太陽と月におやすみ

 立花麻須美はコピーをとっていた。

 年代もののコピー機の横には去年買った新しいコピー機があるのに、わざわざ古いほうを使うのはいつもの癖のせいだと心の中で呟くが、本当は操作に慣れないのだ。

 新しいコピー機は最新の機能がついているそうだが、たかがコピー機に余分な機能をつけなくてもいいだろうと扱いきれないものにたいして言い訳する。

 なによりも、こうしたちょっとした時間の間が麻須美は嫌いだった。

 私、なにしてんだろう。

 最近は、いやでも自分のことを考えてしまう。だから、いつもなにかしていたいのだ。

 私、今年で三十だわ

 考えたくないとおもいながらも、意識はいつもそこにいく。

 私、三十なのに、未だにコピーなんてとってる。

 麻須美は諦めたようにため息をついた。

 麻須美の両親は教育熱心な人たちだった。母は、娘がテストで百点をもって帰ると、喜んでくれたし、麻須美が行きたいといえば塾にいかせてくれて、多少無理をしても私立の高校にも行かせてくれた。その分、二つ下の妹の百合はおうちゃくで、遊ぶことが大好きな、それでも要領だけは良い子だった。二十三にはできちゃった結婚して、いまでは主婦だ。

 大学まで麻須美は努力と根性でのしあがった。いわば、勝ち組だった。大学の間に語学の勉強もして、英語なんてぺらぺらだったおかげでいろんな友達に尊敬されて、頼りにしてくれた。

 今思えば、そのときは自信に溢れていた。

 だが、そんな自信なんてものは、社会に出て、思いっきり音をたてて壊れた。

 麻須美が大学を卒業してはいった今の会社は、仕事を一つとして任せてはくれなかった。それこそ、新米の女である麻須美を相手には当たり前のことだ。まずはじめはコピーから、そしてお茶汲み。

 麻須美は、反感を覚えた。だが、それをごっくりと飲み込んで、我慢した。だが、許せないのは、自分と一緒にはいった新米の男が、仕事を任された姿を見たときだ。私のほうが、語学だって、勉強だって、大学だって、私のほうがずっといいのに

 そのときの胃がむかむかとした不愉快さを今だって忘れずに覚えている。

 なにより不幸だったのは麻須美は可愛くない女だったことだ。勉強が出来て、周りから頼られていた麻須美は、人に頭をさげることが嫌いだったし、頼るのも好きじゃなかった。だから、仕事を教えてくれる先輩たちにたいしていつもなにかしら苛々としていた。こんな簡単なことも出来ないのか。心に持つ感情は相手にも通じるらしい、理由はわからないが麻須美は会社の女の子のグループと疎遠になった。

 もともと、おしゃれけもなく、人付き合いも――大学のときはしていたが、会社にはいってしなくなった。誘われなくなったというほうが正しいが

 麻須美は、会社で孤独になった。そして未だに仕事の一つも与えられずにいる自分が情けない苛立ちに覚え、それが麻須美をますます孤独にした。

 だから、麻須美は一人でコピーをとっている。


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「伊田幸平です」

 挨拶されたとき、麻須美はなんとなく彼のことが気に入らなかった。新入社員らしく若々しさがある、新しいスーツ。黒髪に好青年という顔立ち。どれをとっても麻須美にとっては興味にならない。

