おいしいビール
「官能審査の前だよ」
山口に言われて、早苗は、はっとなった。
喉が渇いたので、紅茶パックを取り出し、お気に入りのピンク色にブタが描かれた愛嬌あるマグカップにお湯をいれたところだった。口はつけていないのでぎりぎりセーフ。
官能審査の前は、基本的に舌に刺激があるものはご法度だ。審査の一時間前はコーヒー類、飴類は口にしてはいけないという決まりになっている。当然、紅茶も、ご法度だ。早苗は、マグカップを持ってどうしようかと考えながら、コピーをとっている山口を少しばかり恨みのこもった目で見たあと、あとで飲めばいいやと自分の机の上にカップを置いておいた。
西崎早苗が、大手とはいえないが、十人に聞けば、五人は知っているビール会社に就職したのは、三年ほど前のことだ。女でも手に仕事と思い、自分になにができるだろうと考えて悪戦苦闘に様々な資格をとることに夢中になった大学生活。
学生でもなくなる就職活動も佳境のとき――好きなものはなんだろと考えて、一番はじめに思いついたのがビールだった。だから、あっさりとこの会社に決めた。無論、他のところも受けたが、合格通知は、ここしかこなかったのは運命だろう。
三年間は、本当にあっという間といってもいい。一年のときは、慣れることからはじめて、二年目は余裕が少し出てきた。三年目にして、ようやくといったかんじだ。
ビールの工場では、女性というのは珍しい。
会社では早苗は一人きりの女性社員であった。周りといえば、みんながみんな年配の男性ばかりだから、早苗のことを娘のように接して、可愛がってくれる人は多かった。
昼の前になると、官能審査がある。
文字だけ見ると、なんだか卑猥ぽいが、ビールのティスティングだ。
まず、チェックシートを配られ、小さなコップに少しだけ注がれたビールの味を見るのだ。シートにはビールの香味に特徴と喉越しのチェックだ。
すきっ腹が一番人の舌を敏感にさせるので審査は昼前となっている。
「ん、うまい」
「山口さん、それただの感想ですよ」
「ビールは美味しく飲まないと」
山口の言葉と笑顔は人を妙に納得させる。
山口は、今年で四十五だというのに、既に頭はほとんど禿げてしまい、腹は樽のように出ている。これだけみると、私の父とあまり変わらないなぁと早苗は思ってしまう。
「そうだ、今日、遠藤くん来るのかなぁ? 事前に来るとはいっていたけど」
山口が口にした遠藤という名前に早苗は、ちょっとだけビールの味を考えることを忘れてしまった。
「すいませーん、遅れました」
息なんて切らしてこなくても。
早苗は、ドアを勢いよく開けて入ってきたスーツ姿がなんだか妙に似合わない遠藤を見て、慌てて視線を逸らした。これはあからさまだったかなっと思いながらも、ビールを口の中で味わうことに意識をもっていく。
「お、きたきた」
「いらっしゃーい、ちゃんと用意してるよ」
「よかったぁ」
遠藤はまるで自分が検査の一人のように、置いてあるコップの一つに手を伸ばした。
人懐っこい犬のような笑顔で、気が付くと周りに溶け込んでいるのだ。
営業部の遠藤が、こちらに顔を出したのは、おおよそ一年前だ。新米だから、と営業の先輩に連れられてあいさつまわりのときに見かけたときは、なんだかぴかぴかの一年生、若葉マークをつけたような青年だった。
遠藤は、営業部だから、それほどに会わないだろうと思っていたが、彼はちょくちょく顔を出してきた。それも官能審査というものを知ってからは、それにあわせるようにしている気がする。
官能審査は毎日ある。その中で月に三回くらいはわざと検査を狙ってくるようにしているようだ。
小さな紙コップにはいったビールは口の中にいれて、転がし、そして喉で味わう。喉仏が上下するのを早苗は見つめた。
美味しそうに飲むな。
