永遠の夜

 重々しい雲を抱えた空を不安げに睨みながら根気よく手をあげ、運よく捕まえたタクシーに乗り込むと目的地を告げる。また入り組んだところにいくんですね、と困ったようなからかいが返された。

 迷惑でしたら、路地に入る前に下ろしていただいても結構ですが、というと、いえいえと運転手はミラー越しに笑った。これでもタクシー歴、三十年ですから。どんなところだって、それこそ猫の額ほどに狭いところだって入って見せますよと言うとがははっと豪快に笑った。それにつられて洋一も控えめに笑った。

 窓から外を見ると、灰色の涙を零しそうな空の果てに役目を終えた茜色の太陽は冷たい風に頭を撫でられて渋々と沈んでゆく、黄昏。まだまだ熱されたアスファルトは与えられたものを奪われるように、大地も空も抵抗しているようだ。

 不意に、何もかも洗い流すような雨が降った。運転手の驚きの声を聞きながら、洋一は目を細めた。

 矢のような、憎悪の雨だ。人も大地もなにもかも大嫌いだと告げるように激しい。

「夕立ですね」

「ええ。これでみぞれや雪でないだけマシでしょう」運転手が相槌を打つ。十二月の終わり、ほとんどの者が仕事収めをする、すべてが終わる日の夜に雨が降るのはまるで運命だ。

「……汚れたものを全部洗い流すよそうですね」

 ネクタイをほどいて、頬に伝う汗を乱暴に拭った。

彩が言うには、洋一はぱりっとしたシャツとズボンがよく似合う男なのだと、仕事に就くとお祝いだとスーツを一式送ってくれた。それは驚くほどに洋一の身体にぴったりとくっついて、今では皮膚の一部のようになった。

 仕事のあとはネクタイを外し、すぐさまに上着のポケットにいれるようにする。

 ちらちらとミラー越しに視線を受けた。この若造は何者だろうという興味だとわかった。

「お客さん、仕事は?」

「弁護士です」

 運転手の目つきがあからさまに尊敬の念をこめるものへと変わったのに洋一は笑ってしまいそうになったが、あえて訂正はいれなかった。これは、これで心地の良いものだからだ。窓へと目を向けると、雨は先ほどの勢いを無くしてずいぶんと細かなものへと変わっていた。

「そりゃ、立派ですね。まだお若いのに」

「そんなことありませんよ」

「けど、弁護士さんといったら、ものすごく小難しいことを理解して、それで、さっと解決するんじゃないのかい。金だってたんまりとある」

「あははは、そんなすごいものじゃないですよ」

 洋一は運転手の他愛無い妄想に付き合った。弁護士は本当は地味で、人に付き合い、さらには報酬が少ないという現実を口にするよりは、ただ単純に憧れてもらったほうがいいだろうと思えた。

「ええっと、刑事事件とかやってるんでしょ」

「いいえ。家庭裁判を主にしています」

 そういうと運転手がきょとんとしたのに、それは無理もない反応だと洋一は割り切った。

「家庭っーと、悪がきを相手に? そら、お若い人じゃないと無理ですかね」

「そんなことないですよ。……家庭裁判なんて、悲しいくらいにどろどろしてますよ」

 洋一は苦笑いをしてつけくわえた。とりわけ明るくいったつもりだが、どうしても今日あったことが頭を掠めて昏い感情が滲んだらしく運転手はそれきり口を噤んでしまい、洋一は外だけを見た。

 運転手が入り組んだところですね、といったところに近づいてきた。無数に立ち並ぶ高層ビルのあるオフィス街だが、ちょっと角を曲がれば戦後からある店がしぶとく残った小さな店が軒を連ねている。

 角を曲がると、本当に狭くて車が一台、通れるか、通れないかくらいになる。ここでもし前から車がきたらそれこそ後ろに下がらなくては外へと出れない、それくらいに悲惨だ。だから、ここでいいですよ、といって角にさしかかったときに降りようと思ったが、運転手は雨降りでしょうとちゃんと店の前まで洋一を連れていき、きっちりと降ろしてくれた。お金を払って外へと出ると、運よく雨は止んでいてツンと水気を含んだ空気に鼻についた。

