さぁ、アリス、家に帰ろう
――私のアリス、私を決して裏切らないでおくれ
■
庭師の少年にとって、それは特別な仕事だった。なんといっても自分一人だけでするはじめての仕事なのだから。
少年にとって仕事とは父について、道具運びすることだった。
鋏一つ、樹の枝一本に触れることも許されない――庭師の父に弟子入りしてから一年はそんな生活が続いた。
そうしてきっかり一年過ぎてから、一本、二本の樹の剪定を任せられるようになって半年、年取って腰を痛めた父から全てを継いでようやく一人前となったのだ。
屋敷に行くのに父は二つの忠告をした。
――決して粗相のないように。
――決して屋敷の者と関わろうとするな。
一つ目は理解できたが、二つ目についてはどうしてだろうかと疑問に思ったが、それは相手がお貴族さまだからだろうと自分一人で納得した。
その屋敷は、村の一番高い丘に存在して、世界を見下ろしていた。城と言っても過言ではないほどに大きく、立派なものだが、どのようなお方が住んでいるのか少年は知らなかった。
噂では少年が小さな頃に、ご領主さまという偉いお方がひっこされて静かに余生を過ごされているとのことだ。
年に一回だけ、夏がくる短い一カ月間に庭の手入れをするのが父の仕事だった。しかし、弟子入りしたはじめての夏、父親は少年をその仕事にだけはつれてはいかなかった。
それなのにはじめてする仕事はこれだと父は少年に言った。驚きはしたが、それでもはじめての仕事に対する高揚と期待は小さな疑問も不安も、パンくずのように気にならないものになってしまった。
晴れた青空が美しい日だった。絶好の仕事日和――少年は朝早く起きると母に作ってもらった弁当を携えて一時間もかけてなだらかな坂を歩いて屋敷の門をくぐった。
庭へと目を向けると、大理石の噴水までついているのに、哀しいほどに植物たちは荒んでみすぼらしかった。
なんてもったいない。
庭の様子に少年は嘆きとともに、人がいないことを訝しく思ったが、それらの気持ちを石でも飲みこむようにして心の中にしまいこみ、大きな屋敷の扉を叩いた。すると、白い髪の毛の、いかつい、ぎょろ目の男が出迎えた。
「お前は?」
「庭の手入れを、庭師の息子です」
「そうか、では仕事を」
言われて少年は頷いた。こんなやつとは、長くかかわるべきはできない。父が言っていた言葉がわかった。
すぐに庭にいき、まずは、雑草を抜いて行く。それで昼が潰れた。そのあとようやく無造作に伸び放題の樹の枝を切り落として行くことからはじめた。
樹は、生き物だ。だから、好きなように枝を伸ばして最後は重さに耐えきれずに折れてしまう。
一度人の手で整えた樹は己で己をコントロールする術を忘れてしまって、土の養分をとりすぎて、ぶくぶくに肥えて、最期には枯れてしまう。
この広い庭は少年一人では二カ月かかっても可笑しくないと諦めに似た気持ちを抱き、定期的に休みをとりながら少年はため息をついた。
目の前の大変な仕事に眩暈を覚えながら、不意に呼ばれたような気がして少年は、顔をあげた。
屋敷の庭に面した一部屋――窓に何かが映った。
かかわるな。かかわるな。かかわるな。
頭の中で、ちくちくと音がするのに、少年は、思わず、そこへと近づいてしまっていた。
ねぇ、アリス。私のアリス。
手を伸ばした。頬に触れると、冷たくひんやりとしている。ああ、なんて気持ちのいい娘なのだろう。アリス、私のアリス。黒い髪に、蒼い瞳がじっと見つめている。
微動だにしない瞳は、どこまでも気高く、観ているだけで眩暈を覚える。アリス、私のアリス。
手を伸ばして、足をとり、口付けをおとす。
アリス。私のアリス、決して私をうらぎらないでおくれ。
少年は、その日、食事が出来なかった。母は心配したが、父は何もいいはしなかった。もしかしたら、父はアレを知っているのだろうか。知っていてわざと自分にこの仕事を任せたのだろうか。
さまざまな疑問を思い浮かべながら、少年は父が何を考えているのかまるでわからなかった。寡黙な父が言葉でものを教えてくれることはありえないことを少年は知っていた。何事も自分で学べというのが方針なのだ。それに、あれについてなんと問えばいいのか、疑問を口にするための適切な言葉を少年の語彙の乏しい脳には存在していなかった。
すぐにわらのベッドにはいって、少年は目を閉じた。
あの屋敷で見てしまった光景を忘れることができなかった。
あれは、少年の目に強烈すぎた。黒い髪に、蒼い瞳の少女といっても過言ではない、彼女。
名前だって知ることはない、ただそれは見事な美しい女性。
考えるだけで頭の中でちかちかとする、激しい感情が少年を支配した。
それを人は、なんというのだろうか。
病というのかもしれぬ。――そう、黒い髪に、蒼い瞳の少女にたいして少年は恋という病にかかったのだ。