顔なんか、目をきゅっと閉じて眉まで寄せて、そして、ぱっと開く。花が咲いたとはいわないが、犬が大好きな骨をもらった顔、かもしれない。
「このあと仕事は? 飲酒運転するなよ」
「わかってますよ。先輩が運転してくれますから」
冗談に対してにこにこと笑う遠藤を見るのが、早苗のちょっとした楽しみだ。
別に意識しているってわけでもないのになぁ。
けれど、それって私自身の考えだけかも。――とりあえず仕事へと頭を切り替えた。
前の彼氏と別れたのは、どういう理由だったけ。早苗はちょっと考える。前の彼氏は、サラリーマンで、友人が主催した合コンで知り合った。平凡という文字を形にしたような、素朴な雰囲気が素敵だった。
別れて欲しいといわれたとき、彼には恋人がいた。二股をされたのかとショックだった。
半年して、その彼氏は彼女と結婚した。そのさらに半年して、彼は早苗を食事に誘ってきた。素朴な雰囲気がなくなっていた彼は、早苗の知らない男性になっていた。本当に驚いて、会話をするとき、妙にそわそわとした。くすぐったいような、妙な距離感だった。
別れたのは、君は強い女性だったからだよ。
彼は、そういって笑ったのを早苗は覚えている。別に孤独を愛する女というわけでも、一匹狼というわけでもないのに。
そのとき、自分と彼は違うのかもしれないと早苗は思った。
彼とは、それから食事をたまにする。そのとき、貰ったネックレスはルビーの石がさりげなく飾られているところが、早苗は気に入った。
赤と黒、それは女をこれ以上なくよくみせてくれると思うよ。ただ君には赤のほうが似合ってる。
そんな褒め言葉に気をよくするなんて。私は馬鹿かもしれない。
ただ、そのネックレスを彼以外ではじめて褒めてくれたのは、遠藤だった。
似合いますね。彼の言葉に、なぜか胸にナイフを突き立てられたような衝撃を覚えて、言葉に迷った。だから、もうネックレスは封じて、彼と会うこともやめた。
不毛なことはしない。
それが早苗の美学だった。
昼になると、早苗はいつも近くのスーパーに一人でいくことに決めているが、遠藤がいる日は少しだけ違う。
「飯、食いましょう」
遠藤がいるのだ。
彼は、いつも早苗を昼に誘う。誘うといってもそんな豪華なものではない。むしろ、こいつは私を馬鹿にしているのかというような、それでも彼が可愛く見えてしまうところ。――つまりは、いつのものスーパーでの食事だ。
大手のスーパーは最近内装を改装して、店内の隅っこにはテーブルと椅子が置かれた休憩空間、ポットとゴミ箱が常時されている。昼間になると、スーパーで買って、そこで食べるというのがこの周辺にある会社勤めをしている人々のスタイルの一つになっている。
「今日はなににしようか」
「俺は、白飯とおかずを適当に買います。いろいろと楽しめますから」
「私、お弁当にする」
それぞれの昼ごはんを決めて、熱々の味噌汁をカップにつめてフタをして二人でレジに並ぶ。こういうとき、遠藤はいつも自分の財布を出して支払いをしてしまう。
テーブル選びで混雑する中、ようやく二人の座れる席を確保すると、早苗はすかさず手を出す。
「なに」
おかずを出しにかかる遠藤は困惑した顔をした。
「レシート、私の分払うわよ」
「はーい」
こういうところで妙にかっこつけないところが嫌いではない。
遠藤との付き合いは不思議だ。恋愛とかは考えないが、いつも昼は食べる。はじめて誘ってきたときは、少しだけもじもじとしていたが、それでも顔は朗らかに笑っていた。
それからまるで当然のことのように「昼飯食べませんか」と誘われる。そのたびに胸にどきんと切ないものが一瞬だけ走る。それが近所のスーパーだったと知ったときは、はじめこそ腹が立ったが、今ではそれが逆に安心する。気取らないこの距離感がいいのだ。
一応多少とはいえビールは飲んだのだし、酔いを醒ましておく必要もあるのだから、彼にとっては、早苗と過ごす昼は、暇つぶしなのかもしれない。
