ジギルとハイド
――双方ちがって、それでよい
私の愛すべき善良なる友人が死の瀬戸際に、か細い、それは途切れそうな最後の力を振り絞って残した言葉は、あまりにもいびつで、あっけなく、杜撰で、大衆にとってはまったくもって意味のわからぬことであったことか。
そう、善良なる友人の最後の言葉を理解できたのは、この世で私だけだろう。
善良なる友人が、なぜこのような言葉を残したのかは、私だけが知っていることだ。
ある善良なる友人のことを仮にジギルと言おう。彼はこの世で一番の紳士といっても過言ではない。
泣く子供がいれば、必ず彼は手を差し伸べる。それも身分という差を抜きにして。困っている人がいればほっておけない。ああなんて絵にかいたような紳士であろうか!
その上、その美貌はまさに芸術といえるほどに整えられ、天に住まう神により作られたものであった。
ジギルは常に大勢の人間に取り囲まれていた。とくにご婦人方の熱いまなざしで見つめられていた。
そんな彼の傍には恋という大人の遊戯盤が並び、彼にチェック・メイトされることを今か、今かと待っている。
彼は実に器用に、そしてたくみに駒を動かして勝利し続けた。
彼は、たった一つの悪癖を除けば、完璧だった。
ジギルは、パーティのあとは、毎日、決まってコートも脱がずに書斎に閉じこもった。
というのも、彼はなんとしても自分の悪癖を必死で隠さねばならなかったのだ。そして 彼の忌むべき悪癖は、コートのポケットを探ればあっさりと顔をだしてしまう。
今宵は白いイヤリングにハンカチと小さな花。
彼の忌むべき悪癖とは、盗み癖だ。
それも彼は自分がしてしまったという自覚もなくやってしまう困った手癖の悪さであった。そうして毎夜のパーティの勝利品を彼は見るのもいやだとばかりにさっさとゴミ箱に惜しげもなく捨ててしまう。
ジギルは善良な人であったが、それは小心からくるものでもあった。傷つい小鳥のように、ジギルは己が悪を犯すとびくつき、未だに鞭で打たれるのではないかという恐怖観念を抱いていた。
ジギルの祖父は冷酷な人であり、何よりも孫を立派な跡継ぎにすることを考える人であった。
幼いときに両親に死なれ、祖父に引き取られて育ったジギルにとっては、祖父という人はそれこそまさに世界が暗闇の夜ばかりになったのを包み込み、支配した絶対の王だったのだ。
祖父は愛情深い人であったが、それを示す術は子を立派な紳士に育て上げることだと信じて疑わぬ人であったので、抱擁も接吻もないかわりに鞭を持ち、孫に学問と社交性といった生きるうえで必要なものを叩き込んだのだ。
そしてジギルが全寮制のスクールを卒業し、立派な紳士となったのを見届けて祖父は死んだ。まさに自分の役目をきっちりとやり終えての死だった。
天国にいる祖父がジギルの悪癖を知れば、さぞや嘆き悲しみ鞭を片手にいうだろう――さぁ手をだせ。
ただジギルが恐れる人はもう既に死んでいた。そして、彼は警察を恐れてはいなかった。不運と幸運はまるで一枚のコインの裏表のようにいつも一緒に存在する。ジギルは誰からも愛されていて、貴族の地位ももっているのだ。たかだか小さな盗みぐらいで、醜聞を作るのなんてどだい無理な話だ。そして、彼を愛している周りも、そんなことは決して許さない。
ジギルは善良な愛すべき人間だ。だが、それは彼の地位と、その周囲の人によって作られたものでもあった。
ジギルはゴミ箱を一度たりとも見ようとはしなかった。
そうして愛すべき善良な、そして小心な人間になるのだ。
ジギルが驚いたのは、翌日のパーティのあとであった。
いつものように自分の書斎に行くとテーブルの上に昨日の盗んだものがちゃんと置かれていた。昨日、ゴミ箱に捨てたはずだというのにっ!
