青すぎる空の瞳
初音は、その小さな身に幸福を詰め込んで生まれたのだろうと村人たちは囁きあった。それほど初音はいつも笑っていた。周りの者は彼女を見ていると、幸福になれた。
初音の両親は、村の長だった。歳とって出来た子が娘でも、両親は大変喜んだ。
何をしても笑い、十になろうというのに、一度も泣くこともない娘は、不思議な雰囲気を持っていた。
いつもにこにこと笑っているのを見るだけで周りは幸せとなったが初音自身は幸せとは縁遠かった。というのも父と母はその年に流行った病によって死んでしまった。その流行り病は奇妙なもので肌に黒い斑点が浮かび、三日三晩熱に浮かされて苦しんで死んでしまう。
大勢の人間が死んでしまい、村人たちは不幸続きでどんよりとしたが、初音はいつも笑っていた。その笑みを見ていた一人が、この娘は幸福が封じられている、その幸福によって守られるんじゃないのかと言いだした。根拠のない言葉であったが初音は不思議な、不気味な存在だった。この娘の中には幸福があるのだ。だったら、もし死ぬのであれば、幸福な中で死にたいではないか。みなその考えに下品に笑った。ああ、まったく女の股うずめて、しねりゃあ、そらぁ男は幸福かもしれんよ。だども、そんなばぁかなことすんじゃないよ。おいおい、よく考えてみろや、この娘が、周りから幸福を奪っているんじゃないのか、この娘が生まれてから、畑は不作が続き、犬が死んだ、病が流行った。
返せ、幸福を奪った娘
一人が言えば、また一人。
返せ、幸福を封じた娘。
初音は自分に伸びてくる太い腕がどれだけ理不尽であってもずっと笑っていた。
村では、この娘から幸福な笑みを奪うことが出来れば、自分たちに幸福がかえてくるんじゃないかと口々に言い合った。
だから、村の者は、初音に冷たくあたった。村から一寸はなれた山の質素な小屋に住まわせたが初音は笑っていた。その笑みを村人たちが不気味がった。なにをしようとも笑みを絶やさない。この娘は、もしかしたら呪われているのかもしれない。ああ、いやだ、ああ、いやだ。だが、殺すことは出来ないため時折、残飯を小屋にもっていっては、初音の口に押し込んだ。初音はにこにこと笑うだけで、何も出来ないのだ。本当に手間のかかるお荷物の娘に誰もがうんざりとした。
垢まみれで笑うだけしか出来ない娘が、住んでいる小屋には、誰も寄りたがらなかった。
雨の夜だった。
村を避けるようにして山道を歩いていた者は、その小屋に明かりが灯ってないのに、誰もいないと思って忍び込み、初音がいるのに驚いた。
「人がいるのか? こんな寒い夜に火も焚かずに凍えて死ぬ気なのか」
暗闇のなかで困惑気味に問う声に初音は笑うしかできなかった。
「だって、できないんですもの」
夜の闇に紛れて現れた闖入者は困惑した。
「火を焚いてもいいか」
「どうぞ」
闖入者は少しだけ迷い、囲炉裏によると火をつけた。おかげで初音はその闖入者の姿を見ることができた。
初音よりもずっと大きく、そして黒い布に覆われている。男だ。
「何故、笑う? 普通は怖がるだろう」
「私、怖いってわからないの」
初音は、笑って答えた。
「怖いというものがなんなのかわからないの」
初音は生まれたときから、怖いというものがなんなのかわからなかった。
昔、まだ、父と母が生きていた時に手を深く切ってしまったことがあった。二人は怪我が痛かろうと泣き、慌てたが、初音は痛みなんて感じなかった。怖いとも思わなかった。そして泣くということがよくわからなかった。
村人が自分に腕を伸ばしてきたときもそうだった。この小屋に追い込まれ、垢にまみれになり、生ゴミを口にねじ込まれようとも、何も感じなかった。
初音には何かが欠けていた。自分でもわかっていたが、その欠けているものについてはうまく言葉には出来ぬものだった。
「……このような山中に、娘が一人とは」
男の声に憐れみがこもっていた。
「村の人たちが、村にいちゃいけないって……私は、みんなの幸せを奪ってしまったから」
「幸福とは、奪えるものではない。自ら作り、また与えるものだ」
初音は小首を傾げて笑った。