「店、閉まってますが、いいんですかい」

 運転手がちらりと店を一瞥して、暖簾がかかっていないのに訝しげな顔をするが洋一は気にしない。

「ええ、大丈夫です。ありがとう」

 そういってタクシーが走り去るのを見て洋一はすぐに店と睨みあう。もう百年くらいここにあって、自分の居場所を守っているような佇まいは、年老いた老人のようで、いたわってやらなくてはいけないと思える。


 戸に手をかけて、そっと壊れないようにと、老人の背中を撫でるように力をこめて動かすと軋んだ音とともに、ちりん、ちりんと戸の上についている金の鈴が鳴った。それに呼ばれるようにして奥から足音が一つ聞こえてきた。

「来たのか」

「来るってメールしただろう」

 洋一が肩を竦めて笑うと、紫色の鮮やかな着物の彩もまた肩を竦めた。

「機械が苦手だとお前、知っているだろう」

「メールくらい見れると言ったじゃないか」

 彩が拗ねてそっぽ向くのに洋一はやれやれと肩を竦めて店の中に足を踏み入れた。するとツンッと黴と雨の匂いが鼻孔を刺激した。

 骨董品を扱う店だと以前、店主の彩は口にしていたが、この店はなにかがちぐはぐだった。年代ものの懐中時計が置かれる横には、簪が置かれている。着物があれば、ジャケットも飾られている無造作というルールにのっとって集められた、ただ古いというものだ。

それら一つ一つがあるべきところに行きつくために、少しだけここに腰を据えていて、誰もが喧嘩せずに、それは礼儀正しく、次の行くべき場所を待っているようだった。

 洋一は無意識に自分の左手にはめられたロレックスを撫でた。

「夕飯はある?」

「あるよ。今日は、鍋だ」

 自分が来ないと思っていたというわりにはちゃんと用意してくれたのか。洋一はなんだかおかしいような、物寂しい気持ちで先を歩く彩を追った。

「豪華だね」

「取引相手が、いい肉をくれてね」

「取引相手というと?」

「京都の人だよ。何度か商売をしたことがある、あの辻占さん。いろいろと譲ってもらってね、ついでに、だったらこれも、と生ものまでくれたよ」

 彩はからからと笑って言いながら奥に進むと、六畳ほど小さな居間に入る。四つ足のどっしりとしたこたつ、洋服箪笥とテレビに静かにたたずんでいる。本当に必要なものだけを置いて不要なものを削りに削ったらこうなったといえる部屋だ。上着を脱いでハンガーにかけて、そっと窓辺につるしていると、彩がコンロと、ぐつぐつと煮立った鍋を持ってくる。椀に卵を割って落とし、箸でさっとかき回せる。二人して肉をつついた。

「京都は古い物が多いそうだけど、今回はなにをもらったの」

 律儀に洋一が尋ねれば

「東京に移り住むので、古い着物を譲ってくれた」

 彩は淡々と答える。

「一人で住むには、心細いから、ここいらで金に変えて、息子夫婦のところにいくそうだ」

 そこまで答えた彩は肉を食べる手をとめて、ついっと遠くを目で睨みつける。

「三十年来の友人が隠居するというのは寂しいものだ」

 彩の見た目は二十歳かそこいらで、今では洋一よりも年下に見られているが、実際はたぶん、この家と同じくらいに年をとっている。

彩は<形無き者>だ。性別はなく、男にも女にも変われる。子を産むこともできる。しかし、不老不死だ。

 いつから現れたのかはわからないが、そんな人であり、人でない生き物が当たり前のように現れた。

 彩の本当の年齢を洋一は知らない。

「……あとで、サイトの確認をして、新しい品をアップしておくよ」

 この店かあまりにも繁盛しないのを嘆いて、洋一は勝手にサイトを作った。こうすればいいのだと昏々と説明しても彩は覚える気がないようだ。それでもメールだけは一年かがりで覚えさせたし、おかげで品が少しづつとはいえ売れている。彩はそれを通じて同じような仕事をしている人間と知り合うきっかけにもなった。囁かな変化があったことに洋一は小さな満足を覚えるのだ。

