ミーナ、ときどきねこ
雨の日、私は猫になる。
布団のなかで目覚めて、耳に響く、台所の蛇口をひねったら勢いよく、ダァアーっと、水の塊が上から下へと流れていくような音がする。けど少しすると、小さな男の子が音楽室にこっそりと忍び込んでかっこをつけて小太鼓を叩いているようなリズムのいい音に変わった。
私は尻尾とひげをぶるるっと震わせる。あたたかなお布団のなかでうとうとと過ごす。
おなかがすいたなぁとちらりと考えるけれども、雨の日だから、お布団から出なくていいのだと私は自分に言い聞かせて黒い毛をざりざりの舌で舐める。
「ミーナさん、猫になってますか?」
ドアをノックしてセンセイがはいってきた。
センセイは私が怠け者でいつも部屋のドアに鍵をかけないことを知っている。だから、あなたはときどき猫ではなくてナマケモノになってしまうんじゃないのでしょうか、とセンセイは大まじめにいう。
センセイは昔、小学校で本当に数学を教えていたそうだ。だからセンセイ。
定年を迎えてから、このアパートに引っ越してきたのだ。私はセンセイの真上の部屋に暮らしている。それもセンセイよりも一カ月だけはやくやってきた先輩だ。
センセイはとっても古風なひとで、わざわざひっこしソバをもってきてくれた。私はそのときあまりにも怠けていてナマケモノになってしまい、とうとう腰に植物の根っこが生え始めていた。
センセイはそれを見つけると、私の腰に生えている根っこをきれいにとってくれた。
そばをどうぞお食べください。のんびりもいいですが、植物になってはいけませんよ、ああなると戻れませんから。
はぁ。
では、今後ともよろしくおねがいします。
はぁ。
ナマケモノである私はぼんやりと頷いたものだ。
そのあとナマケモノのままでは植物になってしまうと、センセイの助言もあって部屋から出てちまちまと働いて、人間に戻った。人間に戻ってからセンセイに改めてご挨拶に向かった。
おや、人間だと、かわいらしいお嬢さんだ。
センセイはにっこりと笑ったものだ。
そのあと私はセンセイのところにひょこひょことやってくるようになった。ときどきナマケモノになったり、猫になる私をセンセイはにこにこと笑って迎えてくれる。
「私の友人にもあなたのようにのんびりとしすぎてナマケモノになってしまったり、働きものさんは犬になったりということはありましたが、ミーナさんはころころと変わりますね」
「お恥ずかしいです」
私はセンセイの前だと大変に恐縮してしまう。
ナマケモノにならないようになったが、雨の日はどうしても猫になってしまう。
雨の日はとても眠くなる私はぼんやりとした態度でセンセイを出迎える。
お茶をだそうとすると、センセイはいえいえよろしいですよと笑って私はそれにあまえてふたたびうとうとしはじめた。
「センセイ、今日はなんでしょうか」
「ミーナさんの猫の姿を見たいとおもいまして、立派な尻尾とおびげですね、それに大変にきれいな黒い毛をなさっている」
「ありがとうございます」
「それでですね、雨の日で申し訳ないのですが、お付き合いしていただけませんか?」
「といいますと?」
私はひげをぴくぴくと動かしてセンセイを見た。
「知り合いに美術館のチケットをいただいたのですが、一緒にいかがでしょうか? 今日までなんですが」
「はぁ」
私は耳をぴくんと動かしてのそのそと起き上った。
「いいですよ、いきましょう」
「眠いのではないですか?」
「平気です。いっぱい寝ましたから、それに雨の日は眠くても動きたいとも思うんですよ」
「猫なのにですか」
「はい。猫でも動きたくなるんです」
私の返答にセンセイはほぉと小さなため息をついて笑った。
「では、ミーナさん、デェトをしましょうか」
センセイの笑い方と、デェトという言い方が私はとても好きだ。
私たちはさっそくデェトのためにも、それぞれに別れを告げた。
駅で待ち合わせをすることにした。
デェトというと外で待ち合わせをしなくてはいけませんよ、というセンセイの言葉に私はもっともですと頷いたからだ。
まず、私は箪笥を開けて服を出そうとして前足を止めた。今の私にはそれは見事で立派なふわふわの毛におおわれているのだからわざわざ洋服は着なくていいのだ。それを思い出してもお洒落をしたくてたまらずに白いフリルのついたリボンを首にまいて後ろで蝶々結びをしようとしました。これが意外と猫の手では難しく、私は何度も失敗してようやくリボンでとめ、いそいそと玄関に出かた。今度雨が降ったときにぜひとも使おうと決めていたピンクに白い縦じまの傘、おそろいの柄の長靴をはいて外へと出た。
今日の雨はとても気まぐれで、乱暴者だ。
吹きつける霧となったって顔にかかってきたり、勢いをつけてぴちゃんと飛沫をあげたりと悪戯ばかりしてくるのに私は尻尾を振りながら駅までの道のりを歩きました。
駅につくと、ふいにぽんと肩が叩かれて私は振り返ると、センセイが立ってました。
紺色の傘をさしたセンセイがにこりと笑いました。
「お待たせしました」
センセイはこうして人を楽しませて、騙してしまうことがとても得意だ。一体、どうやってセンセイは私とまったく会わずに、駅まできたのだろう。
私は興味津津にセンセイを見上げてしまう。
「では、いきましょうか」
「はぁ」
私は気のない返事をした。
けど、本当は、どきどきわくわくしていた。センセイのこうしたちっちゃな魔法が私を気分よくさせる。