「……雨が止むまで、ここに厄介になりたい。お前にはなにもしないと約束しよう」
「どうぞ、好きなだけ」
初音はにっこりと優しく笑った。
次の朝も雨が降っていた。初音が起きると、誰もいなかった。だが、ちょいと時間がたつと黒い襤褸布をかぶった者が入ってきた。手には作物があった。それをどこで手にいれたのかを初音は聞かなかった。男も言わなかった。男は無言で、包丁で作物を大きく斬りわけ、囲炉裏で焼いて初音に差し出した。初音はそれを見つめていた。
「食べないのか」
「口にねじこまないの?」
「食べたくないものに、そんなことはしない……食べ方を知らないわけではないだろう」
「知らない」
初音の言葉にため息をつく音がした。男は初音の手を持って食べるように動きを教えてやった。初音は手を動かして、焼いただけの作物を食べた。
「お前は、何も識らないのだな。そのように笑う以外は」
「そう」
「生きるのに苦労する」
「そう」
初音は笑って、作物から流れる汁に口を汚した。それを自分の着ている着物で拭うということも初音は知らない。男は初音の腕をとり、服で拭うように教えた。
初音は、それに素直に従って服で口を拭った。
「……識れば、出来るのか」
その日から、雨は連日連夜降り続いた。男は、初音に様々なことを教えた。食べることはもとより、服の着る事、体を洗うことも――初音の両親は娘を溺愛して何も一人ではさせなかった。だから、初音は何も知らなかった。人が当然のようにすることも、出来なかったのだ。だが、一度知れば、初音はなんなく、それらを出来るようになった。
雨は、止まなかった。
小屋の戸から、外を見ながら初音は尋ねた。
「雨が、止まない間は、ここにいるの」
「……そうだな。止まない間はな」
「その布はとらないの?」
男は初音の前では、ずっと布をとらなかった。
「とらぬよ。お前が、きっと怖がってしまう」
初音は笑った。
「怖がるって、なぁに」
初音は無邪気に男に近づいた。
「錆びた匂いがする」
初音の手が布をとるが抵抗しなかった。いや、出来なかった。布がはがれると、真っ赤な血が現れた。男が身につけている服は黒い布と思っていたが、それは血だった。初音より大きな男は、衣服を真っ黒に汚して血を流し続けていた。
そんな光景を見ても初音に笑うことができた。その男の姿なんぞ、初音には、どうでもよいことだった。
「きれい」
「……みな、私を見ると、逃げるよ。恐れをなして」
「きれい、すごく」
「ありがとう」
男は弱弱しく、泣くように笑った。その笑みを見て初音は小首を傾げて、男の頬に手を添えた。手が燃えるように熱かった。男は美しかった。初音は、男の顔を覗き込んだ。頭に、無数の手が伸びたときの行為が掠めた。初音は芯が熱くなるのを感じた。男が手を重ねた。
「おめめ、きれい」
「そんなことをいうのは、きっと、お前ぐらいだろう」
男は嬉しそうに笑ったのを見て、初音も笑った。
男は初音に様々なことを教えたが、決して教えようとしないことがあった。それが銃と呼ばれるものの使い方で、それに触れようとすらさせなかった。初音は何も識らぬ娘故に、触れろといわれないものには決して触れず、また尋ねようとはしなかった。ただにこにこと笑って、男が時折手入れするのを見ていた。だから、男も、そう、ぽろりと初音に自分のことを告げたくなってしまった。人間とは奇妙で摩訶不思議なものだ。尋ねられないと、言わねばよいとわかっていることを、ついつい口に出していってしまう。
「私は、これで、異端を狩っている」
「異端ってなぁに」
「見たことのないのか」
「うん」
「そうか、それはいいことだ」
この邦に住んでいて異端と呼ばれる――物の怪に出会わぬのは珍しい。奴らは、万神とも昔は言われて慕われていたが、いまや人の命を脅かす獣でしかない。しかし、それは、仕方のないこと。遠き邦から来た神が、万神との戦に、勝利した。勝者は神よ、敗者は魔物よ。落ちた神ほどに憐れなものはおらない。人の血をすすり、肉を喰らい、もっと、もっと生きながらえようとするばかりか、私欲に走る始末。
「ここにも異端がいる」
「狩るの?」