次の日も、少年は庭の手入れに訪れた。執事はやはり陰気で、うんざりとするような顔をしていたが、少年は気にも留めなかった、ただ淡々と庭の手入れをした。
仕事をしながら、少年は待っていた。
また、昨日と同じ時刻にあの窓を覗けば、あの少女に会えるだろうか。なんとなくやましさを感じて少年は、自分の中ある期待や不安をとりはらうように顔を横にふり、鋏を動かした。
「かわいそう」
不意にかけたられ声に少年は顔をあげた。
屋敷の窓から、あの黒髪の、蒼い瞳の少女が顔を出していたのだ。
驚きに心臓が止まるかと少年は思った。
「樹が、可哀想」
かけられた言葉に少年は怪訝な顔をした。
「切られて、いたそう」
「そ、そんなことないよ」
少年は慌てて言い返した。
「こうしてやらないと、伸びすぎて、最終的には自分を支えきれずに折れちゃうんだ」
「そうなの?」
少女は少年の言葉に驚いたようだった。
少女の頭の中では少年のやっている選定はただ闇雲に樹の枝を切る行為に映ったようで、その誤解を解こうと少年は一生懸命に、持てる言葉の限りを尽くして説明をした。
「そうだよ。今のうちに手入れしないと、もっとひどいことになるんだ」
「じゃあ、あなたは、樹を守ってあげているのね」
「そ、そうだよ」
少年は意気込んで頷いたのに、少女が、ほっと、笑った。
少年は、ますますどきどきした。
可愛らしい微笑みは、陳腐な言い方をすれば、花が咲いた、といってもいい。大輪ではなく、小さな道端の花の蕾が綻んだような、控えめな可憐さだった。
「ありがとう」
「えっ」
「うちの庭は、大変でしょう」
「う、ううん」
少女に会えるのだから、苦労なんて感じる暇なんてない。
「がんばってね」
少女はそういうと、背を向けてしまったのに少年は下唇を噛み締めた。口のいっぱいに汗のしょっぱさを感じた。
もっと、言いたいことがあったはずだ。だのに、どうして、自分は口下手で、なにもいえないのだろうか。また、明日、会えるだろうか。会いたい、いや、会うんだ。それで、今日、いえなかったことを話すんだ。
少年は、決意をして、庭の手入れをした。
アリス、機嫌がいいな。アリス。ああ、お前が、そうして嬉しそうな顔を見せてくれるだけで、私の心は、どれほどに安らぐだろうか。ああ、アリス。アリス。お前は、私のアリス。さぁ、私に足をおみせ。お前の美しく華奢な足にキスをさせておくれ。アリス。私の愛、私の命。アリス、ああ、アリス。
――はい、お父様
少女は靴を脱いだ。
少年は、その日も、庭の手入れに訪れた。
いつものように執事が出てきて、珍しく口を開いた。どれほどでできるか、とその問いに少年は背筋を伸ばして、二日くらいでしょうかと、応えた。執事は頷いただけで、少年の働きに納得しているのか、いないのかまではその顔と平坦な声からは読みとれなかった。労いの言葉もなく、執事はただ仕事をするように、と告げた。脳裏に少女のことを考えながら少年もそれをおくびにも出さずに、はい、とだけ再びそっけなく答えた。
庭は、うなるように暑い。
夏らしい暑さを感じながら、汗を流して少年は、せっせっと働いた。今日も、また少女は会えるだろうか。少年は、期待していた。少女と話せることを。
「ああ、お父様、やめて」
少年は声に気が付くと駆け出していた。
この屋敷にいる、少女の父――父? あの少女の父親はだれか――アカギレ一つない白く美しい手が彼女の身分を明白に教えていたではないか。
少年は、すぐに廊下に面した窓を覗き込んだ。
少女がいた。
彼女が叫びながら、助けを求めている。
少女の美しい手をあの陰気な執事が握り、そのままひきずっていくのに、少年は慌てて頭をさげて隠れた。
あ、あああ。
少年は、息を吐いた。
少女が泣きながら、ひきずられていく。それを少年は、外から追った。陰気な執事の手よって、彼女が部屋に入れられている。助けて、助けて、いや、いやぁ、悲鳴が聞こえてくるのに少年は震えながら、見ていた。執事は少しの優しさもなく扉を閉めて鍵をしっかりとかけてしまう様子を。
あ、ああああ。
非道さに少年は息を吐いた。
暑い。
眩暈がする。
ずるずると少年は崩れた。
あ、あああああ。
自分は、なんて無力なのだろうか。
息を殺し、汗で顔が濡れていくのを少年は感じた。
「すべては、旦那様の意のままに」
執事の声に少年は心臓が音をたてるのを感じた。
あ、あああ。
息を吐いて、拳を握り締めた。――一体、この恐ろしい光景はなんなのか。それは少年の理解の範疇をはるかに越えてしまっていた。しかし、唯一少女が危険だということだけはわかっていた。そして自分は彼女を助けられる味方なのだということも。
助けなくては。彼女を。
耳に響くのはドアを叩く音と悲鳴。
少年は決意した。