「頼むよ。私はそういうのはとことん苦手だからな」

 野菜と肉を箸でつまみ、卵に絡めて、口にいれると甘く、そして辛かった。肉と卵は重なり合い、絡み合う。

残った鍋には米と残り卵もいれて粥にする。

 夜は深々と二人の間から音という音を消して、腹を満たすことだけに没頭させてくれた。

「ねぇ彩、知ってる」

 卵がほどよく米を柔らかくしている粥を食べながら洋一は口を開いた。

「なんだ」

「パラディース・アウフ・エールデンの意味」

「ドイツ語で地上の楽園だ」

 その言葉に洋一はなぜか妙に納得して笑いたいような、同時に泣き出したい気持ちを抑え込んだ。 そんなものを求めたところで、あるはずがない。


 二十年ほど前に、彩は一人の男と恋して、子を産んだそうだ。子が二十歳になるくらいのころ、彩はふとしたはずみでそこから逃げた。以来、いろんなところを転々として、ここに流れ着いてから骨董品をやっている。


 このさびれた人に忘れ去られたような骨董品に洋一がはじめて足を運んだのは、十三歳のときだった。

 蝉の鳴くうるさい夏休みの初めの日。ランドセルを背負ったまま、洋一はこの夜のように暗い店の戸の前に立ち、息を飲んだ。

 夜みたいだった。手を伸ばしたら、自分が引っ張られて食べられてしまうみたいな、怪物の口。

 そのころ洋一は夜が怖かった。夜は巨大な怪物の口だ。だからいつも母がいなくなってしまうのだ。母は毎夜、毎夜、怪物に食われているのだ、そう思ったほどだ。

そっと中を覗きこんで、そこに無造作に置かれたロレックスに、つい手が伸びてまじまじと見つめていると、つっと音がしてはっと顔をあげると化け物の口の奥から一人の女性があらわれた。

 見つかったとき、血の気がひいた。母親に連絡されたらとそれだけが怖かった。だが彩は笑った。

 洋一は怖くてすぐさまに逃げたが、そのとき、一つの大きな過ちをしていることに気が付いた。大切な野球帽を落としていったのだ。それに洋一は一度家に帰ると、暴れまわる心臓を宥められずに、ランドセルを乱暴に床に叩きつけて、その悲しい事態に気が付いた。また言われる。そんな諦めを覚えて、手にしたロレックスの重みと冷たさに苛まれるようにして走り抜けた道を、今度は何時間もかけて、歩いて戻った。やはり店は昏く、覗き込んだ瞬間、頭に柔らかな羽が落ちた。

「坊やの帽子だろう?」

 そのとき彩はまだ女の姿をしていた。柔らかな声にからかいを含んでいて洋一は胸をどきどきさせた。

「どうして戻ってきた?」

「これ」

 差し出したロレックスに彩は微笑んで、受け取る、時計をまじまじと見た。

「盗るつもりじゃなかったんです」

 無造作に彩はロレックスを受け取って笑った。

「動いてないだろう」

「うん」

「電池を変えてないんだ。だから返しにきたのか」

 洋一は何を言えばいいのかわからなくて困っていると、彩はやはり笑っていた。代わりに肩を抱いて、おいで、と奥へと導いた。

「かき氷があるから食べよう。作りすぎたんだ」

 居間に通されると、暗がりの入口とは異なり、明るい太陽が燦々と入った部屋だったのに驚いた。そこで作りすぎたかき氷が差し出されて、洋一は無言で食べていたが、いたたまれなくなって彩を見つめて頭をさげた。

「母さんに、言わないでほしい」

 片親であることが、また問題にされることを洋一は恐れた。それでなくともいつも周りの大人は洋一と母をほっておいてくれない。ときには同情を、憐みを、侮蔑を、そんなものをいつも投げかけてくるのだ。