「さぁ、どうだろうな」
男は遠くを見つめて呟いた。
「害がなければ、始末はせぬよ。昔は、これこそが自分の生きている証と思っていたが、いまや私も異端の一つ、仲間を殺して、どうするか」
「異端?」
「この姿は、この邦では異端らしい」
男は言いながら天井を見た。けれど、もっと遠くを見ているようでもあった。初音は理解できないのに、にこにこと笑っていた。その笑みを見つめて、男は、初音の膝元にすがった。
「お前の笑みを見ると、私は罪人だと自覚する」
「なぁに、それ」
「罪を犯した、死して楽園にはいけず、地獄の最も深いところにいく者のことだ」
「なぁに、それ」
初音は再度尋ねたのに、男は丁重に、また細かく教えてくれた。初音はただにこにこと笑って男の話を聞いていた。
「これは、私の父がパレーン(神父)をしていたから、その教えだ」
「そう」
男は初音を見て笑った。
「私の名前をお前に教えておこう。ここでは洗礼を受けれず、父の名をもらった」
男は初音に名を明かした。けれど、この名は決して口にするなと男は言い、もし、何か祝いのことがあれば、そのために使うといいと教えた。
◆
人殺し。
ぴっちゃん。
人殺し。
ぴっちゃん。
雨音に男は銃を握り締めた。
食糧をとるために森に入ると、その音が自分を迎えた。狩るつもりはなかったが、この匂いに惹かれてやってきたようだった。
男は異端をよく狩った。
初音に言わなかったことがある。異端とは、人だ。昔、自分の邦にやってきた異人たちが、この邦の下級民を捕らえ、実験台にした成れの果てが異端なのだ。彼らによって研究室が爆破され、そのあと逃げた異端たちは、この邦に古くからいる神の名を授かった。
父は、異端を殺していった。憐れな者を殺してやるのは慈愛深いのか、はたまた身勝手なのか。男にはまだわからない。なんといっても父は自分勝手にこの邦に来て、この邦の人間を実験した異人の一人、そしてふらりと去っていった。自分と母を残して。
咽るような血の海を男は覚えている。父が無感情に殺していった元人間。今は、男は、それを狩っている。
父は自分と母、そして銃だけを残して去った。男は己を定義するものを求めた。母と、母の周りの人たちは優しかった。自分がここでは異端なのかわからなくなるほどに。それは命とりだったのだ。どうして、もっと危険性を教えてくれなかったのかと方向違いの優しさを今は恨んでいる。母は息子を守って死んだ。それはひどい死に方だった。母が生きながら炎に焼かれるのを、彼女と生活していた家が燃えるのを彼は見るハメとなった。
たった一人で生き延びてから、男は狂ったように殺し続けた。血に染まりながら、自分の、この肉体が黒く、この邦の者たちと同じように染まればいいと思った。だが、現実、そのようなことはありえない。どう、願おうとも、自分の外見はかわらない。
醜い人殺しがきたよ。
ぴっちゃんちゃん。
雨が降る森の中で女が立っていた。傘も差さず、全身がずぶぬれだった。白い化粧した顔、唇には紅、眼の端にも朱が走っている。ずいぶんと美しい姿をしていたが、恐ろしいことに足元が透けて水であった。女は水の塊だった。
「お前か、この雨の原因は」
「……人殺し、人殺し、なんぞ、殺されねばならん。わしらがなにした」
「ここに逃げてから、ずっと雨を降らせているな? 作物が腐るはずだ。……お前……雨女か」
「涙が一滴、ぴっちゃんちゃん。アタシは、父に売られ、身を売った。ああ、もう犬以下じゃ、犬以下じゃ」
「悪いが、俺は」
「この胸を貫いた刃を忘れぬ、忘れぬ。犬以下になって、売られた、売られた」
男は銃をあげて、女を撃った。
水がはじけ、女の胸に大きな穴が開いた。それでも女は笑っている。
にぃぃいいいいいいい。――笑っている。
「人殺し、人殺し、ぴっちゃんちゃん」
女の足下にある水たまりの水がうねり、男の腹を叩いた。
「がぁ!」
「おまえの血はあかいか? お前の血はあかいか?」
男は口から血を吐き出し、咽た。
容赦なく水が矢のように飛び男の身を攻撃した。絶え間ない攻撃に、男はもう立っていることさえできなくなっていた。