ジギルは混乱し、恐怖に戦慄いた。
誰が、ここに入り、ゴミをテーブルの上に誰が並べたのか。
屋敷に抱え込んでいるメイドには執事から決してこの部屋にははいるなといってある。また祖父の代から仕えている有能な執事は自分の仕事だけをきっちりとこなす反面、必要以上に深くはかかわらないという利口さも備えていた。
そもそもゴミ箱のものをわざわざ出して、――それも、昨日の勝利品だけを取り出して!――テーブルに置くなど誰が出来るというのだ。
ジギルは困惑と混乱の淵に立たされ、目眩を引き起こした。そのまま気絶してもよかったのだが、彼にはそうすることができなかった。
「今夜は、なにをとってきたんだい。善良なる私の友人」
「誰だ」
ジギルは驚きと混乱に震えながら叫んだ。だが、誰の姿も暗闇の中には見えない。――否、私の姿を見たはずだ。その証拠に善良なるジギルの顔がさっと強張り、歪んだ。その恐怖に彩られた顔は、まるで黒い花のようであった。
「ああ、名乗り忘れていたな。私の名は、ハイドだよ、善良なる友人」
「ハイド? ハイド(隠れた者)だと、馬鹿にしているのか!」
「ああ、善良なるジギル、そんなに怯えないで、そして恐れることはない。私は君に何かを要求しようというものではないのだから」
からからと私は笑った。彼の恐怖に満ちた顔はなんとも滑稽で、麗しいものか。その顔を見れば、もっと焦らして遊んでやろうかと思ったが、私はそれほどに悪ではない。
善良なる彼は震えながら私を見た。まるで幽霊を見たかのようではないか。彼は悲鳴をあげようとしてあげそこね、かわりにひっと声をしゃくりあげた。ああ、善良なる友人の本当に憐れで鈍感さは激しい愛情すら覚えてしまうほどで、その情けない顔といったら!
「私は君のその顔がみたかっただけにすぎないよ」
私は笑いながら自分の目的を告げ、善良なる友人のもとを去った。だが、私はこっそりと彼を観察していた。私が去ったのちに彼は狂おしいまでの恐怖にとりつかれて、床にうずくまり、ぜぇぜぇと息を切らして、口からは透明な唾液をたらし、額から大粒の汗が浮かんで零れ落ちていく。ああ、憐れな善良なる友人はまるで池からあげられた魚そのものだ。彼はそうして少しの間苦しんで、なんとか立ち上がるとヒステリックに叫ぶでなし、暴れるでもなく一杯の気付けのブランディを煽った。そして、それを半分も飲まずにグラスは壁にたたきつけた。憐れな善良で、そして小心な友人は眠りにつく。だが、彼は安眠を貪ることなどできないことを私は良く知っている。善良なる友人を見て、私はからからと笑いながら眠りにつくのだ。
翌日、善良なる友人は悲鳴をあげただろう。昨日のことは全て夢だったと朝方の浅い眠りを貪って結論づけたところだったのだから――もちろん、それは狙ってのことだ。私は優しくはなく、容赦もない。彼の心の小さな望みをこなごなに音をたてて打ち砕くためにも彼の書斎のテーブルに彼の昨日の勝利品をおいておくことは忘れなかった。
ジギルは思うのだろう。何故こんなことになったのか。そうだ、こうなることはうすうすであるが、わかっていたのだ。わかっていながら己はずっと盗みをし続けた。
スリリングな、いつ落ちてしまうともわからない自滅の綱渡りをずっとやりつづけてきたのは、いずれはなんの例外なく己がその綱から落ちてしまうこともわかっていた。彼はそれでもまだ救いがあると考えていた。だが、いくら希望論をふりかざそうとも現実は冷たい冬の強風のごとく頬をぶってきた。そして現実に無理やりひきずりだされ、帰還したジギルは呆然と立ち尽くし、そして私のことを恐れ、日々を過ごすのだろう。毎日、毎晩と書斎のテーブルに、その日、その日の勝利品が置かれるのだ。
彼は、恐怖に追い詰められていく。叫び、泣きながら懇願したくなるだろうが、彼の立場はそれを許してはくれない。親しい友にでもこのことを打ち明けられたら、いいのだろうか。ああ、可愛そうな善良なる友人には、友などいなかった。彼は自分の上辺を自分の手で壊すことがいやだったのだ。善良なる友人、彼はこの世で最も孤独でありながら、一番愛されている人間なのだ。
彼の苦しみと孤独においやられる様を私は時折、妄想し、そして楽しくてたまらずに笑ってしまった。
私はジギルの苦しみを知っている。そして孤独も良く知っている。彼は私が何者か知らないふりをしているが、本当はよくしっているはずなのだ。
「なにを笑っているんだい?」
ふかふかのベッドの傍にいた黒髪の女のうなじを撫でる手は、いつもいびつで淫猥だ。そう、ベッドに男と女がいれば一つしか使用方法はないじゃないか。
「なにも」
「なにもないことはないだろう」
しつこさは男であろうと女であろうとも嫌われてしまう原因となることを承知の上での野暮な態度を貫いた。
「ではね、一つ面白い問いをしようか。そうだ。この世で最も嫌いな人がいたら、どのように殺すことが一番残酷だろうかってことだ」