 口にした大学だって、たいしたことはないじゃないか。

 形ばかりの挨拶に拍手。

 それが終われば、いつものようにコピーをとらなくてはいけない。

「あっコピー、俺がとりますよ」

 いきなり声をかけられて麻須美は驚いた。

 伊田はみんなに挨拶したときのように好青年の笑みを見て麻須美はなんと答えればいいのか戸惑った。

「これ、何部とればいいんですか」

「え、あの」

「俺、新米ですし、コキ使ってくださいよ」

 そういって伊田は屈託なく笑ったのを見て麻須美は胃がむかむかするのを感じた。――まただわ。

 麻須美はうんざりとした。

 伊田がコピーをとるのは新しいコピー機だった。胃が痛くなった。



 こういうのを人徳というのだろう。

 麻須美は盛り上がる歓迎会の端っこでビールを一人で飲みながら、上司の音痴の歌をききながら思った。

 伊田の屈託のない笑顔に誰もが笑顔を返す。それを見ていると、胃がむかむかとする。

 麻須美は、思い出すのだ。

 この男、妹に似ている。

 いつも馬鹿で要領のよかった妹。

 百合は、麻須美が二十七のときにできちゃった結婚をした。それも自分の勤めていた会社の上司と。

 自分と似てない愛くるしい笑顔をふりまく百合は、昔から本当に要領がよかった。欲しいものはなんでもほしいといえる、それを手に入れる子だった。そんな百合のことを麻須美だって好きだった。

結婚式にいったとき百合が幸せそうに笑うのを見て、よかったと心から祝福した。相手の男性は、それこそ、優しい感じの男だった。

 母は泣きながら喜んでいた。

「ああ、よかった。あとは、麻須美が結婚してくれればお母さん、嬉しいわ、あんたもはやく結婚して今の会社なんてやめて家庭にはいりなさいよ」

 母の言葉に麻須美は最後の砦を失った。

 今までいつもがんばる自分の背を押してくれていた母は麻須美のプライドを最終的には打ち壊した。

 今までの努力をあっさりと否定されてしまった。


 新入社員の歓迎会の二次をパスして、タクシーで家まで帰った。元々、歓迎会にだって出たくはなかった。

 マンションに帰って、ドアを開ける。

「たく、いる?」

 拓也は同棲している麻須美の恋人だ。同棲といえば聞こえはいいが、はっきりといえば、ただのヒモだ。会社をリストラされて、ころがりこんできた。

はやく仕事を見つけろと麻須美は文句を毎日口にしているが、就職活動するつもりはまったくないようで家の中で料理を作ったり、掃除なんかしている。そんな彼にたいして心の底で軽蔑を抱いていたが――ああ、これはいいかもしれないと思うのは、家にいて帰ったときに拓也が迎えてくれ、文句をきいてくれながら食事をして、風呂にはいり、そのあとマッサージしてくれるひと時だ。

 だが、拓也はいなかった。

 麻須美は唖然とした。

 こういうとき、どうすればいいのかわからなくて、とりあえず、貯金通帳を確認した。あった。それから、どうしようか

 麻須美はなんだか捨てられた犬みたいな気分で、おなかがすいたことを思い出した。


 財布だけをもってコンビニに向けて歩きながら、自分がいやに落ち着いているなと思った。こういうときは、もっと慌てたり、取り乱したりするものだろう。

 コンビニで弁当とヨーグルトを買う。それから煙草を一つ買って、出ようとしたとき視界が遮られた。

「あっ」

 雨だ。

 麻須美はぼんやりと空を見て、ため息をついた。

 傘、かわなくちゃ

 再びコンビニに入ろうとしたのに横から何かがやってきた。

「うわ、濡れた……あれ、立花さん」

 鞄を頭の上に置いて、必死に雨を凌ぎながら店のなかにはいってきたのは伊田だった。まさか、名前を覚えられているとも思っていなかった麻須美は驚いて、どうしたものかと彼を見ていた。