「俺は」
男は銃を女の顔に向けた。
「お前たちを狩る」
「人殺し」
「……神など信じない。だが、ここは初音のいる邑だ」
男が引き金をひくと、女の顔が弾け飛んだ。女の体が崩れて、ただの水となって大地に広がった。異端となれば死体すら残らない。
ただ冷たく、それでいて痛いほどの力強い雨が降った。しばらく雨は続くだろう。だが、もう、これ以上、雨が降り、困ることはないはずだ。男は血を吐いた。しばし咳き込んで、ゆっくりと立ち上がった。
男は自分の言葉を反芻した。異端を狩るのは、父に対する復讐だった。だが、違うのだ。父を憎んでいるが、それが異端を狩る理由にはならない。本当は認められ、愛して欲しかった。あの冷たい瞳に、自分を映してほしかった。母と自分のことを少しでも、忘れないで欲しかった。父は、どうして自分にこのような銃を残したのだろうか。母には、自分を残したのだろうか。最後まで父は身勝手だった。その名を自分は受け継いだのだ。
「俺も、身勝手だ」
命を殺していくのは、自分のだめだ。信じてもいない神などでも、異端となった憐れなる人間を救済するなどという善意のためでもない。
だが、今回は初音のためではあるのかもしれない。
男は少しばかり自分自身が可笑しくなったのだと思った。だから、笑った。それは初音がいつも見せてくれるような、幸福になれる笑みではなかった。
◆
小屋に帰ると初音がいた。それが男の悲しみと痛みとどうしようもない切なさを呼び起こした。きっと寂しいのだ。一人で生きるにはこの世界は広すぎ、人生は長すぎる。男は震える手を初音に伸ばした。初音は笑った。
「ああ、幸福だ」
男は掠れた声で囁いた。
「お前を見ていると私は幸福だ」
「私も」
初音は心の底から微笑んだ。
「私も、あなたの傍にいると心がほっこりするの」
初音は手を伸ばして、男の手をとった。
初音の意思で。
男の体をしっかりと抱いてやった。
「幸せよ」
濡れた頭を撫でてやり、何度も何度も幸せよと囁いた。男は初音の胸に顔を埋め、狼のように泣いた。そして欲望のままにのしかかった。
◆
さらに三日、雨は降り続いた。
村では、雨が降り過ぎての不作にひもじさを抱えた村人たちは、何度も集まって言いあった。この雨は普通ではない。何があったのかと考えた。この雨で、不作で苦しむのはなにもこの村だけではない。周囲の村はみな苦しみ、どんどん人が死んでいる。
そんななか、刀を持った賊が食べ物を求めて村を襲った。食べ物を奪われては死んでしまうと鎌と、鍬で戦えど、あっけなくも負けてしまった。男は殺され、女は売られる。ああ、助けてくれ、助けてくれ。枯れるような声は虚しくも、ぽっつり、ぽっつりと降り続く雨のなか、ふらりと黒い布に全身を覆われた者が村人と賊の前にあらわれた。
「誰だ、貴様」
「ここの村に手を出すな……私がお前たちの相手をしよう」
「ほざけぇえええ」
賊の一人が刀をもって切りかかった。と、その黒い布がぱっさりと切られて落ちた。とたんに村人も、賊も息を飲んだ。
その男は黒い髪に、蒼い眸をしていたのだ。賊たちはそれを見たとたんに憐れなほどに動揺した。
「異国の者だ」
「異国の……こいつら、魔術を操るって言うじゃねぇか」
「如何にも。私は、魔術を使う。お前たちを殺すことも出来る、恐ろしければ、はやくいけ」
異国の男が、賊にも、村人にも解らぬ言葉を発した瞬間、とーんと何かが飛んだ。とたんに賊が頭から血と脳を零して倒れた。
異人の男が手に持つ黒い塊が目に見えないほどの速さで石を投げ、賊の一人を殺しのだ。
「死にたいのか、お前たち」
魔術だ、魔術だと口々に賊はこわごわと逃げ出した。逃げた賊を異国の男は追わなかった。脅えた村人たちをちょいと見たが、何もせずに立ち去った。
異国の男は、昔、初音が住んでいた、今では燃えて何も残ってはいない屋敷の前に来た。そこに初音のものがあるかと思ったが、何もなかった。村人達が、初音にしたことを許す事は出来ないがそれでも許そうと男は努力した。見殺せばよかったという気持ちと救ったことに対する罪悪感を抱え、雨の中、男は初音のいる小屋に戻った。