「それはとっても簡単」
「なんだと思う?」
「その人間のしてほしくないことをいっぱいするんだ。そしてその人間を自殺に追い込む」
私は笑った。
彼の孤独と苦しみがいかようなものなのか。私は時折考えるのだ。それは、きっと死にたくなるようなものだろう。
私は彼を殺したいほどに憎んでいるのだ。
そして、手が私に伸びる。――
私が悠々堕落的な日々を過ごしながら彼の苦悩と苦痛、そして孤独にさいなまれる姿をあざ笑いつづけていたのは、私のなかにある悪の心がなせる業だろう。少しでも善意があれば、それこそこんなことをすることはしないし、またこんなことをしている己の行動を恥じ、狂っているに決まっている。
彼は一人だけで自分の苦痛を抱え込み、それに耐えられぬために酒を飲みつづけ、昼間でも酔っ払い、光を恐れてカーテンを閉め切った部屋で一人、過ごすようになっていた。誰もが彼の変貌ぶりに驚き、いろいろと見舞いをしたが誰一人の顔を見ようとしなかった。それは、誰もが彼にとっては信用できないからだ。かわいそうで、愛しくて、そして愚かしいジギル。だが、どれほどに用心を重ねようとも、私は彼の元に訪れることができる。
たとえば彼がベッドの上でガタガタと震えているのときも、私は彼の元へと訪れることができるのだ。
「どんなことをしてもお前は逃げることなどできないのだよ」
「もう許してくれ。もうやめてくれ」
彼の悲鳴を聞いて私は笑いながら提案するのだ。
「その恐怖から逃れる術を君は知っているじゃないか」
「それはなんだい」
彼は顔をあげて私を見た。
「ナイフでその喉をかききるんだよ。私の善良なる友人」
私の提案に彼は笑った。笑いながらナイフを手に取った。その手は震えていた。
「君にはそんなことはできないよ」
「できるさ」
「ああ、ジギル、やめたまえ。君は恐ろしいのさ。何もかも。恐ろしくてたまらないのだから、しなくていいよ。君は昔からそうだったじゃないか」
「昔から?」
私は笑って頷いた。
――おじいさま、それは僕のせいではありません
少年は泣きながらこの世で一番恐れている祖父を見ていった。それは自分がしたのではない。花瓶が壊れたのは自分のせいではない。
祖父は意地悪くも鞭を片手にもって少年を見下ろして口を開いた。
では、誰がしたのだ
少年は考えて、考えて、そして答えを導き出した。
――それは、
ジギルは悲鳴のような声を喉からあげて私を凝視していた。彼は震えていた。どうして、震えることがあるのか、今更、思い出したのか。ジギルに私は笑いかけ、そして首を傾けてみせた。
「君は私なのか。私が過去にいつも悪いことをしたときに、いつも呼んでいた名前……」
厳しい鞭を持つ祖父にジギルは怒られたくなかった。だからいつも悪いことが起こった時、誰がしたのだと尋ねられて、あげていた名前。――ハイド
「どちらだろうね。ジギル、君は妄想にとりつかれているのか、はたまた私というものがいるのか。君が狂ってしまっているのか、すべてが狂っているのか」
「そんな御託はいい。お前は私なんだ。私が生み出した心の深い底にある歪みなんだ。お前は私を破滅させたいのか。そうなのか」
「ひどいことをいう。では、君の行った悪事はすべて私だといいたいのかい? ジギル、愛すべき善良なる友人よ。君は己のしたことから常に目を背けるのかい」
「なにをいっている」
「君は私の首を絞めたじゃないか」
私は笑いながらベールをとって、素顔を出した。
ジギルは目を見張った。
――伸びてきた手は私のほっそりとした首を締め付ける。苦しみが押し寄せ、気管を圧迫した。口から漏れだす唾液。手が苦しみから逃れようと動くが、首を締め付ける力から逃れることはかなわない。苦しい。いやだ。死にたくないという声は届かない。
ハイドが私を殺した。
「君は」
私の艶やかなブロンドを見て彼は何か呟いた。
「■■■」
それは私の名前だったものだが、私の今の名はハイドだ。
「君はいったじゃないか。憎むべき人がいたら、一番残酷な死を与えろと……私にまたがり、私を犯して殺したあなたは、たしかにあなただったはずだ」
「そんなの知らない、そんなこと……ハイドがしたんだ。私ではない」
「あなたがしたんだ。私は覚えている」
「違う、ハイドだ。ハイドがっ」
彼はいびつに笑った。それは善良なる彼らしくない笑い方だった。
「ハイド」
私は囁いたとき、彼は、ハイドは片手にもったナイフを躊躇うこともなく自分の喉につきたてた。私はその様子をじっと見ていた。そして、彼が息絶えるのをじっと見つめていた。
「……双方違って、それでよい」
私は言葉を漏らして部屋を出た。
私は、私のこの言葉を誰かに理解してほしくて、再び死ぬ間際にささやくだろう。そして私の善良なる友人は、私の言葉を心から理解して深く頷いてくれるだろう。
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