り物めいている。

「榊が君にいずれ私のことを尋ねるだろう」

「聞かれたら、答えますわ」

 愛しい人形の答えは、いつもはっきりとしている。

 手を伸ばして、サキの手に触れると、思いのほかに冷たくて逆に安心した。やはり、彼女は人間ではない。

「爪がすごいな」

 爪はピンク塗られ、花が描かれている。ネイルアートのことは知っているが、ここまで手のこんだものを見たのははじめてだ。

「知人の趣味なんです」

 はじめて聞く言葉だ。この人形に知人などいるのだろうか。

「食事に行こう」

「わかりました。榊に言ってきます」

 サキはわたしの言葉にどこまでも忠実だ。

 彼女は、榊と交渉し、見事に勝利をした。わたしが相手ということが効果をなしたのか、すぐに二人で外に出た。


 マムの店は、歌舞伎町の一角にある。一般人は、決して迷い込むようなことのないビルとビルの間に隠れているので道を知る同胞しか訪れることはない。

 マムはわたしたちが来ると、すぐに一番奥の部屋に案内してくれた。料理はあえて言わなくてもわたしの好みを知っているので、任せてしまえるからとてもラクだ。

 マムはもう四十代だが、張りのある肌に、化粧をすれば、十歳は若返る。

「美味しいです」

 サキは出てきたスープを啜ると、ワインのとき同様に口にした。まるで口に運んだら、そう答えろとプログラムされているようだ。

「ここは私の祖国の料理があるから、よく来ているんだ」

「パゥレーンの故郷ですか」

 サキはわたしを見つめた。

「ここでは少数派だがね」

「なにと比べてですか」

 サキの問いに私は笑った。

「我々と、この街にいる人間たちだ……君は、どこの人間だ」

 わたしは、自分の問いに少しばかり後悔した。

 機械には出身なんてないだろう、あったとしてもサキには関係のないことだろう。

ルール違反をした。

だが、わたしは、サキのことが知りたかった。サキはとりとめもない話はするが、自分については一切と話さない。まるでいつも身にまとう黒いドレスのように、彼女は真っ黒だ。

 顔立ちだけいえば、アジア系の中国か、韓国か。この街には、大勢いる密入国の出稼ぎといったところだろうが、サキからは、のし上がろうというぎらぎらな欲望を感じない。

「私に祖国はありません」

「サキ」

「なくなってしまったんです」

 こともなげに言いながらサキは食事を続ける。わたしは何も言えなくなった。彼女は、何を考えて、そんなことをさらりと告げたのか。祖国がないというのは、どういうことだろうか。機械はどこまでも機械らしく、わたしのことなどまるで気にしないように食事を終えて、毛並みのよい猫のように舌で唇をなめる。

「とっても美味しかったです」

「それはよかった」

 ノックに、わたしはふりかえった。

 マムが立っていた。その目が困り果てているのにわたしは、立ち上がった。

「すまない、すぐに戻る」

「はい」

 愛しい機械の笑顔に見送られて、私は部屋を出た。



 女が泣いている。その顔を見ると、わたしは、いつも思い出す顔がある。だが、だからといって同情することはできない。それは自分の身から出たさびだろうとわたしは切り捨てる。


 わたしはサキの待つ部屋に戻った。

 サキはワインを飲んでいた。

 わたしは、サキの横に腰掛けた。

 深いため息が漏れる。

「まったく、大変だったよ」

 わたしが言うのに、サキは視線を向けた。

「なにがですか」

「男に騙された女がいた、それだけだ」

 わたしは、先ほどのことをさらりと、それだけでまとめた。サキを相手に深く説明することが野暮だと思えたからだ。

 サキは、わたしの言葉に何も言いはしなかった。それが逆にわたしを安心させた。わたしは、サキの渡してくれたワインを飲んだ。味は甘かった。

「この世界は、みんな騙しあいなんでしようね」

 サキは、どこか、遠くを見て呟いた。

 なんとなく、サキはわたしを騙そうとしているのだと感じるが、ここで肯定してしまっては、いけないと思った。

「君は、私を騙して、どうする」

 不意に聞いてみた。

「血のようなワインを飲みますわ」

 ぺろりとサキが舌で真っ赤な唇を舐めたのにわたしは、彼女ならは、きっとそうするだろう。数ある男たちを犠牲にして、血のしたたるワインとステーキを食べるのだろう。それが似合う女だ。