 洋一が学校でふるった暴力に、母は呼ばれて教師たちは片親だからと口にした。以来、洋一はその言葉を憎み、恐れた。

「私はお前の母親を知らないし、連絡するつもりはないよ。時計は戻ってきたからね」

 彩の言葉に洋一はほっとして顔をあげると自分が目の前にしている女がとても不思議な人だと思った。

 彩は自分もかき氷を食べて、舌をピンク色にしたあと、キセルを取り出してさもうまそうに吸った。その手の動きは無駄がなく、きれいだったことを覚えている。

「お前さんに似合うものはお前さんの元へとやってくるよ」

 わかるような、わからないようなことを口にする彩は洋一が知るなかで一番美しい人だった。

 そのあと洋一は邪魔かもしれないとおっかなびっくり彩の店に通い、ときどき彼女が仕事する様子を眺め、新しい品を仕入れたといっては見せびらかすにの付き合った。

中学生になって、はじめての夏休みに、彩の正体を知った。

その前から薄々、彩はまったく見た目が変わらないことに気が付いていた。その日はいつもよりもはやく終わった学校の帰り――終業式で昼までに終わったが母は仕事に出ていた。もう一人で寂しいとは思わないが、それでも洋一は彩に会いたくなって店に行くと、彩が包丁で刺されて倒れていた。そして、その前にたたずんでいた男は悲しげな顔をして、洋一を突き飛ばして逃げた。はやく警察を呼ばなくちゃいけないと洋一は焦ったが、彩は首を横にふり、それを制した。

「すぐになおるから、いいんだ。洋一」

 居間に運んで、着物を脱がせると、確かに彩の腹の傷は消えていた。そしてその目の前で彼女は彼になった。

「化け物だろう、洋一」

 彩の目が真っ直ぐに見つめる目に洋一は囚われた。

「怖いか?」

 洋一は首を横にふった。それに彩はそうか、と落ち着いた声で言い返した。

 あとになってそのとき彩を刺したのが、彩の子供だと知った。彩はそのときに自分が夫と子を捨てて失踪したことを洋一に教えてくれた。ただどうして何もかも突然と捨ててしまったのかまでは教えてくれなかった。そして、その夫とはまだ定期的に手紙のやりとりをしていて、いつでも戻ってきてもいいと言われていることも。

 何かが音をたてて崩れ落ちたのがわかった。

「けれど、あいつの元にはもう戻るつもりはないんだよ」

 彩は女性のときよりも男性のときのほうがキセルがよく似合っていた。

「さすがにずっと女で居続けるのは窮屈でな。しばらくは男でいたい」

 それが強がりで、彩なりの別れの方法なのだと洋一は思った。

茜色の、すべて、朱に染める夕暮れにちりん、ちりんと居間の奥で、風鈴が鳴いていた。


 メールのチェックと新しい品のアップをした洋一は背伸びした。彩はシンシンと冷え込む窓をしっかりと閉じて、ストーブをつけると、こたつに足を突っ込んだ。そしてビールをもってくると、とろとろと注いで、差し出してくれた。

「今日はなにがった。あんな不思議な言葉を聞いてきて」

「うん。子供が死んだ。その子が遺書で書いてた言葉なんだ。遺書かもわからないけども」

 洋一はビールを受け取って一口飲んだ。

「女の子で、まだ十五歳だった。麻薬で頭がらりって飛び降りたんだ。それも集団で……三人。二人は生き残って、一人が死んだ」

「お前はその死んだ子の担当だったのか」

「うん。すごい問題児でね……その子は即死で、その道連れにされた女の子二人は、骨が折れて重傷」

 語りながら洋一は笑いたいのか泣きたいのかよくわからなくなった。

「母子家庭の子だったんだ。三人は援助交際で知り合って、万引きやカツアゲなんかで再三繰り返して、家庭調査員もはいったりしたけど……援助交際がさ、ヤクザとかが裏にバックについてて、薬、飲まされて逃げられないようにされていたんだ。今回自殺したのはその組から麻薬持ち逃げした挙句、ビルの屋上で三人で全部飲んで落ちたんだ」

 どこまで語ろうか、どこで終えようかと洋一は考えながら結局は溜め込んだ情報を自分ひとりで背負うには辛くてつい吐き出していた。

 目に鮮やかに描くのは冷たい灰色の雲から覗く銀色の太陽に照れされながら、ビルから飛び降りた三人の少女。頭が、ぐちゃりと音をたてて、血を吐き出す、生き物の終わり。そしてひらり、ひらりと舞い散る一枚の紙。走り書きで書かれた――パラディース・アウス・エールデン。

