硝子の疵

「あなたは一度たりとも考えなかったの? 俺が、あなたを心から愛してしまう可能性を、この一カ月、一度たりとも?」

 彼の言葉に彼女は馬鹿な小娘のように口を開けたまま男を見つめるしか出来ないでいた。

 胸を突き刺す痛みはじりじりと焦げるような激しい拒絶感を彼女に与えた。

 ここで彼女は平手打ちを彼に向けるべきなのだ。だが、彼女は何も出来なかった。本当に馬鹿な小娘のようにただ彼のことを見ていることしか出来なかった。

 この男が私を愛した? 二十歳も年上の私を? 馬鹿な話だわ。

 頭の中で何度も自分を傷つける言葉を浮かべた。

 彼の言葉がただ明日からの金と住まいのためのまやかしだと打ち消そうとした。それしか彼女に出来ることはなかった。


 十年も一緒にいた夫が浮気をしていた。心の良い妻であれば知らないふりをすればいいだけのことだ。暴き立てたところでいい結果にならないことを彼女は母から学んでいた。そして求めるのは平穏、それも飽き飽きするようななにもない平和。だが、夫はそんなものを求めても、愛していなかった。ハンマーを持ち出すとひびわれた氷を思いっきりよくうち壊してしまった。ハンマーの名前は離婚。――彼女のことを愛してしまったのだと、灰色のない答えを要求されて、無理やりに舞台の上に突然と立たされてしまい、脚本もなにもないそこで必死に性格の悪い年増女の役をやるしかなかった。

 金と住まいは保障され、彼女は一人きりになった。夫からなにもかもとりあげた。唯一とりあげることのできなかったのは彼の愛と、その新しい妻だ。彼女は優雅に一人きりの家で本を読み、欠伸をしてはウィスキーを飲む、つまらない日常を満喫した。あと十年若かったら、と悔やむような虚しさはウィスキーに酔った心は犯されていく。情熱を持つには彼女は歳をとりすぎていた。そして利口すぎてもいた。

 そんな彼女に、近所の夫人が声をかけてくれた。パーティをやるからいらっしゃいと、その善意に彼女は仕方なく顔を出すことにした。本当は行きたくなんてなかったが、その夫人はなにかとやかましいことで有名だったからだ。そうしてそのパーティで彼女は彼を見つけた。そのとき彼は八十歳にもなる夫人に気に入られてキスをされて少しだけ困っていた。

 パーティにはそういう男がわんさかといた。金と暇がある女たちのための男選びの会場だったのだ。ここで女たちは男たちの品定めをして、まるで犬でも買うように連れて帰るのだ。

 ――愛人を持ちなさい。それが一番よ

 夫人はしたり顔でそう口にした。彼女は唖然としたが、それもそうかもしれないと開き直った。そして彼女は困っている彼の手がそれは白く、指が長いことを見て欲情した。だから彼を選んだのだ。それ以上の理由はなかった。

 青い目に、灰色の髪の優しげな顔立ちの彼は彼女が近づくと微笑んで、紳士的な挨拶をした。誰にたいしてもそうなのだろうかと彼女は彼を見て思い、手をとっていらっしゃいと口にした。彼はそれに黙って従った。それだけでよかった。そのパーティではそういうものなのだ。彼女ははじめて参加したが、ここでの男の選び方、連れて行き方を知っていた。


 それから彼は彼女のペットになった。彼女は彼にスーツを買い与え、カフカのボタンを購入してつけてあげた。それがはじめてのプレゼントだ。

 彼は概ね紳士だったが、ときとして床に座り、粗野な態度で彼女の心をくすぐり、眸はいつも恋する青年のものだった。そう、本当は少しだって興味のないことにも、あなたが好きだから付き合ってあげる、と語って、彼女の趣味に付き合った。たとえば庭を眺めるとき、うとうととカウチで転寝する彼女にさりげなく上着をかけると、自分は庭の花をいじったり、人気のない森へと車を飛ばし――彼はそのとき運転する楽しみを味わい、車中には陽気なジャズを流した。――何時間もゆったりと歩いたりもした。その無駄ともいえる時間に彼は辛抱強く付き合い、彼女のじくじくと痛み続ける傷ついた心をあたたかい毛布のように包みこみ、ときには舌で舐めて、吐息をかけてくすぐって癒やしてくれた。

 一カ月の生活で彼女は、彼を捨てることに決めた。その一カ月で彼女は彼にいっぱいのプレゼントを与えた。彼は何も言わず彼女からのプレゼントを二十歳も年下の子供として素直に受け取り、いつも喜んだ。それがなんであれ、だ。

 だから一カ月と彼女は決めていた。


 はじめの一週間過ぎに、彼女と彼は喧嘩をした。森へと散歩にいった帰りの道で彼が路上を歩く女を見ているのに気がついて、彼女は不機嫌になった。家に帰ってずっと無言で彼を無視した。彼は心配し、次には理不尽だと訴え、怒り始めた。それに彼女はかっとなった。彼は私が飼っているのに。それは男じみた支配欲だった。そして彼女は叫んだ。夫には一度たりともこんな態度はとったことがないのに。