「すまない、お前のものはなにもなかったよ、初音」
「そう」
初音は笑った。男は手を伸ばして、初音の腹に触れた。
「焼けてしまっていた……私のときと同じだった。私の父も、私のようなことをした」
「そう」
「父は、この国が好きだった。そして母とめぐりあい、私を設けた。私は、この国も、両親も好きだった。父がいなくなったあと、私の家は燃え、何も残らなかった。……不幸になると父はきっとわかっていたのに、私を母に託した。
私は、お前に同じことをしている」
腹に優しく触れながら男は告げた。
「私は、笑うしかいから」
「お前が笑ってくれることが救いだ……もう決して人は殺さぬといったのに、私は銃で人を殺してしまった」
「銃?」
「お前は知らなくていいことだ」
男は冷たく言い返した。
「村人を救ってきた。賊に襲われていたところだった……私は、お前を、こんな風に追い込んだ者たちは許せない。だが、許すことが大切だと思うんだ、初音」
「うん」
男は初音の身をしっかりと抱いた。この小屋であと暫くは二人で身を隠し、子が生まれれば出ていくつもりだった。
しかし、そうはいかなかった。
助けられた村人は、異国の男がどこにいったのかと探し、初音の小屋にいるのを見つけ出した。そうすると、鍬と斧で男に襲いかかり、捕えると雨でぬかるんだ田圃に男を引っ張り出すと、鍬でその男の体を何度も殴った。
「お前のせいだ。雨が降らせているのは」
「お前のせいだ。作物が育たないのは」
「その目に空を封じちまってるんだ」
「蒼い空を返せ」
村人たちは、男の蒼い目を潰そうと躍起になった。男が暴れ、悲鳴をあげた。
――初音、初音、逃げろ、初音! 男の咆哮はまるで風が唸りあげるように轟いた。村人たちは恐れをなして、狂ったようにさらに男を殴りつけた。
そうして青空を、その目に盗んだ男は死んだ。
そのとき、雨が止み、曇り空が晴れた。村人たちは、歓喜した。ようやく、救われる。救われる。青空を取り戻した。化け物から取り戻した。
初音は、村人たちに抑えられたまま、その有様を見ていた。
みなが、青空に歓喜して、笑いあっているなかでようやく解放された初音はよろよろと立ち上がると男の死体に手を伸ばした。男の潰れた顔を抱きかかえて、初音は笑った。視界が男の血によって赤く、目から溢れる水によって歪むなかでも初音は笑い続けた。
青空が戻ってきたぞと、笑う人々の中、初音は笑いながら、歓喜する人の中を這いずっていった。どこまでも。
そして、村人たちが気がついたときには、初音も、男の遺体も消えていた。ただぬかるんだ土に、血の道が続いていた。
★ ★ ★
三十年前に勇気ある村人たちによって空が返された日と村人たちは旅人に話して聞かせた。
今日は空から青空を奪った魔物を倒した祝いの日。先人の栄光を称えた華やかな祭りにふらりと旅人がやってきたのだ。
本来は村人だけのささやかな祭りだが、人は多いことにこしたことはないと旅人である男はもてなしを受けた。
そして、酒の席で旅人は魔物が殺された日の話をねだったので聞かせてやった。酔っ払った村人は気前よく話し、そのあと、ふと旅人のことをまじまじと見た。
「けど、あんた、どうして、こんな小さな村にきたんだい。それも、そんな全身を隠すように黒い布をかけてよ、とったらどうだい」
「ああ、それも、そうだな」
村人の言葉に男は笑って布をとった。するりとあらわれたのは二十代ももう後半くらいの、それは中々に男前の男だ。なにかの怪我か、片目を眼帯で覆ってはいたが、黒い髪に黒い目をしていた。
男はにこりと笑って酒を煽ると、そろそろいかねぇと、口にして立ちあがった。そして、思いついたように酔っ払った村人に言った。
「ここにきたのはな。母の故郷をちょいと見てみたかったのさ。それだけだ」
男は笑って酒の瓶を一つ、行きがけの駄賃にもらっていくよと言って姿を消してしまった。
そのあと、村の入り口で遊んでいた子供たちが、片目に青空を封じた魔物に会ったと騒いだそうだ。
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