革命の夜に、

 女は答えを待っていた。今日、自分の元へと彼が来ることはわかっている。手元に置いた赤に満たされたワイングラスを軽く揺らしていると、ぎぃ……ドアが開く音に顔をあげた。彼だと思ったが、違った。

「あら、あなたなの」

 彼はバツ悪い顔をした。自分がここに来てしまったことが間違いだと気が付いているのだ。女の待っていた若い恋人は、革命のために、その身を散らすことも理解して行ってしまった。それをベアチェが知ったのは人伝での昨日だった。

 彼が教えたのだ。

 十を満たないころから戦場にいた男だ。難しいことは考えられないが、単純明快な性格は表裏がなく、嘘も偽りも言わない。なによりも恋人がここに来ていないことが明白な答えだった。消えた恋人を彼は連れてくると言ったのだ。それが来ていない。愛の誓われた指輪を返したのに。

 遠慮がちに入ってきた彼は一度俯いて、唇を開いて閉じた。

 ベアチェはそれを一瞥して首を横に振った。

「いらないわ」

「え」

「帰って」

「……聞かないんですか」

 ベアチェは笑って頷いた。

「意味ないもの」

 彼は咽ながら言った。

「俺が来たのは、あなたと、あなたとの繋がりがあることを隠すためなんです。だって、いま、国王軍に捕まった人たちを解放しようとしているから、だから……この国が腐っているのはあなたも知っているでしょう? 彼はそんな国を立てなおそうとずっと奮闘していた」

「だから」

 氷のように冷たい声でベアチェは冷やかに聞き返した。

 だから?

 いま、ようやく自分が怒り狂っているのだとベアチェは理解した。この現実に彼女は怒りと失望を抱いていた。自分のことを好きだといい、口づけをかわし、永遠という名の未来も誓った男の裏切りに。

 怒りは誓いを返すことで示した、その結果に失望していた。

「仕方ないんです」

「仕方ない?」

「あなたのためなんですよ」

「私の? よしてちょうだい。くだらない」

 彼は必死に言い返した。彼は恋人のことを知っていた。否、その恋人の志に憧れた。貴族らしく学があり、しかし差別をしない、穏やかで、言葉という彼の知らない未知の力を持つ、尊敬できる人だった。

 男がこれからどれだけの危険を冒すか、もしかしたら命だってないかもしれないのを承知して、あえてこういう行動に出なくてはいけなくなったのだと彼は知っていた。なのに、目の前の彼女はそれを少しも理解しようとしない。やはり女なのだ。感情的で、がみがみと男に噛みつき、自分のことしか考えられない。今まで彼の生きてきた人生で、女というものはそんな生き物だった。

 こんな女に愛をささやき、永遠だって誓った男が憐れでならなかった。

「あなたはひどい」

 女は目を眇めて小首を傾げた。

「彼はあなたのことを愛しているからこうしたんですよ。こうするしかなかったんですよ。危険に晒さないために……そんな簡単なこともあなたはわからないんですね。商売女は普通の女以上に頭がない、薄情者だといいますけど、本当だ」

「あっ、そう。で」

 やはりこの女は女で、商売女だ。

「最低だ。もう二度とここには来ません。あなたの顔を見ていると、反吐が出る」

 男は怒りと大切な友人を思い、心が引き裂かれそうになっていた。

 今、胸にあるのはささやかな願いひとつままならないという哀しみだけだった。


 ぱたん、とドアが閉められて女は一人になるとため息をついてワインに口をつけた。 

 一人ぼっちの孤独のなかで涙のようなため息がいくつも溢れ出す。まだ暗い部屋には男の残した怒りのカスが沈殿し、言い知れぬ余韻を残していた。

「じゃあ、誰が私の孤独を癒してくれるのかしら」

 ぽつりと女は最後の怒りを言葉にする。男がこの場に残したのは彼女の薄情さを詰る怒りだけで、一度も彼は女の孤独も、痛みも、自分たちの犯した過ちも理解しようとはしなかった。彼女のなかの怒りや後悔は男の口にした怒りにすべて枯れ果て、もうため息しか零れなくなった。

 今まで何度か、恋人との思考の違いを女は感じていた。そのたびに彼女はそれらのことを仕方がないと諦めた。恋人が自分に頻繁に会いに来ない寂しさも、あえて使いの者を寄越すことも。仕方がない、仕方がないと孤独をやり過ごし、とうとうここまできてしまった。何度も女は自分のことを恋人に告げた、寂しさを憎み、愛しているのだと。それがどう解釈されたのかはわからないが、結局はこうなった。捨てられ、裏切られ、彼ではない者がよってたかって正当化し、怒りと悲しみを詰ってくる。なら、知恵がなく、ただ心のままに愛し、受け入れようとして、女だからと口を噤み、ずっと沈黙を守り続けてきた自分はなんなのだろう。結局、一番大切なときに恋人は何も告げなかった。頼ってくれることも、なにをしてほしいとも、耐えろとも、最後に寄越された男という答え。今度こそ女は捨てられた。恋人はこれでいいと思っているのだろうか、なら私はなんだったのだろうか。恋人だったのだろう。けれど、結局は作り物でしかない。恋人は女よりも大切なものがあった、その大切なものは恋人を女から奪い、正当化してしまう。

「私は、知恵のない、ただの女だけど……これだけはわかるわ」

 あなたの革命は成功するでしょうね、そして、結局は終わるのよ。

 大切なことを一度たりとも告げてもらえなかった。こんなにも傍にいて心を尽くしてきたのに。返してほしいとはいわない。ただ、こんな風に孤独に追い込んでほしくはなかった。

「革命に乾杯」

 成功すればいい。そしてまたこれと同じ過ちを彼らは犯せばいい。すべてはこの夜に。

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