「あ、飯ですか」

 そういわれて、麻須美は慌てて手に持っていた袋を後ろに隠した。なんだか、一番みられたくない自分を見られた恥ずかしさに俯いた。

「俺、こっち側なんですよ。あ、かさ、傘」

 慌ててコンビニにはいる、伊田を見て麻須美もあとにつづいて、あっけにとられた。

 傘は一本しかなかった。

 伊田は一本のビニール傘をもって困ったような顔をして、レジにいってしまった。

 ついてない。

 麻須美はそのまま外に出ようとしたのに、腕を掴まれた。

「はい、立花さん」

「えっ」

「傘、途中まで一緒に行きましようよ」

「……けど」

「俺、この道を真っ直ぐいったところなんですよ」

「私、ちょっといったマンション」

「なら、方向は一緒ですし」

 そういって伊田は傘をさして歩いていく。その横に麻須美はついていくしかなかった。

「俺、ずっとあなたと話をしたかったんですよ」

「なに、いきなり」

「俺のこと覚えてません? やっぱり」

 麻須美は怪訝として横を歩く伊田を見た。

「まぁ俺、ガキだったし、覚えてないでしょうね。……昔、ボランティアで学生の相手したことあるでしょう」

「……覚えてないわ」

 麻須美は言い返して首を捻った。

 ボランティア運動すると、受けがいいというので高校のときは、ちょくちょくしていたし、大学のときもその延長で活動はぽつぽつしていた。

「ひでぇ」

 伊田が言葉とは不似合いに笑うのに麻須美はじっと見ていた。

「けど、また会えてよかったよ。俺は、あのとき、きらきらしていたあなたに憧れていたから、会ったらいいたい言葉があったんだ」

「あら、じゃあ、残念だったって」

 伊田は麻須美の言葉に驚いたように目を瞬かせて見つめてきた。――こいつ、今までネコをかぶっていたんだ。いやなやつ

「なんで」

「私、かわったでしょう。昔より、ずっと」

 それ以上は言葉は続かなかった。

「……平塚雷鳥って知ってる?」

「なに、突然」

「いいからさ」

「知ってるわよ。女性運動の人」

「そうそう、「元始、女性は太陽であった。真性の人であった。今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である」」

 朗々と本に書かれた文字を朗読するように一文を口にする伊田の声に素直に聞き入った。

「それって、嫌味?」

「いいや、ただ俺にとってはあなたは太陽のままだったよ。はじめて会ったときから、きらきらしていた」

「覚えてないわ、昔のこと」

「けど、あんたは俺にとっては太陽のままだよ。月は月できれいだ」

 腕をとって伊田が顔を寄せてきたのに麻須美は驚いた。

 唇が触れられるのに麻須美は呆然とした。

「なにすんのよっ」

「ガキのとき、あんたにもう一度あったら、口説こうと思ってたんだ。いい女だと思った。どうせ、そういう嫌味いう女なんだから、まだフリーだろう?」

「このケダモノ、馬鹿男っ」

 会社でみせていた犬のような従順な笑顔も態度も、ぜんぶ嘘で、この男はケダモノだ。

「雨やんだな。傘はやるよ」

 伊田は麻須美の手に傘を押し付けて歩き出した。

「あんたは、俺にとっては未だに太陽さ。そして、月でもある……そういうところ、昔と違って色気あるぜ。勝気な女は、ただ傲慢でむかつくし、しおらしい女は見ていて苛々する。だから、あんたぐらいの女って好きだよ」

「馬鹿にしてるの」

「鈍感だな、あんた、彼氏に逃げられるぜ」

「なっ」

「図星? はは、ちょうどいいじゃないか」

「馬鹿にしているのね、私だって、本当はもっといい仕事して、もっといいことできたはずなのよ。なのに女だからって」

「あんた、女であることを言い訳にしてるんだろう」

 伊田の言葉に麻須美は顔を真っ赤にした。

「言い訳しまくって、現実みてないだろう? 寂しい女だな、けど、色気はあるよ。やっぱり、あんたはきらきらしてるし」

「馬鹿にしてるの」

 涙があふれ出てきたのに麻須美は伊田を睨んだが、伊田は笑っている。

「そうだよ。ぐっと我慢せず、泣けばいいし、プライドなんかにすがらなくてものにすがってるあんたに嫌味さ……じゃあ、太陽と月におやすみ」

 夜の闇は走っていく伊田の背を麻須美は、じっと見ていた。

「ばかみたい」

 泣きながら麻須美は一人かもしれない、もしかしたら拓也がいるかもしれないマンションに歩きだした。

 胃が痛むことはなかったことだけが救いだった。

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