「あ、これ、美味しい」
エビフライを頬張りながら遠藤は声をあげた。
彼の良いところは、美味しそうに食べることができることだ。奥さんになる人は、きっと料理が好きになるだろうなと早苗は思うのだ。
「たまに食べるからでしょ? 毎日食べると飽きるわよ」
「そうかな。けど、本当にすごいな。あの審査、俺は味の違いがやっぱりわからないです」
「ビールなんて九十以上は水なのよ。水によって違うわ。他の会社のビールとかぜんぜん違うもの」
「なんかビール博士みたいだなぁ」
遠藤が面白そうに笑いながら味噌汁をすすった。早苗も味噌汁にごはんと交互に口にいれて食べていく。
「けど、いいな、きっと、そういう舌の肥えた、かなぁ……またはセンスが、きっと生かされるんですよね」
「あれは経験だと思うよ」
「じゃあ、俺も? 毎日ビール飲んでるけど、どれもうまい、なんですよねぇ」
「それじゃ、だめね」
早苗はわざと突き放すようにいうと、やっぱりな、と少しだけ声のトーンを落として遠藤は呟く。
「俺はビールが好きだけど、そういう技術ないから。きっと、西崎さんにはあるんだなって思います」
「そう、かな」
曖昧に笑って味噌汁を飲み干す。から揚げ弁当はほぼ食べ終えて、あとはつけものがのこっているだけだった。
「嫌いでしてるわけじゃいなんでしょう?」
「うん」
それは、素直に頷くことができた。
「私、ビールが好きよ。ビールを美味しそうに飲む人ってすごく好き」
これでは、なんだか告白みたいだと早苗は言ったあとに後悔した。
遠藤は、早苗の知る中で、一番ビールを美味しそうに飲む人だ。彼のことを嫌いではないし、むしろ好意を抱いている。だが、それって友情に近い気がしてならない。今の関係が好きだ。だから、あえて、その関係を壊してしまうことはないじゃないか。
それって、臆病なことだろうか。ううん、普通だと思う。一歩踏み出すのに、ためらいが生じたって仕方ないじゃないか。別に今まで男性との経験がないわけではないが、それでも遠藤とは一年も、こんな風な友情が続いた。だから、壊したくないというほうが強い。
「それは俺も。そういえばさ、前に緑色のビールがあったんですよ」
遠藤は、ビールの話題にはめっぽう強い。どこでそんな雑学を手に入れてくるのかと呆れるほどだ。
話し上手で、聞き上手。誰からも好かれる美徳だ。
遠藤が話すのに早苗も負けじとしゃべる。もうすぐ自分が企画しているビールがもしかしたら通るかもしれないと話をすると、遠藤はがんばってくださいといった。
「コップに注ぐときのコツがあるのよ」
「はい。テレビで聞いたことあります、それ」
興味津々に見つめられると、こちらの舌も滑らかになる。
「そう、美味しいビールを、とっても美味しくいれると、それは素敵なのよ。飲むときの時間帯だって考慮してね」
「一番美味しいのは、すきっ腹ですね」
少しだけ得意げな遠藤に早苗は笑って大きく頷いた。
「そうそう。あとはグラスをちょっと冷やしたりしてね。泡を少し残すような」
話しながら早苗は壁にかかっている時計を見た。もう四十分になっている。
「あ、そろそろ昼休み終わっちゃうよ」
「本当だ。ん、ごみ、捨ててきますね」
遠藤は食べ終わったごみをスーパーの袋につめはじめた。
「そういえば、西崎さん」
「なに」
「美味しそうにビールを飲む人が好きだっていっていたけど、俺は、美味しくビールをコップに注げる人が好きだな。俺が飲むの好きだから……いつか、美味しいビールを俺のためにいれてくださいね?」
ごみを持って立ち上がった遠藤の背中を見つめながら、自分の頬がすごく熱いことを早苗は自覚した。
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