 サキを店へと返したあと、わたしは、しばらく飲んでいた。

 この店は、わたしが、日本にきてはじめに手に入れた。マムは、わたしから一年あとに、この国に来た。そのころ、わたしは、理想に燃えていた。今でも、そうだ。ただ理想はわたしのなかで大きくかわってしまった。

歳をとった。それだけで、かわるものがある。

 店では、タイから来た出稼ぎの娘たちを働かせている。ほとんどが密入国だ。日本語をマムが教え込み、店に出す。そのまま店で働く者、出ていく者のほうが多いが、誰も彼も、最後にはここに戻ってくる。

 マムは、昔のわたしの写真を大切そうに飾っている。

 わたしが、まだ軍人であったときの写真だ。

 わたしは、それが嫌いだ。


 夜も更けてきたのに、わたしは店から出た。車を拾ってもよかったが、熱した頭を冷やす必要があった。わたしは、夜の街が好きだ。この歌舞伎町という、どこまでも金と絶望の匂いがする街。

一人の男がわたしに向かってきた。わたしは後ろへと咄嗟に引いてビルの隙間に逃げた。男は舌打ちしてわたしに向かってきた。わたしは地面に叩きつけられ、そのまま数回、蹴られた。歌舞伎町の夜は、冷たい。他人のトラブルを楽しむ奴らは多いが、それにいちいち助けようなどという優しい輩はいない。人目を避けて小道に入ったのも助けがこない原因だろう。

わたしは舌を切った痛みに自分を保つことが出来た。相手を見上げる。誰だと思ったとき、横から男を蹴る者がいた。

「サキ」

 まるで女神だった。

 黒い髪をなびかせ、男を一撃で倒すと、わたしを見た。冷たい、黒い眼だ。わたしは立ち上がった。

「殺すなっ!」

 わたしの声にサキは、倒れた男を踏みつけようとしていた足をとめた。そのまま男の頭蓋骨でも砕いたとしても、わたしは驚かないだろう。

「大丈夫ですか」

「ああ」

 サキは笑った。完璧な微笑みだ。

「この人、だれですか」

「……甥だ」

 わたしは、呻いている甥を見て吐き捨てた。

 懐から携帯電話を取り出してチェーンに連絡をいれる。五分でくる、と彼はいった。時間を守る男だけに、すぐにくるだろう。

「わたしを殺そうとしたようだ」

「……ワインを飲みませんか?」

「どんな」

 わたしの問いにサキは声をあげて笑った。はじめてみる、彼女の本当の笑いのように思えた。

「血のように真っ赤なワイン」

 彼女には、赤がよく似合う。それも、どす黒いような、赤だ。



 チェーンは、彼が口にした五分という時間よりも、二分ほどはやく。車に甥を乗せ、わたしとサキを見た。深くは何も聞かなかった。わたしは甥のことをチェーンを頼んだ。そして、そのままサキと安いホテルに入った。

 サキは慣れた様に、タオルを濡らしてわたしの口元を手当てした。 

「サキは、なにも聞かないんだな」

「なにをですか」

「甥が何故私を襲ったか」

「聞いて欲しいのですか」

 わたしは、口が痛むのを我慢して笑った。

「聞いて欲しいのかもしれない」

 サキは不思議だ。何をはなしてもいいように思える。

 命のない機械になにを話したところで、問題はない。それと同じだ。


 わたしの姉の子なんだ。

 わたしは、姉をこの世で最も愛している。敬愛しているという言葉が一番しっくりとくる。それ以外の言葉で、姉とわたしの関係を説明することはできない。肉親というには、わたしは、姉を愛しすぎていた。

 そう、一人の女性として。だが、肉欲を抱くようなことはなかった。邪推的なものをされるのは、わたしも、そして姉をも穢すことになる。

 だから敬愛。

 それ以外の言葉はなかった。

 姉を盲目的に崇拝していた時期があった。姉は聡明で、美しかった。この世で一番素晴らしいのは、賢さと、美しさだ。

 姉は、二つとももっていた。

 だが、それでも姉は真の美にはなれなかった。

 恋をしたからだ。

 愚かな恋だ。姉は、日本人の記者と恋に落ち、あの子を身篭った。そのころ、わたしたちの祖国は少しばかり荒れていた。多くのことがあった。それは一言で語れるようなものではない。