 響きがよかったのか、たまたま知ってかっこよかったからなのか、少女はその言葉だけを遺書にした。

 洋一が見たのは、そんな終わりではない。冷たく暗い死体安置所に横たわった、少女だった。

 顔の確認といわれたとき、ああ、やっぱり、と思いながら、遺書の意味を問われたときただ首をひねるだけしかできなかった。

「……疲れただろう」

「少しね」

 ビールを飲むと、酔いが回ってきたのに洋一ははぁと息を吐いた。望んでついた職だが、ときどき自分の無力さに吐き気がすることはあるし、人生をやめたくなることはある。ぎりぎりでいつも踏みとどまりながらこんな人生に意味があるのかと大声で叫ぶには、歳をとった。だが、彩はかわらない。ずっと、何十年、下手したら何百年もこの姿のままで生きている。それは洋一を優しく綿で首を絞めるように苦しくさせた。雨によっていろんなものは流れていくのと同じだ。

「どうしたかったんだろうなぁとは思うよ」

 洋一も母子家庭だ。母は荷馬車のようにがむしゃらに、働いて、働いて……洋一が大学を卒業するとぽっくりと死んだ。今からようやく親孝行できると思った矢先だった。人というものはいつもあっさりと死んでゆくことを叩きつけられた。

「悲しいと人は物語を作って、それにのりかかる。けど、お前はそれをしなかった」

「そんなことはないけどね」

 悲しみに沈みたくなるとき、洋一は彩の元を訪れる。月に一度か二度のことだ。無性に会っていたいと思うのだ。そのたびに綿できりきりと締め付けられる痛みを覚える。

 彩だけがこの世界で変わっていない。

 大学にはいって、一人になったとき、哀しみを手っ取り早く癒す手段として合コンにやたらと出まくった。

 なぜか彩には会いたくなかったのだ。会ってはいけないと自分を戒めた。

合コンで、女の子に好きな人はいないかと言われて、彩を思い浮かんだ。どんな子といわれて、彩は男でも女でもないことを思い出すと曖昧に笑った。もう彩が女性であったときのことを洋一は思いだせないくらい男性の姿で接してくれていたからだ。それでも唇に触れたくて、手を握りしめたいと純粋に子供のように憧れを抱いていた。

「きれいな、男性かな」

 そのとたんに女性は一気に身体をひいたのに洋一は驚いた。

「気持ち悪い」

 その言葉はまるで杭だった。

 怯える目のあと、気持ち悪いとまた連呼して、近づかないで、の態度は極端で、子供ぽくて、それでいて真実だった。

 女は、その態度と言葉で洋一の大切な宝物を地面に叩きつけて、壊したのだ。踏みつけた。

 ただ彩を好きということはこういうことなのかと知って諦めのような気持ちを抱いたが彩を切り捨てることは洋一には出来なかった。

 大学に入学したときに、彩は、ロレックスをくれた。それは今でも洋一の左手にある。


「人が一人死ぬというのは事件なんだよ。大勢を悲しませる、事件なんだよ」

 彩は諦めたように笑った。なにもかもから切り離された彼女、あるいは彼は。

「けど、そうすることでしか人間は生きてはいけないこともある」

 一度だけ、彩が取り乱したのを洋一は見たことがある。仕事で疲れ果てて、くたくたになってこの店を開けたとき、しんっと静かでいやな予感がした。見ると、昏い部屋に彩が蹲っていた。洋一は慌てて駆け寄って彩を抱き起した。

「あの人が死んだ」

 枯れ果てた声で彩は叫び、洋一にしがみついて、むちゃくちゃに爪をたてた。こんなにも苛烈な悲しみを洋一ははじめて知った。それだけ彩は夫のことを愛していたのだと思うとき、かっと胸のなかで怒りが燃えた。無我夢中で抱きしめて、唇を奪ったとき、彩は泣き続けて、首を横にふった。

「もう俺は子供は産めないんだ、洋一」

「別に、そんなもので好きになったんじゃない」

 人から後ろ指を指されようが、なんだろうが、それがどうしたと思った。その一夜が過ぎても、洋一と彩の関係が急激に変わったわけではない。

ただゆるやかに時間は流れていき、季節は移ろう。そのなかで彩だけが変わらなかった。もしかしたら、季節はめぐりながらも永遠があり、彩はそこのなかにいるのかもしれない。

 自分たち生き物だけが外の世界に叩き出されているのではいなかと、そんな空想を弄んだが、意味はなかった。

 地上に楽園はない。

 永久はない。

 洋一はロレックスを撫でる。これは彩と出会ったときからまったく動いていない。八時五十七分。まるで秘密の暗号のように、それはありつづける。これととともに洋一は変わらない一夜を手に入れることを許されたのだ。

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