 本当は私みたいなおばさんを相手にするのはいやなんでしょう。

 彼は驚いて彼女を見つめて、すぐに首を横に振った。それがますます嘘くさく、彼女を惨めにさせた。

 だから彼女は彼の前であられもなく衣服を脱いで、自分のしわだらけの張りを失った体を晒してみせた。そして笑った。これが私よ、あなたが見ていたつんと上を向いた胸のある女じゃない。

 彼は傷ついた顔をして黙って彼女を抱きしめた。

 自分の胸へとナイフを突き刺した彼女以上に彼は傷ついているようだった。彼はいくつものキスを彼女にプレゼントしてくれた。あなたはきれいだと囁くように口にした。彼女は泣きじゃくった。その涙が彼女の血だった。それを彼は残らず吸い取ってしまった。

 そのまた別のとき――二度目の喧嘩は、一週間後だった。彼女は彼とつれだって外を歩いた。彼のスーツを買うためだ。以前の彼の持ち物はスーツ一つにピアスが一つだけだった。それもすべては彼が以前の女にプレゼントされたものだった。いやでたまらず、すぐにでも彼から女のものを、まるで小さな子が夢中で遊ぶ玩具を残忍にも取り上げてしまうように、奪いたかった。

 スーツを仕立てるとき、店員は不思議そうに彼と彼女を見ていた。だから彼女は悪戯心を発揮して、私の坊や、と口にした。まったく手間のかかる息子で困ってしまうわ。彼女は終始機嫌のよい母親のふりをしていた。あろうことか彼に気があるだろう女店員に二人がうまくいくようにとりもつふりだってしてみせた。彼はそれに困った顔をして、スーツが仕上がって帰るまでなにも口にしたかった。

 家に帰っても彼は何も言わず、不機嫌だった。彼女はわけもわからない不安に襲われて爆発した。なにがだめだというの。あなたは俺の母親ではないよ、彼は冷たく言い返した。彼女は冷や水を顔にかけられたようにぶるぶると震えて笑った。私はあなたの母親の年齢よ、他人から見ても、私だってわかってるわ。そんなことはないと彼は口にしなかった。かわりに彼は黙って手を伸ばしてきたが、彼女はそれをこっぴどく否定した。触らないでちょうだい。彼は突き飛ばされたように驚き、ついには獰猛な顔をして彼女の手を乱暴にとるとキスを落としていった。彼女は必死で抵抗し、泣いて、彼を受け入れた。

 彼女は定期的に自分で、傷に塩を塗り込み、ナイフで刺し、ときには噛みついて、せっかく塞がったかさぶたを壊して、血を流した。彼の目が慈愛深く、愛されているという錯覚を覚えるほどに彼女は逆に傷つき、その復讐かのように彼を陽気に傷つけようとしては失敗して自分が何倍も傷ついて塞がらない傷の前に立ちつくすのだ。この年齢になると傷つくと立ち上がることは不可能だ。塞がるにはずいぶんと時間がかかる。だから平和と平凡さと何も変わらない日々を彼女は求めていたのだ。

 だから彼女は一ヶ月経って彼を捨てる決意をした。はじめて彼を拾ったときのように夫人のパーティに連れて行って、そのまま置き去りにして帰った。一人きりの部屋で彼女は孤独の気配を肺いっぱいに味わい、一人でソファに座るとウィスキーを舐めて本を読んだ。せいせいした気持ちになっていると、ドアがノックされた。彼女は立ち上がりドアを開けた。彼が立っていた。良く澄んだ眸で彼は彼女を見つめて口を開いた。それは彼女を傷つけ、追い込み、逃がさない、まるで罰のような言葉だった。


 彼女は首をゆるゆると横にふり、後ろへと逃げたが彼の手が伸びて腕を掴まれた。

「いやよ」

「どうして」

「あなたは、私より二十歳も若いのよ!」

 彼女は悲鳴をあげた。もうたくさんだ。愛なんてものは。傷なんてものは。私が愛しているのはただの平凡さと平和なのに。何も望んではいない。だのにどうして人は奪って行くのか。

 彼女は再び透明な血を眸からいくつも零した。彼は黙って彼女の両頬を手で挟むとキスを落とした。

「金がある、もっといいところへといきなさい。いままでそうしてきたでしょう」

 彼女は軽蔑するように口にした。本当に彼を嫌いになってしまいたかったのだ。

「俺は自由だ。あなたも自由だ。一カ月であなたは俺を少しも好きにならなかった? もしいやなら本気で逃げればいい。俺は君のいやがることは決してしないよ」

 彼の言葉に彼女は返す言葉を持っていなかった。本当は子供のように声のかぎり叫んで、むしゃぶりつきたかったが、年齢が彼女に分別を与え、もう過ぎ去った決して戻らないほどの経験が利口にした。

 だから彼は黙って彼女の唇にいくつものキスを落として、答えを封じ込めた。彼女は黙って彼の腕にしがみついた。

 彼は笑った。彼女よりもうんと年下であるのに、まるで年上かのように寛容に。

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