 ……姉は、信じていた。信じて、裏切られた。あの男に。そう、日本人の男は、国に妻子があった。姉が身篭ると、そのまま逃げたのだ、祖国に。逃げるところが、あの男はあった。

 わたしは、別にその男も、日本も憎んではいない。

 本当だ。

 ただ姉は悲しみに狂って首を吊った。

 わたしは、涙も出なかった。


 わたしが語るのに、サキはただ聞いていた。そして、ワインを飲んでいた。

「悲しいですか」

「少しも」

 わたしは、強がった。

 サキはわたしの言葉に笑った。

「慰めて、さしあげましょうか」

 サキがわたしの肩に触れ、ベッドに倒してきた。わたしは、サキを見上げた。そのままサキの頬に触れる。触れたかったのかもしれない。あのときら溢れてとまらない感情に今、振りまわされようとしている。

 わたしは、サキと口付けを交わし、深く交わるように何度もキスを交わした。サキは甘かった。甘い味がした。

「だめだ」

 わたしはサキの胸に顔を埋めて囁くように言った。

「パォレーン?」

 わたしは、きみを抱けない。

 搾り出すように言ったのにサキは眉を顰めた。

 もうひとつ、わたしは、サキに告白しなくてはいけないことがある。わたしはサキの胸を愛撫しながら囁いた。サキの体は、柔らかく、そして甘い。

「私は、女を抱けない」

「パォレーン、あなた」

 サキが絶句したのにわたしは、そのままサキをベッドに抱きしめて、愛撫し続けた。執拗に、この女を愛した。

 わたしは、もう二度と女を抱けない体になった。それは若かったからだ。わたしも、そしてわたしの周りも。

「軍にいたとき、上に逆らった。そして、ペニスを切られたんだ。もう女が抱けない体になった」

 サキは無言で私の頬を撫でた。私はまるで捨てられた犬のように、それにすり寄った。


 サキの甘い味にわたしはむしゃぶりついた。



 眼が覚めた。

 そのとき、サキが動いていた。

「なにをしている」

 サキはわたしを見た。

「……どこ」

「なにがだ」

「麻薬」

 わたしは、頷いた。

 わたしは、この国に麻薬を持ち込もうとしている。新しいビジネス。日本ほどに、ギャンブルがきく国はない。

「君は、それが目的だったのか」

 わたしは注意深くサキを見た。サキは悪びれることもなく、片手に持つ銃をわたしに向けてきた。

「ええ、あなたが新しい麻薬をこちらにもってきていると聞きました」

「それで横取りを?」

 サキは頷いた。

「どこの回しものだ」

「どこでしょう」

 サキは他人事のようにいいながら銃を下した。そんなものは無意味だとわかっているらしい。

「わたしは、自由になりたいんです」

「サキ」

「そのためには、なんだってします」

「なにから自由になるんだ」

 サキはわたしを見つめて、さぁと首を横にふった。

 何から、自由になりたいのか、自分でもわからないという口調だ。

 彼女を突き動かすのは、なんだろうか。たぶん、とても複雑なものだ。他人にも、ましてや欲にまみれたわたしには理解できないことだ。

彼女には愛や憎しみ、そういったものとはまったく別の、感情なのだろう。

「……麻薬は私の手元にはない」

「そうですね」

「それがあれば、君は自由なのか」

「わかりません」

 何もかもどうでもいいという言い方だった。

「あなたは、この国でなにをするの?」

 問いにわたしは躊躇った。

「なにを、するんだろうな」

「……やめましょう」

 サキは言った。

「いいのか」

「ええ」

 やはり彼女を突き動かすのは、もっと別の。もっとなにかしら、違うものなのだろう。

「パオのことが嫌いではないんです、わたし」

「私も、君の事が嫌いではない」

 わたしたちは、もっと別の出会い方をすべきだった。そんな陳腐な言葉が浮かんだが口にはしなかった。この出会いだったからだ、いいのだ。

 サキはわたしの中では、どこまでも謎の女だ。

「またワインを飲もう」

「ええ、そのときは、白いワインで」

 サキが笑った。

 わたしを面食らった顔をして、サキを見ていた。立ち去っていく背中に、夜がよく似合っていた。

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