それは愚かで、陳腐で、小さなものかもしれない。けれど、少年にとっては人生を左右するほどに尊い、まるで神に反逆するような決意だった。
それだけの意を持ったのは、彼が恋をしたからだ。恋とは恐ろしくも、また愚かしくも、力を持っていた。
少年は、窓を開けて飛び込んだ。
驚いて執事がふりかえった隙をついて、鋏を真っ直ぐに突き刺していた。
執事が、ひっとしゃがれた声をあげる。
ぽたり、と血が床に滴り落ちた。
「お前、なにを」
「彼女を自由にするんだ」
「なにをいって、アリスは」
アリス、ああ、これが彼女の名前なのか。
少年は、執事に体当たりをして、鋏を抜いた。
執事が廊下に倒れるのを見ながら恐ろしくなった。なんといっても血がついている鋏を自分が持っているのだ。そして鋏から刺した感触がじわじわと手に広がるのは気持ちのいいものではなかった。はやく、にげなくては。ここから、ここからあの少女を逃がすのだ。
急いで、執事のポケットから鍵を取り出して、部屋を開けた。
「アリス」
「……あっ」
アリスは、彼を見た。
彼は、アリスを見た。
「逃げよう、ここから」
「あなたは?」
「逃げよう、はやく」
少年の手にアリスが、迷ったように目を泳がせたあと、恐る恐る手を伸ばしてきた。じれったい反逆の意思を少年は多少乱暴に握りしめて急いで駆け出した。
廊下に出ると少女がすぐに足をとめた。
「ま、て」
「待てるはずないじゃないか。君、このままじゃ」
「だって、お父様が」
「逃げよう、大丈夫だ。俺が、君を守るよ」
アリスの目は、どこか遠くを見るように、少年を見た。
「お父様が、来てしまうわ。きっと」
「来るって」
「いつも、あの部屋で、お父様が」
「あの部屋?」
「あなたと、はじめてあった部屋よ。あそこで、おとうさまが」
少年は怪訝とした顔をした。
「そんな人、いなかったよ」
少女は目を開く。
「君、一人だった。ただ君に似た人形があっただけで」
少年の言葉にアリスは眉を顰めた。
「さぁ、はやく、ここから逃げよう。アリス。今のうちなら、きっと大丈夫だから」
――どこへ、逃げるんだ、アリス。私のアリス
アリス、アリス、私の可愛い、アリス。――お父様、お願い、やめて。――いいや、悲鳴などあげたことなんてない。お父様、私のお父様。私の足を持ち上げて、キスをして。そう、私のことを愛してくださった。お父様。
アリス、あのあばずれの女。私を裏切った女。ああ、お前は、そんなことはしないね。
ええ、しないわ。お父様。
ねぇ、お父様、お父様。どうして、お母様の、絵をみていらっしゃるの。どうして?
アリス、私は、愛しているんだよ。彼女を
お父様、お父様、私だけだといったのに、いったのに、いったにぃいいい!
ああ、だから
ナイフを持って、その絵を――引き裂いてやった!
アリスは、少年の手を払うと、踵返して歩き出した。
いつものあの部屋へと辿りついて、そっとドアを開ける。
――おとうさま?
引き裂かれた絵に椅子――その上にある、小さな人形。
いつも、そこに座るのは私の役目だった。いつも足に愛撫をしてもらっていた。お父様。お父様。
ふと、椅子の前に何かが見えた。少女――アリスにしか見えない、ものが。
ぶらんと、それがつりさがっていた。
首。
汚い。それは、なんて汚いものなのだろう。
それは、私の大好きなおとうさまなわけがない。
そんな汚いものは、首をちょんぎっておしまい! ――まるで、一国のクィーンのようにアリスは叫んでいた。そうだ。私は、アリス。ここでは、小さな、愛されるアリス。けれど、同時に、クィーン。
「アリス?」
アリスは、高々に笑った。
「私は、ずっと、ここにいるわ。だって、私がクィーンですもの。お前みたいなやつは、首をちょんぎっておしまい!」
それは、優雅で、美しい笑みだった。
まるで毒――全身をかけめぐる、猛毒。
少年は、庭の手入れをする。
自分の役目は、庭をきれいにすることなのだから。
幸いにも、執事は助かった。太ももを刺したのだから、死ぬはずはない。
執事は少年を訴えることはなかったし、問題にもしなかった。ただ憐れみに満ちた目で見つめると、静かに、ただ庭をきれいにしろと言った。
真っ赤な薔薇だけしかない庭には白いテーブルが出され、お茶とクッキーとともにアリスがやってくる。
そして、またあの部屋にいくのだろう。
あそこで、アリスは、アリスであり、女王様なのだから。
そして、少年は仕事を終えて去って行く。また、この庭がすさむ頃、ここにくるのだろう。
その日を少年はただ待つ――心の中でくすぶりつづけるのは、はじめて彼女をその瞳に捕らえたときの激しい衝撃を抱いて。また次の夏、
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