私は尻尾をぴんと張ったままセンセイと一緒に電車にのって美術館へと向かった。駅のなかでは私と同じく猫になってうとうととしている人や河童になってしまって意気揚々としている人もいた。
「河童とは珍しいですね」
「けど、雨の日ですから」
「そうですね、雨の日ですからね」
私とセンセイは河童に会えたのは実に珍しいことだと言いあって駅を出た。
白いペンキできれいに塗られた上に、ぽんっと無造作に赤い屋根をつけた建物の前に私とセンセイはやってきた。
とても大きくて立派な美術館に私はやや気後れしてしまいながら
「猫でもはいれますかねぇ」
「大丈夫ですよ、ミーナさんは素敵なぶちの猫さんなんですから」
私はその言葉に力をいただき、大きな自動ドアの玄関をくぐった。
受付嬢は私と同じ猫だった。それも黒色の。
センセイがチケットを出すと受付嬢は笑って二枚のチケットを受け取って尻尾をゆらゆらとさせて
「どうぞ」
きれいな声だ。
私が嫉妬してしまうほどにきれいな毛並みだった。
私はむっつりとしたままホールのなかへと足を向けた。大きな空間の壁という壁に絵が正しい距離をとってずらりと並べられている。それを順番に人はゆっくりゆっくりと見ている。大勢の人がいることに私は一瞬にしてげんなりとなってしまった。
「雨ですからね、みなさん、ゆっくりと出来る場所を探しているのでしょう」
「はぁ」
「ゆっくりと見ましょうか」
センセイはまず一枚目の絵へと歩き出した。
こういうとき、私はせっかちですべての作品をぱっぱっと見ていくタチだ。いっぱいに人が並んでいる絵も遠目に見てさっさと次へと進んでいく。私がホールいっぱいの絵を見終えるのに十分ほどの時間がかかった。ちらりとセンセイがどこにいるかと目を向けると、ちょうど真ん中に来ているところだった。私はセンセイのところに歩いていった。黒い絵の具で描かれたのは細かったり、太っていたりする人間がいっぱいいる奇妙な絵だ。その横は青い絵の具で女性が描かれている。
この女性の顔をみていると、なんともいえない恐いと思う気持ちが胸に広がって行く。だから私はここのゾーンは早足に逃げてしまったのだ。
「センセイ、恐いですね」
私は尻尾をもじもじとさせてセンセイに言った。
「ええ、恐いですね」
「センセイもやっぱりそう思いますか?」
センセイが同意してくれたのに私は嬉しくなった。
「はい。思いますね」
「じっと見ていたから、好きなのかと思いました」
「この作者さんは、どういう気持ちで作ったのかなぁと思いまして」
「見られたくなかったんじゃないですか」
「そうかもしれませんね」
「芸術がそれでいいんでしょうかね」
「そういうものが人の心に残るのでしょうね」
センセイはくすりと笑った。
私が三回、すべての作品を見直した直後、センセイが全部の作品を見終えたのでそこを出た。外に出ると雨の勢いが激しいのに私はついつい前足で一生懸命に顔を洗うと、そんなことするから雨がますます降るんですよ、猫が顔を洗うと雨が降るのですからと注意されてしまった。この勢いのいい雨は私のせいなのだろうか。釈然としない私はセンセイに手を引かれて、美術館の横にあるカフェ―にはいった。
「ゆっくりと雨宿りをしましょう」
「はい」
カフェ―のなかは黒のチョッキを着た男性や女性が行き来をして料理を運んでいた。私はついくんくんと鼻を動かしてまった。それほどにいいにおいがした。
窓側の席に私たちは案内され、そこから勢いよく地面を叩く雨を見ながらあれでもない、これでもないと考えてスコーンのセットを頼んだ。紅茶の種類に詳しくない私はセンセイにおまかせをした。
「雨、やみませんねぇ」
「そうですね」
私が尻尾を震わせているとスコーンと紅茶が運ばれてきた。
艶々と輝いている皿に二つのスコーン。その傍らにはクリームとジャム。ポットとコップが置かれた。紅茶は砂時計が落ち切ってから飲んでくださいというお言葉に私たちはまずスコーンに手をつけた。あたたかいスコーンをがぶりと私は噛みついた。行儀が悪いかと思ったがセンセイもクリームとジャムをつけたらむしゃむしゃと食べているので、私は今度は熱心に白くてふんわりとしたクリームときらきらと輝く金色のオレンジジャムをつけた。スコーンの中は果実がはいっていたがこれといって淡泊な味だが、ジャムをつけると甘いが、品がよかった。まるでつんとそっぽ向いている女性みたいな味わいだ。
「おいしいですね」
「ええ」
私たちはおいしいと口にだして褒めながら、ようやく砂時計が落ちたので紅茶をいそいそとポットからカップについでゆっくりと味わった。なんといっても私は猫舌なのだから。
爽やかな匂いにさっぱりとした味が喉から体のなかへとはいってくる。
「おいしい」
私はひげを震わせて感動した。
センセイは私を見て微笑んだ。
「はいってよかったですね」
「センセイはここのこと知っていたんですか」
「いいえ、入るのはじめてですね。今日は雨でしたし、それにミーナさんがいましたから」
「ほぉ」
「ミーナさんが猫でよかったです」
「そうですか?」
「猫でないと雨が辛くならなかったでしょう」
「だったらこれからは顔をいっぱい洗います」
「はい。そうしてください、そうしたらまた寄り道をいっぱいしましょうか」
私とセンセイは紅茶に再び口をつけて、ほぉとため息をついた。
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